史記 / 魏公子列伝
留軍壁鄴,名為救趙,實持兩端以觀望。平原君使者冠蓋相屬於魏,讓魏公子曰:「勝所以自附為婚姻者,以公子之高義,為能急人之困。今邯鄲旦暮降秦而魏救不至,安在公子能急人之困也!且公子縱輕勝,棄之降秦,獨不憐公子姊邪?」公子患之,數請魏王,及賓客辯士說王萬端。魏王畏秦,終不聽公子。公子自度終不能得之於王,計不獨生而令趙亡,乃請賓客,約車騎百餘乘,欲以客往赴秦軍,與趙俱死。行過夷門,見侯生,具告所以欲死秦軍狀。辭決而行,侯生曰:「公子勉之矣,老臣不能從。」公子行數里,心不快,曰:「吾所以待侯生者備矣,天下莫不聞,今吾且死而侯生曾無一言半辭送我,我豈有所失哉?」復引車還,問侯生。侯生笑曰:「臣固知公子之還也。」曰:「公子喜士,名聞天下。今有難,無他端而欲赴秦軍,譬若以肉投餒虎,何功之有哉?尚安事客?然公子遇臣厚,公子往而臣不送,以是知公子恨之復返也。」公子再拜,因問。侯生乃屏人間語,曰:「嬴聞晉鄙之兵符常在王臥內,而如姬最幸,出入王臥內,力能竊之。嬴聞如姬父為人所殺,如姬資之三年,自王以下欲求報其父仇,莫能得。如姬為公子泣,公子使客斬其仇頭,敬進如姬。
新字:留軍壁鄴,名為救趙,実持両端以観望。平原君使者冠蓋相属於魏,譲魏公子曰:「勝所以自附為婚姻者,以公子之高義,為能急人之困。今邯鄲旦暮降秦而魏救不至,安在公子能急人之困也!且公子縦軽勝,棄之降秦,独不憐公子姊邪?」公子患之,数請魏王,及賓客弁士説王万端。魏王畏秦,終不聴公子。公子自度終不能得之於王,計不独生而令趙亡,乃請賓客,約車騎百余乗,欲以客往赴秦軍,与趙倶死。行過夷門,見侯生,具告所以欲死秦軍状。辞決而行,侯生曰:「公子勉之矣,老臣不能従。」公子行数里,心不快,曰:「吾所以待侯生者備矣,天下莫不聞,今吾且死而侯生曽無一言半辞送我,我豈有所失哉?」復引車還,問侯生。侯生笑曰:「臣固知公子之還也。」曰:「公子喜士,名聞天下。今有難,無他端而欲赴秦軍,譬若以肉投餒虎,何功之有哉?尚安事客?然公子遇臣厚,公子往而臣不送,以是知公子恨之復返也。」公子再拝,因問。侯生乃屏人間語,曰:「嬴聞晋鄙之兵符常在王臥内,而如姫最幸,出入王臥内,力能窃之。嬴聞如姫父為人所殺,如姫資之三年,自王以下欲求報其父仇,莫能得。如姫為公子泣,公子使客斬其仇頭,敬進如姫。
書き下し
軍を留めて鄴に壁し、名は趙を救ふと為し、実は両端を持して以て観望す。平原君の使者の冠蓋魏に相属し、魏の公子を譲めて曰く、「勝の自ら附きて婚姻を為す所以の者は、公子の高義を以て、能く人の困しみに急にすと為せばなり。今、邯鄲旦暮に秦に降らんとして魏の救ひ至らず、安くにか公子の能く人の困しみに急にするに在らん。且つ公子縦ひ勝を軽んじ、これを棄てて秦に降らしむとも、独り公子の姊を憐れまざるか」と。公子これを患へ、数々魏王に請ひ、及び賓客辯士の王に説くこと万端なり。魏王秦を畏れ、終に公子に聴かず。公子自ら度るに終にこれを王に得る能はず、計るに独り生きて趙をして亡ばしめず、乃ち賓客に請ひ、車騎百余乗を約し、客を以て往きて秦の軍に赴き、趙と倶に死せんと欲す。行きて夷門を過ぎ、侯生に見え、具に秦の軍に死せんと欲する所以の状を告ぐ。辞決して行く、侯生曰く、「公子これを勉めよ、老臣は従ふ能はず」と。公子行くこと数里、心快からず、曰く、「吾の侯生を待する所以の者は備はれり、天下聞かざる莫し。今、吾且に死せんとして侯生曾ち一言半辞の我を送る無し、我豈に失ふ所有らんや」と。また車を引きて還り、侯生に問ふ。侯生笑ひて曰く、「臣固より公子の還るを知るなり」と。曰く、「公子士を喜み、名天下に聞こゆ。今難有り、他の端無くして秦の軍に赴かんと欲す、譬へば肉を以て餒虎に投ずるが若し、何の功かこれ有らん。尚ほ安んぞ客を事とせん。然れども公子臣を遇すること厚し、公子往きて臣送らず、是を以て公子これを恨みて復た返るを知るなり」と。公子再拝し、因りて問ふ。侯生乃ち人を屏けて閒語して曰く、「嬴聞く、晋鄙の兵符は常に王の臥内に在り、而して如姫最も幸せられ、王の臥内に出入す、力能くこれを竊まん。嬴聞く、如姫の父は人の殺す所と為り、如姫これを資すること三年、王より以下その父の仇に報ゆることを求めんと欲するも、能く得る莫し。如姫、公子の為に泣く、公子、客をしてその仇の頭を斬らしめ、敬んで如姫に進む。
現代語訳
(魏王は晋鄙の)軍をとどめて鄴に陣を構えさせ、名目は趙を救うとしながら、実際はどちらにもつけるように両天秤をかけて形勢をうかがっていた。平原君の使者は冠と車の覆いが途切れないほど次々に魏へやって来て、魏の公子を責めた。「私が自ら縁を結んで姻戚となったのは、公子が義に厚く、人の苦しみを見れば駆けつけてくれる人だと思ったからだ。いま邯鄲は朝か晩のうちに秦に降伏しようとしているのに、魏の救援は来ない。公子が人の苦しみに駆けつけるというのは、どこにあるのか。それに、公子がたとえ私を軽んじて見捨て、秦に降伏させてもかまわないとしても、公子の姉のことはかわいそうだと思わないのか。」公子はこれに心を痛め、たびたび魏王に願い出、賓客や弁舌の士もあらゆる手を尽くして王を説いた。しかし魏王は秦を恐れて、結局公子の言うことを聞かなかった。公子は、王からは救援の許しを得られないと見きわめ、自分だけが生き残って趙を滅ぼさせることはできないと考え、賓客たちに頼んで車馬百台余りをそろえ、食客たちと共に秦軍に向かい、趙と共に死のうとした。出発して夷門を通りかかると、侯生に会い、秦軍の中で死のうとするわけを詳しく告げた。別れを告げて出発すると、侯生は言った。「公子、しっかりおやりなさい。年寄りの私はお供できない。」公子は数里進んだが、心が晴れず、言った。「私は侯生を十分に手厚くもてなしてきた。天下に知らない者はいないほどだ。いま私が死にに行くというのに、侯生は一言半句のはなむけもしなかった。私に何か落ち度があったのだろうか。」そこで車を引き返して、侯生に尋ねた。侯生は笑って言った。「私は公子が戻ってくることは、もとよりわかっていた。」そして言った。「公子は士を好み、その名は天下に聞こえている。いま難事が起きたのに、ほかに手立てもなく秦軍に向かおうとするのは、たとえれば肉を飢えた虎に投げ与えるようなもので、何の手柄になろうか。それでは何のために食客を養ってきたのか。しかし公子は私を手厚く遇してくれた。公子が行くのに私が見送らなければ、公子はそれを恨んで戻ってくるとわかっていたのだ。」公子は再拝して、策を尋ねた。侯生は人払いをして、ひそかに言った。「晋鄙の兵符(軍を動かす割符)はいつも王の寝室にあり、如姫は最も寵愛されていて王の寝室に出入りしているので、彼女なら盗み出せると聞いている。また如姫の父は人に殺され、如姫は三年もの間、財を費やして仇討ちを求め、王をはじめ誰もが父の仇を討とうとしたが果たせなかったという。如姫が公子に泣いて頼むと、公子は食客に仇の首を斬らせ、恭しく如姫に献じたと聞く。
解説
この章句が説くこと
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