春秋左氏伝 / 昭公十二年 摩厲して以って須つ
楚是以無分。而彼皆有。今周與四國。服事君王。將唯命是從。豈其愛鼎。王曰。昔我皇祖伯父昆吾。舊許是宅。今鄭人貪賴其田。而不我與。我若求之。其與我乎。對曰。與君王哉。周不愛鼎。鄭敢愛田。王曰。昔諸侯遠我而畏晉。今我大城陳蔡不羹。賦皆千乘。子與有勞焉。諸侯其畏我乎。對曰。畏君王哉。是四國者。專足畏也。又加之以楚。敢不畏君王哉。工尹路請曰。君王命剝圭以為鏚柲。敢請命。王入視之。析父謂子革。吾子。楚國之望也。今與王言如響。國其若之何。子革曰。摩厲以須。王出。吾刃將斬矣。
新字:楚是以無分。而彼皆有。今周与四国。服事君王。将唯命是従。豈其愛鼎。王曰。昔我皇祖伯父昆吾。旧許是宅。今鄭人貪頼其田。而不我与。我若求之。其与我乎。対曰。与君王哉。周不愛鼎。鄭敢愛田。王曰。昔諸侯遠我而畏晋。今我大城陳蔡不羹。賦皆千乗。子与有労焉。諸侯其畏我乎。対曰。畏君王哉。是四国者。専足畏也。又加之以楚。敢不畏君王哉。工尹路請曰。君王命剥圭以為鏚柲。敢請命。王入視之。析父謂子革。吾子。楚国之望也。今与王言如響。国其若之何。子革曰。摩厲以須。王出。吾刃将斬矣。
書き下し
楚是を以って分無く、而して彼皆有り。今周と四國と、君王に服事し、將に唯だ命に是れ從はんとす。豈に其れ鼎を愛まんや」と。王曰く、「昔我が皇祖伯父昆吾、舊許に是れ宅す。今鄭人其の田を貪賴して、我に與へず。我若し之を求めば、其れ我に與へんか」と。對へて曰く、「君王に與へんかな。周すら鼎を愛まず、鄭敢へて田を愛まんや」と。王曰く、「昔諸侯我を遠ざけて晉を畏る。今我大いに陳・蔡・不羹に城き、賦皆千乘なり。子も與りて勞有り。諸侯其れ我を畏れんか」と。對へて曰く、「君王を畏れんかな。是の四國なる者、專ら畏るるに足るなり。又之に加ふるに楚を以ってす。敢へて君王を畏れざらんや」と。工尹路請ひて曰く、「君王圭を剝きて以って鏚柲を為らしむ。敢へて命を請ふ」と。王入りて之を視る。析父子革に謂ふ、「吾子は、楚國の望なり。今王と言ふこと響の如し。國其れ之を若何せん」と。子革曰く、「摩厲して以って須つ。王出でなば、吾が刃將に斬らんとす」と。
現代語訳
そのために楚だけが分を受けず、あの国々はみな受けたのです。いまや周と四国は君王に服従してお仕えし、ただ命令に従うばかりでしょう。どうして鼎を惜しみましょうか」。王は言った。「昔、わが遠祖の伯父である昆吾は、旧許の地に住んでいた。いま鄭の人がその田地を貪って自分のものとし、私に渡さない。私がもしこれを求めたら、鄭は私に与えるだろうか」。子革は答えた。「君王に与えましょうとも。周でさえ鼎を惜しまないのに、鄭が田地を惜しむはずがありません」。王は言った。「昔、諸侯は私を遠ざけて晋を恐れていた。いま私は陳・蔡・不羹(東西二城)に大きな城を築き、どこも兵車千乗を出せるようにした。そなたもそれに加わって功労があった。諸侯は私を恐れるだろうか」。子革は答えた。「君王を恐れましょうとも。この四つの城だけでも十分恐ろしいのに、そのうえ楚本国が加わるのです。どうして君王を恐れずにいられましょう」。そこへ工尹(工匠の長)の路が願い出て言った。「君王は圭(玉器)を削って鏚(まさかり)の柄の飾りにせよと命じられました。どのように作るか、ご指示を仰ぎます」。王は奥に入ってそれを見に行った。析父は子革に言った。「あなたは楚国の人望を集める人だ。それなのにいま王との受け答えは、こだまのように王の言葉をそのまま返すばかりだ。これでは国はどうなるのか」。子革は言った。「刃を研いで待っているのだ。王が出てきたら、わが刃で断ち切ってみせよう」。
解説
この章句が説くこと
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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