春秋左氏伝 / 襄公十年 欒黶の独進
諸侯之師。城虎牢而戍之。晉師城梧及制。士魴。魏絳。戍之。書曰。戍鄭虎牢。非鄭地也。言將歸焉。鄭及晉平。楚子囊救鄭。十一月。諸侯之師還鄭而南。至於陽陵。楚師不退。知武子欲退。曰。今我逃楚。楚必驕。驕則可與戰矣。欒黶曰。逃楚。晉之恥也。合諸侯以益恥。不如死。我將獨進。師遂進。己亥。與楚師夾潁而軍。子蟜曰。諸侯既有成行。必不戰矣。從之將退。不從亦退。退楚必圍我。猶將退也。不如從楚。亦以退之。霄涉潁。與楚人盟。欒黶欲伐鄭師。荀罃不可。曰。我實不能禦楚。又不能庀鄭。鄭何罪。不如致怨焉而還。今伐其師。楚必救之。戰而不克。為諸侯笑。克不可命。不如還也。丁未。諸侯之師還。侵鄭北鄙而歸。楚人亦還。
新字:諸侯之師。城虎牢而戍之。晋師城梧及制。士魴。魏絳。戍之。書曰。戍鄭虎牢。非鄭地也。言将帰焉。鄭及晋平。楚子嚢救鄭。十一月。諸侯之師還鄭而南。至於陽陵。楚師不退。知武子欲退。曰。今我逃楚。楚必驕。驕則可与戦矣。欒黶曰。逃楚。晋之恥也。合諸侯以益恥。不如死。我将独進。師遂進。己亥。与楚師夾潁而軍。子蟜曰。諸侯既有成行。必不戦矣。従之将退。不従亦退。退楚必囲我。猶将退也。不如従楚。亦以退之。霄渉潁。与楚人盟。欒黶欲伐鄭師。荀罃不可。曰。我実不能禦楚。又不能庀鄭。鄭何罪。不如致怨焉而還。今伐其師。楚必救之。戦而不克。為諸侯笑。克不可命。不如還也。丁未。諸侯之師還。侵鄭北鄙而帰。楚人亦還。
書き下し
諸侯の師、虎牢に城きて之を戍る。晉の師、梧及び制に城き、士魴・魏絳之を戍る。書して「鄭の虎牢を戍る」と曰ふは、鄭の地に非ざるなり。將に歸さんとするを言ふなり。鄭、晉と平ぐ。楚の子囊、鄭を救ふ。十一月、諸侯の師、鄭を還りて南し、陽陵に至る。楚の師退かず。知武子退かんと欲して曰く、「今、我楚を逃れば、楚必ず驕らん。驕らば則ち與に戰ふべし」と。欒黶曰く、「楚を逃るるは、晉の恥なり。諸侯を合せて以て恥を益さんよりは、死するに如かず。我將に獨り進まんとす」と。師遂に進む。己亥、楚の師と潁を夾みて軍す。子蟜曰く、「諸侯既に行を成す、必ず戰はざらん。之に從ふも將に退かんとし、從はざるも亦た退かん。退かば楚必ず我を圍まん。猶ほ將に退かんとす。楚に從ひて、亦た以て之を退かしむるに如かず」と。霄に潁を涉り、楚人と盟ふ。欒黶、鄭の師を伐たんと欲す。荀罃可かずして曰く、「我實に楚を禦ぐ能はず、又鄭を庀(かば)ふ能はず。鄭何の罪かあらん。怨みを致して還るに如かず。今其の師を伐たば、楚必ず之を救はん。戰ひて克たずんば、諸侯の笑ひと為らん。克つは命ずべからず。還るに如かざるなり」と。丁未、諸侯の師還り、鄭の北鄙を侵して歸る。楚人も亦た還る。
現代語訳
諸侯の軍は虎牢に城を築いてそこを守備した。晋の軍は梧と制に城を築き、士魴と魏絳がそこを守備した。『春秋』が「鄭の虎牢を戍る」と記しているのは、虎牢はこの時すでに鄭の地ではなかったが、いずれ鄭に返すつもりであることを言っているのである。鄭は晋と講和した。楚の子囊は鄭を救援した。十一月、諸侯の軍は鄭を巡って南下し、陽陵に至った。楚の軍は退かなかった。知武子(荀罃)は退こうとして言った。「今、我々が楚を避けて退けば、楚は必ず驕るだろう。驕ったならば、そこで戦えばよい」。欒黶(らんえん)は言った。「楚を避けて逃げるのは、晋の恥です。諸侯を集めておきながら恥を上塗りするくらいなら、死んだほうがましです。私は一人でも進みます」。そこで軍はついに進んだ。己亥の日、楚の軍と潁水を挟んで陣を敷いた。鄭の子蟜は言った。「諸侯はもう引き揚げの支度を整えている。きっと戦わないだろう。我々が晋に従っても晋は退き、従わなくても晋は退く。晋が退けば、楚は必ず我々を包囲するだろう。どうせ晋は退くのだから、楚に従って、楚にも退いてもらうほうがよい」。夜、鄭は潁水を渡り、楚の人と盟約を結んだ。欒黶は鄭の軍を討とうとした。荀罃は許さずに言った。「我々は実際、楚を防ぐこともできず、鄭をかばうこともできなかった。鄭に何の罪があろうか。鄭の恨みを受けて帰るほうがまだよい。今、鄭の軍を討てば、楚は必ずこれを救うだろう。戦って勝てなければ、諸侯の笑いものになる。勝つことは思うようには命じられない。帰るほうがよい」。丁未の日、諸侯の軍は引き揚げ、鄭の北の辺境に侵攻してから帰国した。楚の人々も引き揚げた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 張耳陳余列伝貫高独り怒り罵りて曰く、「誰か公をして之を為さしめし。今王実に謀無くして、并せて王を捕ふ。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん」と。乃ち轞車に膠致せられ、王と長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち趙の群臣賓客に詔すらく、敢て王に従ふ有らば皆族せんと。貫高と客孟舒等十余人と、皆自ら髡鉗し、王の家奴と為りて従ひ来たる。貫高至り、獄に対へて曰く、「独り吾が属之を為す。王実に知らず」と。吏治めて榜笞すること数千、刺剟して、身に撃つべき者無きも、終に復た言はず。呂后数々言ふ、張王は魯元公主の故を以て、宜しく此れ有るべからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に拠らしめば、豈に而が女を少しとせんや」と。聴かず。廷尉貫高の事の辞を以て聞す。上曰く、「壮士なり。誰か知る者ぞ。私を以て之に問へ」と。中大夫泄公曰く、「臣の邑子にして、素より之を知る。此れ固より趙国の名義を立てて侵されず、然諾を為す者なり」と。上泄公をして節を持して之に箯輿の前に問はしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公労苦すること生平の驩の如く、与に語り、張王果して計謀有りや不やを問ふ。高曰く、「人情寧ぞ各々其の父母妻子を愛せざらんや。今吾が三族皆以て死に論ぜらる。豈に王を以て吾が親に易へんや。顧ふに王実に反せず、独り吾等之を為せり」と。具に本指の為す所以と王の知らざる状とを道ふ。是に於て泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。上貫高の人と為り能く然諾を立つるを賢とし、泄公をして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出でたり」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審らかに出でたるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上足下を多とす。故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せずして一身に余無き所以の者は、張王の反せざるを白さんとすればなり。今王已に出づ。吾が責已に塞がる。死すとも恨みず。且つ人臣として篡殺の名有り、何の面目ありて復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰ぎて骯を絶ち、
-
論語・衛霊公篇子曰わく、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む。
-
論語・季氏篇孔子曰く、禄の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫、微なり。
-
論語・憲問篇子曰く、「我を知ること莫きかな。」子貢曰く、「何為れぞ其れ子を知ること莫からんや。」子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は、其れ天か。」
-
論語・里仁篇子曰わく、父母在すれば、遠く遊ばず。遊ぶに必ず方有り。
-
史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る