春秋左氏伝 / 昭公三年 能く敬すれば災無し
秋。七月。鄭罕虎如晉。賀夫人。且告曰。楚人日徵敝邑。以不朝立王之故。敝邑之往。則畏執事。其謂寡君。而固有外心。其不往。則宋之盟云。進退罪也。寡君使虎布之。宣子使叔向對曰。君若辱有寡君。在楚何害。脩宋盟也。君苟思盟。寡君乃知免於戾矣。君若不有寡君。雖朝夕辱於敝邑。寡君猜焉。君實有心。何辱命焉。君其往也。苟有寡君。在楚猶在晉也。張趯使謂大叔曰。自子之歸也。小人糞除先人之敝廬。曰。子其將來。今子皮實來。小人失望。大叔曰。吉賤不獲來。畏大國尊夫人也。且孟曰而將無事。吉庶幾焉。小邾穆公來朝。季武子欲卑之。穆叔曰。不可。曹滕二邾。實不忘我。好敬以逆之。猶懼其貳。又卑一睦焉。逆群好也。其如舊而加敬焉志曰。能敬無災。又曰。敬逆來者。天所福也。季孫從之。
新字:秋。七月。鄭罕虎如晋。賀夫人。且告曰。楚人日徴敝邑。以不朝立王之故。敝邑之往。則畏執事。其謂寡君。而固有外心。其不往。則宋之盟云。進退罪也。寡君使虎布之。宣子使叔向対曰。君若辱有寡君。在楚何害。脩宋盟也。君苟思盟。寡君乃知免於戻矣。君若不有寡君。雖朝夕辱於敝邑。寡君猜焉。君実有心。何辱命焉。君其往也。苟有寡君。在楚猶在晋也。張趯使謂大叔曰。自子之帰也。小人糞除先人之敝廬。曰。子其将来。今子皮実来。小人失望。大叔曰。吉賤不獲来。畏大国尊夫人也。且孟曰而将無事。吉庶幾焉。小邾穆公来朝。季武子欲卑之。穆叔曰。不可。曹滕二邾。実不忘我。好敬以逆之。猶懼其貳。又卑一睦焉。逆群好也。其如旧而加敬焉志曰。能敬無災。又曰。敬逆来者。天所福也。季孫従之。
書き下し
秋、七月、鄭の罕虎晉に如き、夫人を賀す。且つ告げて曰く、「楚人日に敝邑に徵(もと)む、立王に朝せざるの故を以ってなり。敝邑の往くは、則ち執事の其れ寡君を謂ひて固より外心有りとせんことを畏る。其の往かざるは、則ち宋の盟に云へり。進退罪なり。寡君虎をして之を布かしむ」と。宣子叔向をして對へしめて曰く、「君若し辱くも寡君を有(たも)たば、楚に在るも何ぞ害あらん。宋の盟を脩むるなり。君苟くも盟を思はば、寡君乃ち戾を免るるを知らん。君若し寡君を有たずんば、朝夕敝邑に辱くすと雖も、寡君猜はん。君實に心有り、何ぞ命を辱くせん。君其れ往け。苟くも寡君を有たば、楚に在るも猶ほ晉に在るがごとし」と。張趯人をして大叔に謂はしめて曰く、「子の歸りしより、小人先人の敝廬を糞除して曰く、『子其れ將に來らんとす』と。今子皮實に來る。小人望みを失ふ」と。大叔曰く、「吉は賤しくして來るを獲ず。大國を畏れ夫人を尊ぶなり。且つ孟曰く、『而(なんぢ)將に事無からんとす』と。吉庶幾(こひねが)ふ」と。小邾の穆公來朝す。季武子之を卑しめんと欲す。穆叔曰く、「不可なり。曹・滕・二邾は、實に我を忘れず。好敬して以って之を逆ふるも、猶ほ其の貳あらんことを懼る。又一睦を卑しむるは、群好を逆(さか)ふるなり。其れ舊の如くして敬を加へよ。志に曰く、『能く敬すれば災無し』と。又曰く、『來る者を敬逆するは、天の福する所なり』と」。季孫之に從ふ。
現代語訳
秋七月、鄭の罕虎(子皮)が晋に行き、(斉から迎えた)新しい夫人の輿入れを祝った。あわせて(晋の執政に)告げて言った。「楚の人々は毎日のようにわが国を責め立てています。新しく立った楚王にわが君が朝見しないからです。わが国が楚に行けば、晋の執事の方々が、わが君はもともと晋に背く心を持っていたとお考えになるのではないかと恐れます。行かなければ、宋の盟約(晋楚に従う国は双方に朝見するという取り決め)に背くことになります。進んでも退いても罪になります。わが君は私を遣わして、この事情を申し述べさせたのです」。韓宣子は叔向に答えさせて言った。「君がもしわが君を心にかけてくださっているなら、楚に行かれても何の害がありましょう。それは宋の盟約を守ることです。君が盟約を大切に思っておられるなら、わが君も罪を免れることを知るでしょう。君がもしわが君を心にかけていないなら、朝夕わが国においでになっても、わが君は疑うでしょう。君にまことの心があるなら、わざわざお申し出いただくまでもありません。どうか楚へおいでください。わが君を心にかけてくださっているなら、楚にいても晋にいるのと同じです」。張趯は人を遣わして大叔(游吉)に言わせた。「あなたがお帰りになってから、私は先祖伝来のあばら家を掃き清めて、『あの方はきっとまた来られるだろう』と言っておりました。ところが今回は子皮が来られました。私は当てが外れました」。大叔は言った。「私は身分が低いので来ることができませんでした。大国を畏れ、夫人を尊んだからです(それで上卿の子皮が来たのです)。それに孟(張趯)どのは『これからはあなたも用事がなくなるでしょう』とおっしゃいました。私もそうなることを願っております」。小邾の穆公が魯に来朝した。季武子は彼を軽く扱おうとした。穆叔(叔孫豹)は言った。「なりません。曹・滕・邾・小邾は、まことにわが国を忘れずにいてくれます。友好と敬意をもって迎えても、なお離反を恐れるほどです。そのうえ親しい国の一つを軽んじれば、友好国すべての心に逆らうことになります。以前のとおりにし、さらに敬意を加えるべきです。古い記録に『よく敬えば災いがない』とあり、また『来る者を敬って迎えるのは、天が福を与えるところである』とあります」。季孫はそれに従った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 酈生陸賈列伝曰く、「越中には与に語るに足る無し。生の来たるに至りて、我をして日に聞かざる所を聞かしむ」と。陸生に橐中の装、直(あたひ)千金なるを賜ひ、他に送ること亦千金。陸生卒に尉他を拝して南越王と為し、臣と称して漢の約を奉ぜしむ。帰りて報ず。高祖大いに悦び、賈を拝して太中大夫と為す。
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孟子・公孫丑章句下ち不敬是より大なるは莫し。我は堯舜の道に非ざれば、敢て以て王の前に陳ぜず。故に齊の人は我の王を敬するに如くもの莫きなり。」景子曰く、「否。此の謂に非ざるなり。禮に曰く、『父召せば、諾する無し。君命じて召せば、駕するを俟たず。』固より將に朝せんとするなり。王命を聞きて遂に果さず。宜しく夫の禮と相似ざるが如く然るべし。」曰く、「豈に是を謂わんや。曾子曰く、『晉楚の富は、及ぶ可からざるなり。彼は其の富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼は其の爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞ慊せんや。』夫れ豈に不義にして曾子之を言わんや。是れ或は一道なり。天下に達尊三有り。爵一、齒一、德一。朝廷は爵に如くは莫く、ᰰ黨は齒に如くは莫く、世を輔け民に長たるは徳に如くは莫し。惡くんぞ其の一を有して、以て其の二を慢るを得んや。故に將に大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有り。謀ること有らんと欲すれば、則ち之に就く。其の徳を尊び道を樂しむこと、是くの如くならざれば、與に為す有るに足らざるなり。故に湯の伊尹に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして王たり。桓公の管仲に於ける、學びて而る後に之を臣とす。故に勞せずして霸たり。今、天下、地醜(たぐい)し德齊しく、能く相尚(すぎる)ぐるもの無きは、他無し。其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まず。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち敢て召さず。管仲すら且つ猶ほ召す可からず。而るを況んや管仲を為さざる者をや。」
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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『春秋左氏伝』宣公十七年 過ちて改めず夏、斷道に會す、貳けるを討ずるなり。卷楚に盟ひ、齊人を辭す。晉人晏弱を野王に執へ、蔡朝を原に執へ、南郭偃を溫に執ふ。苗賁皇使ひして、晏桓子に見え、歸りて晉侯に言ひて曰く、「夫れ晏子何の罪かある。昔者諸侯吾が先君に事ふるや、皆逮ばざるが如くす。舉げて群臣信ならずと言ひ、諸侯皆貳志有り。齊君禮を得ざらんことを恐る、故に出でずして、四子をして來らしむ。左右或いは之を沮みて曰く、『君出でずんば、必ず吾が使を執へん』と。故に高子斂盂に及びて逃る。夫の三子の者曰く、『若し君の好を絕たば、寧ろ歸りて死せん』と。是が為に難を犯して來る。吾若し善く彼を逆へて、以て來る者を懷けんとすべきに、吾又之を執ふ、以て齊の沮を信にす。吾既に過てるにあらずや。過ちて改めず、而して又之を久しくし、以て其の悔を成す、何の利か之れ有らん。反る者をして辭を得しめて、來る者を害し、以て諸侯を懼れしむ、將に焉くにか之を用ゐん」と。晉人之を緩くす、逸す。
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『韓非子』存韓第二韓の秦に事ふること三十余年、出でては則ち扞蔽と為り、入りては則ち蓆薦と為る。秦特だ鋭師を出だして地を取り、韓之に随ひ、怨みは天下に懸かり、功は強秦に帰す。且つ夫れ韓は貢職を入れ、郡県と異なる無きなり。今臣窃かに貴臣の計を聞くに、兵を挙げて将に韓を伐たんとす。夫れ趙氏は士卒を聚め、従徒を養ひ、天下の兵を贅めんと欲し、秦弱からざれば則ち諸侯必ず宗廟を滅ぼさるるを明らかにし、西面して其の意を行はんと欲す、一日の計に非ざるなり。今趙の患を釈きて、内臣の韓を攘はば、則ち天下趙氏の計を明らかにせん。
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