春秋左氏伝 / 昭公元年 彊にして不義なる者
楚之執事。豈其顧盟。莒之疆事。楚勿與知。諸侯無煩。不亦可乎。莒魯爭鄆。為日久矣。苟無大害於其社稷。可無亢也。去煩宥善。莫不競勸。子其圖之。固請諸楚。楚人許之。乃免叔孫。令尹享趙孟。賦大明之首章。趙孟賦小宛之二章。事畢。趙孟謂叔向曰。令尹自以為王矣。何如。對曰。王弱。令尹彊。其可哉。雖可不終。趙孟曰。何故。對曰。彊以克弱而安之。彊不義也。不義而彊。其斃必速。詩曰。赫赫宗周。褒姒滅之。彊不義也。令尹為王。必求諸侯。晉少懦矣。諸侯將往。若獲諸侯。其虐滋甚。民弗堪也。將何以終。夫以彊取。不義而克。必以為道。道以淫虐。弗可久已矣。
新字:楚之執事。豈其顧盟。莒之疆事。楚勿与知。諸侯無煩。不亦可乎。莒魯争鄆。為日久矣。苟無大害於其社稷。可無亢也。去煩宥善。莫不競勧。子其図之。固請諸楚。楚人許之。乃免叔孫。令尹享趙孟。賦大明之首章。趙孟賦小宛之二章。事畢。趙孟謂叔向曰。令尹自以為王矣。何如。対曰。王弱。令尹彊。其可哉。雖可不終。趙孟曰。何故。対曰。彊以克弱而安之。彊不義也。不義而彊。其斃必速。詩曰。赫赫宗周。褒姒滅之。彊不義也。令尹為王。必求諸侯。晋少懦矣。諸侯将往。若獲諸侯。其虐滋甚。民弗堪也。将何以終。夫以彊取。不義而克。必以為道。道以淫虐。弗可久已矣。
書き下し
楚の執事、豈に其れ盟を顧みんや。莒の疆事は、楚與り知ること勿かれ。諸侯煩はすこと無きは、亦た可ならずや。莒・魯の鄆を爭ふこと、日を為すこと久し。苟くも其の社稷に大害無くんば、亢ぐこと無かるべし。煩を去りて善を宥さば、競ひ勸めざる莫からん。子其れ之を圖れ」と。固く諸を楚に請ふ。楚人之を許し、乃ち叔孫を免す。令尹趙孟を享し、大明の首章を賦す。趙孟小宛の二章を賦す。事畢りて、趙孟叔向に謂ひて曰く、「令尹自ら以て王と為せり。何如」と。對へて曰く、「王弱く、令尹彊し。其れ可ならんか。可なりと雖も終へず」と。趙孟曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「彊以て弱に克ちて之に安んずるは、彊にして不義なり。不義にして彊なれば、其の斃るること必ず速やかなり。詩に曰く、『赫赫たる宗周、褒姒之を滅ぼす』と。彊にして不義なればなり。令尹王と為らば、必ず諸侯を求めん。晉少しく懦なり。諸侯將に往かんとす。若し諸侯を獲ば、其の虐滋〻甚だしからん。民堪へざるなり。將た何を以てか終へん。夫れ彊を以て取り、不義にして克たば、必ず以て道と為さん。淫虐を道とせば、久しかるべからざるのみ」と。
現代語訳
楚の執事の方々も、そのとき盟約を顧みたりはなさらないでしょう。莒の国境の問題には、楚は関わらないでいただきたい。諸侯を煩わせずに済むなら、それもよいではありませんか。莒と魯が鄆を争ってきたのは、もう長い年月にわたることです。もし国家に大きな害がないのであれば、禁じるには及びません。煩わしい事を除き、善い者を赦せば、誰もが競って励むでしょう。どうかよくお考えください」。趙孟は強く楚に請い求めた。楚の人々はこれを許し、叔孫を赦免した。令尹(公子囲)は趙孟を饗応し、『詩』の「大明」の首章を賦した(文王が天命を受けたことを歌う詩で、自らを王になぞらえた)。趙孟は「小宛」の第二章を賦した(天命は二度と来ないと戒める意)。宴が終わると、趙孟は叔向に言った。「令尹は自分を王だと思っている。どうだろうか」。叔向は答えた。「王は弱く、令尹は強い。王位を取れるでしょう。しかし取れたとしても全うはできません」。趙孟が「なぜか」と問うと、叔向は答えた。「強さによって弱い者に勝ち、それに安んじるのは、強くても不義です。不義でありながら強ければ、その倒れるのは必ず速い。『詩』に『盛んであった宗周も、褒姒がこれを滅ぼした』とあるのは、強くても不義だったからです。令尹が王になれば、必ず諸侯の支持を求めるでしょう。晋はいささか弱気になっていますから、諸侯は楚になびくでしょう。もし諸侯を得れば、その暴虐はますますひどくなり、民は堪えられなくなります。どうして全うできましょう。そもそも力ずくで奪い、不義によって勝てば、必ずそれを自分のやり方とするでしょう。淫らで暴虐なやり方を道とすれば、長続きはしないのです」。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』昭公元年 疆場の邑、一彼一此威を畏れて命を敬せり。子若し之を免さば、以て左右を勸めて可なり。若し子の群吏、處りては污を辟けず、出でては難を逃れずんば、其れ何の患か之れ有らん。患の生ずる所は、污れて治めず、難ありて守らざる、由りて來る所なり。是の二者を能くせば、又何をか患へん。其の能を靖んぜずんば、其れ誰か之に從はん。魯の叔孫豹は能と謂ふべし。請ふ之を免して以て能者を靖んぜん。子會して罪有るを赦し、又其の賢を賞せば、諸侯其れ誰か欣ばざらん。楚を望みて之に歸し、遠きを視ること邇きが如くならん。疆場の邑は、一は彼一は此、何の常か之れ有らん。王伯の令や、其の封疆を引きて、之に官を樹て、之に表旗を舉げて、之を制令に著す。過ぐれば則ち刑有るも、猶ほ壹にすべからず。是に於てか虞に三苗有り、夏に觀・扈有り、商に姺・邳有り、周に徐・奄有り。令王無きより、諸侯逐ひて進み、狎れて齊盟を主る。其れ又壹にすべけんや。大を恤へて小を舍かば、以て盟主為るに足る。又焉んぞ之を用ゐん。封疆の削らるる、何れの國か蔑からん。齊盟を主る者、誰か能く焉を辯ぜん。吳・濮釁有らば、
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『春秋左氏伝』昭公元年 叔孫、帯を与へず季武子莒を伐ち、鄆を取る。莒人會に告ぐ。楚晉に告げて曰く、「盟を尋ねて未だ退かざるに、魯莒を伐ち、齊盟を瀆す。請ふ其の使を戮せん」と。樂桓子趙文子に相たり。貨を叔孫に求めんと欲して、之が為に請ふ。帶を請はしむるも與へず。梁其脛曰く、「貨は以て身を藩る。子何ぞ愛しむや」と。叔孫曰く、「諸侯の會は、社稷を衛るなり。我貨を以て免れば、魯必ず師を受けん。是れ之に禍するなり。何の衛ることか之を為さん。人の牆有るは、以て惡を蔽ふなり。牆の隙壞るるは、誰の咎ぞや。衛りて之を惡しくせば、吾又焉より甚だし。季孫を怨むと雖も、魯國何の罪かあらん。叔出でて季處るは、自りて來る有り。吾又誰をか怨みん。然れども鮒や賄なり。與へずんば已まざらん」と。使者を召し、裳帛を裂きて之に與へて曰く、「帶は其れ褊し」と。趙孟之を聞きて曰く、「患ひに臨みて國を忘れざるは、忠なり。難を思ひて官を越えざるは、信なり。國を圖りて死を忘るるは、貞なり。謀るに三者を主とするは、義なり。是の四者有り、又戮すべけんや」と。乃ち諸を楚に請ひて曰く、「魯罪有りと雖も、其の執事は難を辟けず。
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『春秋左氏伝』昭公元年 禹微かりせば吾魚ならん天王劉定公をして趙孟を潁に勞はしむ。雒汭に館す。劉子曰く、「美なるかな禹の功、明德遠し。禹微かりせば、吾其れ魚ならんか。吾子と弁冕端委して、以て民を治め諸侯に臨むは、禹の力なり。子盍ぞ亦た遠く禹の功を績ぎて、大いに民を庇はざる」と。對へて曰く、「老夫は罪戾を是れ懼る。焉んぞ能く遠きを恤へん。吾儕は偷食し、朝に夕を謀らず。何ぞ其れ長からん」と。劉子歸りて以て王に語りて曰く、「諺に所謂『老いて將に知らんとして耄之に及ぶ』とは、其れ趙孟の謂か。晉の正卿と為りて、以て諸侯を主り、而も隸人に儕しくし、朝に夕を謀らず。神人を棄てたり。神怒り民叛かば、何を以てか能く久しからん。趙孟は年を復せざらん。神怒れば其の祀を歆けず、民叛けば其の事に即かず。祀事從はずんば、又何を以てか年あらん」と。叔孫歸る。曾夭季孫に御して以て之を勞ふ。旦より日中に及ぶまで、出でず。曾夭曾阜に謂ひて曰く、「旦より日中に及ぶ。吾罪を知れり。魯は相忍ぶを以て國を為むるなり。其の外に忍びて、其の內に忍ばずんば、焉んぞ之を用ゐん」と。阜曰く、「數月外に於てし、一旦是に於てす。庸ぞ何ぞ傷まん。賈して贏を欲して、囂を惡まんや」と。阜叔孫に謂ひて曰く、「以て出づべし」と。叔孫楹を指して曰く、「是を惡むと雖も、其れ去るべけんや」と。乃ち出でて之に見ゆ。
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『春秋左氏伝』昭公元年 言を以て物を知る三月、甲辰、盟ふ。楚の公子圍服を設け衛を離ぬ。叔孫穆子曰く、「楚の公子美なり、君なるかな」と。鄭の子皮曰く、「二執戈の者前めり」と。蔡の子家曰く、「蒲宮に前有り、亦た可ならずや」と。楚の伯州犁曰く、「此の行や、辭して之を寡君に假れり」と。鄭の行人揮曰く、「假りて反さざらん」と。伯州犁曰く、「子姑く子皙の背誕せんと欲するを憂へよ」と。子羽曰く、「當璧猶ほ在り。假りて反さずとも、子其れ憂ひ無からんや」と。齊の國子曰く、「吾二子に代りて愍ふ」と。陳の公子招曰く、「憂へずんば何ぞ成らん。二子樂しめり」と。衛の齊子曰く、「苟くも或いは之を知らば、憂ふと雖も何ぞ害あらん」と。宋の合左師曰く、「大國令し、小國共す。吾共するを知るのみ」と。晉の樂王鮒曰く、「小旻の卒章善し。吾之に從はん」と。會より退く。子羽子皮に謂ひて曰く、「叔孫は絞にして婉、宋の左師は簡にして禮、樂王鮒は字しみて敬す。子と子家とは之を持す。皆保世の主なり。齊・衛・陳の大夫は、其れ免れざらんか。國子は人に代りて憂ひ、子招は憂ひを樂しみ、齊子は憂ふと雖も害せずとす。夫れ及ばずして憂ふると、憂ふべくして樂しむと、憂へて害せずとするとは、皆憂ひを取るの道なり。憂ひ必ず之に及ばん。大誓に曰く、『民の欲する所は、天必ず之に從ふ』と。三大夫憂ひを兆す、能く至ること無からんや。言以て物を知るとは、其れ是の謂なり」と。
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