春秋左氏伝 / 襄公二十七年 崔氏の滅亡
九月。庚辰。崔成崔彊殺東郭偃。棠無咎。於崔氏之朝。崔子怒而出。其眾皆逃。求人使駕。不得。使圉人駕。寺人御而出。且曰崔氏有福。止余猶可。遂見慶封。慶封曰。崔慶一也。是何敢然。請為子討之。使盧蒲嫳帥甲以攻崔氏。崔氏堞其宮而守之。弗克。使國人助之。遂滅崔氏。殺成與彊而盡俘其家。其妻縊。嫳復命於崔子。且御而歸之。至則無歸矣。乃縊。崔明夜辟諸大墓。辛巳。崔明來奔。慶封當國。楚薳罷如晉蒞盟。晉侯享之。將出。賦既醉。叔向曰。薳氏之有後於楚國也。宜哉。承君命。不忘敏。子蕩將知政矣。敏以事君。必能養民。政其焉往。崔氏之亂。申鮮虞來奔。僕賃於野。以喪莊公。冬。楚人召之。遂如楚為右尹。十一月。乙亥。朔。日有食之。辰在申。司曆過也。再閏失矣。
新字:九月。庚辰。崔成崔彊殺東郭偃。棠無咎。於崔氏之朝。崔子怒而出。其衆皆逃。求人使駕。不得。使圉人駕。寺人御而出。且曰崔氏有福。止余猶可。遂見慶封。慶封曰。崔慶一也。是何敢然。請為子討之。使盧蒲嫳帥甲以攻崔氏。崔氏堞其宮而守之。弗克。使国人助之。遂滅崔氏。殺成与彊而尽俘其家。其妻縊。嫳復命於崔子。且御而帰之。至則無帰矣。乃縊。崔明夜辟諸大墓。辛巳。崔明来奔。慶封当国。楚薳罷如晋莅盟。晋侯享之。将出。賦既酔。叔向曰。薳氏之有後於楚国也。宜哉。承君命。不忘敏。子蕩将知政矣。敏以事君。必能養民。政其焉往。崔氏之乱。申鮮虞来奔。僕賃於野。以喪荘公。冬。楚人召之。遂如楚為右尹。十一月。乙亥。朔。日有食之。辰在申。司暦過也。再閏失矣。
書き下し
九月庚辰、崔成・崔彊、東郭偃・棠無咎を崔氏の朝に殺す。崔子怒りて出づ。其の衆皆逃ぐ。人を求めて駕せしめんとするも、得ず。圉人をして駕せしめ、寺人御して出づ。且つ曰く、「崔氏に福有らば、余に止まるも猶ほ可なり」と。遂に慶封に見ゆ。慶封曰く、「崔・慶は一なり。是れ何ぞ敢へて然せん。請ふ子の為に之を討たん」と。盧蒲嫳をして甲を帥ゐて以て崔氏を攻めしむ。崔氏、其の宮に堞して之を守る。克たず。國人をして之を助けしめ、遂に崔氏を滅ぼす。成と彊とを殺して盡く其の家を俘にす。其の妻縊る。嫳、崔子に復命し、且つ御して之を歸す。至れば則ち歸する無し。乃ち縊る。崔明、夜、諸を大墓に辟く。辛巳、崔明來奔す。慶封、國に當たる。楚の薳罷、晉に如きて盟に蒞む。晉侯之を享す。將に出でんとして、既醉を賦す。叔向曰く、「薳氏の楚國に後有るや、宜なるかな。君命を承けて、敏を忘れず。子蕩將に政を知らんとす。敏以て君に事ふれば、必ず能く民を養はん。政其れ焉くにか往かん」と。崔氏の亂に、申鮮虞來奔し、野に僕賃して、以て莊公に喪す。冬、楚人之を召す。遂に楚に如きて右尹と為る。十一月乙亥朔、日之を食する有り。辰、申に在り。司曆の過ちなり。再び閏を失へり。
現代語訳
九月庚辰の日、崔成と崔彊は東郭偃と棠無咎を崔氏の屋敷の政庁で殺した。崔杼(崔子)は怒って屋敷を出たが、配下の者たちは皆逃げてしまった。車を仕立てさせる人を探したが見つからない。馬丁に馬をつながせ、宦官に御させて出た。そして言った。「崔氏にまだ福が残っているなら、禍が私一人で止まってくれればまだよい」。こうして慶封に会った。慶封は言った。「崔氏と慶氏は一つです。あの者たちがどうしてこんなことをしでかすのか。あなたのために討たせてください」。慶封は盧蒲嫳に兵を率いて崔氏を攻めさせた。崔氏の者たちは屋敷に城壁の姫垣を築いて守り、攻め落とせなかった。そこで国人(都の人々)に加勢させ、ついに崔氏を滅ぼした。成と彊を殺し、その家の者をことごとく捕虜にした。崔杼の妻(東郭姜)は首をくくって死んだ。盧蒲嫳は崔杼に復命し、さらに自ら車を御して彼を家まで送り届けた。着いてみると、帰るべき家はもう無かった。崔杼はそこで首をくくって死んだ。崔明は夜のうちに一族の墓所に身を隠し、辛巳の日、魯に亡命して来た。慶封が斉の国政を担うことになった。楚の薳罷(いひ、字は子蕩)が晋へ行き、盟約に臨んだ。晋侯(平公)は彼をもてなした。退出しようとするとき、薳罷は「既醉」(酒に酔い徳に満ちたと主人をたたえる詩)を賦した。叔向は言った。「薳氏が楚の国で子孫を保つのも、もっともなことだ。君命を受けて、機敏であることを忘れない。子蕩はいずれ政治をつかさどるだろう。機敏に君に仕えるなら、必ず民を養うことができる。政権がほかのどこへ行くというのか」。崔氏の乱の際(荘公が殺されたとき)、申鮮虞は魯に亡命して来て、田舎で人に雇われて御者をしながら、荘公のために喪に服していた。この冬、楚の人が彼を招き、彼は楚に行って右尹となった。十一月乙亥の朔日、日食があった。北斗の柄が指す方位(辰)は申の方角にあった。これは暦を司る官の誤りである。閏月を二度入れ損なっていたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 崔氏の家督争い「彼の己の子は、邦の司直なり」とは、樂喜の謂か。「何を以て我を恤(めぐ)まん、我其れ之を收めん」とは、向戌の謂か」と。齊の崔杼、成及び彊を生みて寡(やもめ)となる。東郭姜を娶り、明を生む。東郭姜、孤を以て入る、棠無咎と曰ふ。東郭偃と崔氏に相たり。崔成、病有りて之を廢し、而して明を立つ。成、崔に老いんことを請ふ。崔子之を許す。偃と無咎と予へずして曰く、「崔は宗邑なり、必ず宗主に在り」と。成と彊と怒り、將に之を殺さんとす。慶封に告げて曰く、「夫子の身は、亦た子の知る所なり。唯だ無咎と偃とに是れ從ひ、父兄進むを得る莫し。大いに夫子を害せんことを恐る。敢へて以て告ぐ」と。慶封曰く、「子姑く退け、吾之を圖らん」と。盧蒲嫳に告ぐ。盧蒲嫳曰く、「彼は君の讎なり。天或いは將に彼を棄てんとす。彼實に家亂る、子何ぞ病へん。崔の薄きは、慶の厚きなり」と。他日又告ぐ。慶封曰く、「苟も夫子に利あらば、必ず之を去れ。難あらば吾女(なんぢ)を助けん」と。
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『春秋左氏伝』襄公二十五年 崔杼、棠姜を娶る二十五年春、齊の崔杼師を帥ゐて我が北鄙を伐つ、以って孝伯の師に報ゆるなり。公之を患ひ、晉に告げしむ。孟公綽曰く、「崔子將に大志有らんとす。我を病ましむるに在らず。必ず速やかに歸らん。何ぞ患へん。其の來るや寇せず、民を使ふこと嚴ならず、他日に異なり」と。齊師徒に歸る。齊の棠公の妻は、東郭偃の姊なり。東郭偃崔武子に臣たり。棠公死す。偃武子に御して以って焉に弔す。棠姜を見て之を美とし、偃をして之を取らしめんとす。偃曰く、「男女は姓を辨ず。今君は丁より出で、臣は桓より出づ。不可なり」と。武子之を筮し、困の大過に之くに遇ふ。史皆吉と曰ふ。陳文子に示す。文子曰く、「夫は風に從ひ、風は妻を隕す。聚(めと)る可からざるなり。且つ其の繇に曰く、『石に困しみ、蒺梨に據る。其の宮に入りて、其の妻を見ず。凶』と。石に困しむは、往きて濟らざるなり。蒺梨に據るは、恃む所傷つくなり。其の宮に入りて其の妻を見ず、凶なるは、歸する所無きなり」と。崔子曰く、「嫠なり、何ぞ害あらん。先夫之に當たれり」と。遂に之を取る。莊公焉に通じ、驟々崔氏に如く。崔子の冠を以って人に賜ふ。侍者曰く、「不可なり」と。公曰く、「崔子為らずとも、其れ冠無からんや」と。崔子是に因り、又其の晉を伐ちし間を以って、曰く、「晉必ず將に報いんとす」と。公を弒して以って晉に說かんと欲すれども、間を獲ず。公侍人賈舉を鞭ちて、而も又之に近づく。乃ち崔子の為に公を間す。
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史記 斉太公世家景公立ち、崔杼を以て右相と為し、慶封を左相と為す。二相、乱の起らんことを恐れ、乃ち国人と盟ひて曰く、「崔・慶に与せざる者は死せん」と。晏子天を仰ぎて曰く、「嬰の唯君に忠にして社稷を利する者に是れ従はざる所の者有らば」と。盟ふを肯ぜず。慶封、晏子を殺さんと欲す。崔杼曰く、「忠臣なり、之を舎け」と。斉の太史書して曰く「崔杼、荘公を弑す」と。崔杼之を殺す。其の弟復た書す。崔杼復た之を殺す。少弟復た書す。崔杼乃ち之を舎く。景公の元年、初め、崔杼、子成及び彊を生む。其の母死し、東郭の女を取りて、明を生む。東郭の女、其の前夫の子無咎と其の弟偃とをして崔氏に相たらしむ。成に罪有り、二相急に之を治め、明を立てて太子と為す。成、崔に老せんことを請ふ。崔杼之を許すも、二相聴かずして、曰く、「崔は宗邑なり、不可なり」と。成・彊怒り、慶封に告ぐ。慶封、崔杼と郤有り、其の敗れんことを欲す。成・彊、無咎・偃を崔杼の家に殺す。家皆奔亡す。崔杼怒るも、人無く、一宦者をして御せしめて、慶封に見ゆ。慶封曰く、「請ふ子の為に之を誅せん」と。崔杼の仇盧蒲嫳をして崔氏を攻めしめ、成・彊を殺し、尽く崔氏を滅す。崔杼の婦自殺す。崔杼帰る毋く、亦自殺す。慶封、相国と為り、権を専らにす。三年十月、慶封出でて猟す。初め、慶封已に崔杼を殺し、益々驕り、酒を嗜み猟を好み、政令を聴かず。慶舎、政を用ひ、已に内に郤有り。田文子、桓子に謂ひて曰く、「乱将に作らんとす」と。田・鮑・高・欒氏、相与に慶氏を謀る。慶舎、甲を発して慶封の宮を囲む。四家の徒共に撃ちて之を破る。慶封還るも、入るを得ず、魯に奔る。斉人、魯を譲む。封、呉に奔る。呉、之に朱方を与へ、其の族を聚めて之に居らしむ。斉に在りしより富めり。其の秋、斉人、荘公を徙し葬り、崔杼の尸を市に僇して以て衆に説ぶ。九年、景公、晏嬰をして晋に之かしむ。叔向と私語して曰く、「斉の政は卒に田氏に帰せん。
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『春秋左氏伝』襄公二十五年 崔杼、荘公を弑す夏、五月、莒子且于の役の為の故に、莒子齊に朝す。甲戌、諸を北郭に饗す。崔子疾と稱して事を視ず。乙亥、公崔子を問ひ、遂に姜氏に從ふ。姜室に入り、崔子と側戶より出づ。公楹を拊ちて歌ふ。侍人賈舉眾從者を止めて、入りて門を閉づ。甲興る。公臺に登りて請ふ。許さず。盟を請ふ。許さず。廟に自刃せんと請ふ。許さず。皆曰く、「君の臣杼疾病にして、命を聽くこと能はず。公宮に近し。陪臣干掫して淫者有り、二命を知らず」と。公牆を踰ゆ。又之を射て、股に中つ。反りて隊つ。遂に之を弒す。賈舉・州綽・邴師・公孫敖・封具・鐸父・襄伊・僂堙、皆死す。祝佗父高唐に祭る。至りて復命し、弁を說かずして崔氏に死す。申蒯は漁を侍る者なり。退きて其の宰に謂ひて曰く、「爾は帑を以って免れよ。我は將に死せんとす」と。其の宰曰く、「免れば、是れ子の義に反するなり」と。之と皆死す。
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『春秋左氏伝』宣公十年 徴舒、汝に似たり春、公齊に如く。齊侯我が服するを以っての故に、濟西の田を歸す。夏、齊の惠公卒す。崔杼惠公に寵有り、高・國其の偪(せま)るを畏るるなり。公卒して之を逐ふ。衞に奔る。書して「崔氏」と曰ふは、其の罪に非ざるなり。且つ告ぐるに族を以ってし、名を以ってせず。凡そ諸侯の大夫違(さ)るときは、諸侯に告げて曰く、「某氏の守臣某、宗廟を守るを失ふ、敢へて告ぐ」と。玉帛の使ひ有る所の者には則ち告げ、然らざれば則ち否。公齊に如きて喪に奔る。陳の靈公孔寧・儀行父と、夏氏に酒を飲む。公行父に謂ひて曰く、「徵舒汝に似たり」と。對へて曰く、「亦た君に似たり」と。徵舒之を病む。公出づ。其の廄より射て之を殺す。二子楚に奔る。滕人晉を恃みて宋に事へず。六月、宋師滕を伐つ。鄭楚と平らぐ。諸侯の師鄭を伐ち、成を取りて還る。秋、劉康公來りて報聘す。師邾を伐ち、繹を取る。季文子初めて齊に聘す。冬、子家齊に如く、邾を伐ちし故なり。國武子來りて報聘す。楚子鄭を伐つ。晉の士會鄭を救ひ、楚師を潁北に逐ふ。諸侯の師鄭を戍る。鄭の子家卒す。鄭人幽公の亂を討じ、子家の棺を斲(けづ)りて其の族を逐ひ、幽公を改葬し、之に諡して靈と曰ふ。
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呂氏春秋・愼行③崔杼、慶封と齊の莊公を謀殺す。莊公死して、更に景公を立て、崔杼之に相たり。慶封、又崔杼を殺して之に代りて相たらんと欲す。是に於て崔杼の子を椓し、之をして後を爭わしむ。崔杼の子相與に私闀す。崔杼往きて慶封に見えて之を告ぐ。慶封、崔杼に謂いて曰く、「且く留まれ。吾將に甲を興して以て之を殺さんとす。」因りて盧滿嫳をして甲を興して以て之を誅し、盡く崔杼の妻子及び枝屬を殺し、其の室屋を燒かしむ。崔杼に報じて曰く、「吾已に之を誅せり。」崔杼歸るに歸るところ無く、因りて自絞す。慶封、景公に相たり。景公之に苦しむ。慶封、獵に出づるに、景公、陳無宇・公孫竈・公孫蠆と、封を誅せんとす。慶封、其の屬を以て鬭うも勝たず。走りて魯に如く。齊人以て讓を為す。又魯を去りて呉に如く。王、之に朱方を予う。荊の靈王、之を聞き、諸侯を率いて以て呉を攻め、朱方を圍み、之を拔き、慶封を得て、之に斧質を負わしめ、以て諸侯の軍に徇り、因りて其れをして之を呼ばしめて曰く、「齊の慶封の如く、其の君を弒して其の孤を弱しとし、以て其の大夫に亡せしむること或る毋かれ。」乃ち之を殺す。黄帝の貴くして死す、堯・舜の賢にして死す、孟賁の勇にして死す。人は固より皆死す。慶封の若き者は、死を重ぬと謂う可し。身は僇と為り、支屬は以て完うす可からず。忮を行うの故なり。凡そ亂人の動くや、其の始めは相助くも、後必ず相惡む。義を為す者は則ち然らず、始めにして相與にし、久しくして相信じ、卒わりにして相親しみ、後世以て法程と為す。
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