史記 / 魏公子列伝
秦圍邯鄲、公子姊為趙平原君夫人、數請救於魏。魏王使將軍晉鄙救趙、畏秦、留軍壁鄴、名為救趙、實持兩端以觀望。公子欲赴秦軍與趙俱死。行過夷門、見侯生、具告所以欲死秦軍狀。侯生曰、公子勉之矣、老臣不能從。公子行數里、心不快、復引車還。侯生笑曰、臣固知公子之還也。今有難、無他端而欲赴秦軍、譬若以肉投餒虎、何功之有哉。侯生乃屏人閒語曰、嬴聞晉鄙之兵符常在王臥內、而如姬最幸、力能竊之。嬴聞如姬父為人所殺、公子使客斬其仇頭、敬進如姬。如姬之欲為公子死無所辭。公子誠一開口請如姬、則得虎符奪晉鄙軍、北救趙而西卻秦、此五霸之伐也。公子從其計、請如姬。如姬果盜晉鄙兵符與公子。
新字:秦囲邯鄲、公子姊為趙平原君夫人、数請救於魏。魏王使将軍晉鄙救趙、畏秦、留軍壁鄴、名為救趙、実持両端以観望。公子欲赴秦軍与趙俱死。行過夷門、見侯生、具告所以欲死秦軍状。侯生曰、公子勉之矣、老臣不能従。公子行数里、心不快、復引車還。侯生笑曰、臣固知公子之還也。今有難、無他端而欲赴秦軍、譬若以肉投餒虎、何功之有哉。侯生乃屏人閒語曰、嬴聞晉鄙之兵符常在王臥內、而如姬最幸、力能竊之。嬴聞如姬父為人所殺、公子使客斬其仇頭、敬進如姬。如姬之欲為公子死無所辞。公子誠一開口請如姬、則得虎符奪晉鄙軍、北救趙而西卻秦、此五覇之伐也。公子従其計、請如姬。如姬果盗晉鄙兵符与公子。
書き下し
秦邯鄲を囲む。公子の姊趙の平原君の夫人為り、数々救ひを魏に請ふ。魏王将軍晉鄙をして趙を救はしむるも、秦を畏れ、軍を鄴に留めて壁し、名は趙を救ふと為すも、実は両端を持して以て観望す。公子秦軍に赴きて趙と俱に死せんと欲す。行きて夷門を過ぎ、侯生に見え、具に秦軍に死せんと欲する所以の状を告ぐ。侯生曰く、「公子之に勉めよ、老臣従ふ能はず」と。公子行くこと数里、心快からず、復た車を引きて還る。侯生笑ひて曰く、「臣固より公子の還るを知るなり。今難有り、他端無くして秦軍に赴かんと欲するは、譬へば肉を以て餒虎に投ずるがごとし、何の功か之有らんや」と。侯生乃ち人を屏けて間語して曰く、「嬴聞く、晉鄙の兵符常に王の臥内に在り、而して如姬最も幸せられ、力能く之を竊む。嬴聞く、如姬の父人の殺す所と為り、公子客をして其の仇の頭を斬らしめ、敬みて如姬に進む。如姬の公子の為に死せんと欲するは辞する所無し。公子誠に一たび口を開きて如姬に請へば、則ち虎符を得て晉鄙の軍を奪ひ、北のかた趙を救ひて西のかた秦を却けん、此れ五霸の伐なり」と。公子其の計に従ひ、如姬に請ふ。如姬果たして晉鄙の兵符を盗みて公子に与ふ。
現代語訳
「無謀な自己犠牲ではなく、知恵を使って本当の目的を達せよ」——猪突する主君を止め、知略で活路を開く参謀・侯嬐の献策を描いた、名高い「竊符救趙」の一段です。趙が秦に包囲され滅亡寸前となり、姉が趙の平原君夫人である信陵君は、必死に魏王に救援を求めます。しかし魏王は秦を恐れ、派遣した将軍・晉鄙に軍を途中で留めさせ、様子見に徹する。焦った信陵君は、自分の食客たちを率いて秦軍に突撃し、趙とともに死のうと決意します。その途中、侯嬐に別れを告げると、侯嬐は冷たく「お励みなさい、私は同行できません」と突き放す。不審に思って引き返した信陵君に、侯嬐は本音を明かします。「あなたが手勢だけで秦の大軍に突撃するのは、飢えた虎に肉を投げるようなもの。犬死にで、何の成果もない」と。そして具体的な策を授けます。「魏王の軍を動かす兵符(虎符)は、王の寝室にある。王の寵姫・如姬なら盗み出せる。如姬は、殺された父の仇をあなたが討ってくれた大恩がある。頼めば必ず応じる」と。信陵君はこの計略に従い、如姬は兵符を盗み出しました。ここに、二つの重要な教訓があります。第一に、目的を果たすには、感情に任せた無謀な自己犠牲ではなく、冷静な知略が必要だということ。信陵君の「趙とともに死ぬ」という決意は、義侠心としては立派ですが、実際には何の成果も生まない犬死にでした。侯嬐は、その熱意を否定せず、しかし「どうすれば本当に趙を救えるか」という実効性のある方法(正規軍を動かす)へと導いた。志の高さと、それを実現する手段の合理性は、別物です。第二に、過去に施した恩が、いざという時に力になるということ。信陵君が如姬の父の仇討ちに手を貸した恩義が、この危機で兵符という決定的な鍵をもたらした。日頃、見返りを求めずに人に尽くしておくことが、思わぬ形で自分を助ける。組織や事業でも、熱意だけで突っ走らず、目的達成の実効的な手段を冷静に設計すること、そして日頃から人との信頼・恩義を築いておくことが、決定的な局面で活きるのです。