春秋左氏伝 / 成公十七年 葵すら足を衛る
秋。七月。壬寅。刖鮑牽而逐高無咎。無咎奔莒。高弱以盧叛。齊人來召鮑國而立之。初。鮑國去鮑氏而來。為施孝叔臣。施氏卜宰。匡句須吉。施氏之宰。有百室之邑與匡句須邑。使為宰以讓鮑國而致邑焉。施孝叔曰。子實吉。對曰。能與忠良。吉孰大焉。鮑國相施氏忠。故齊人取以為鮑氏。後仲尼曰。鮑莊子之知不如葵。葵猶能衛其足。冬。諸侯伐鄭。十月。庚午。圍鄭。楚公子申救鄭。師于汝上。十一月。諸侯還。初。聲伯夢涉洹。或與己瓊瑰食之。泣而為瓊瑰。盈其懷。從而歌之曰。濟洹之水。贈我以瓊瑰。歸乎歸乎。瓊瑰盈吾懷乎。懼不敢占也。還自鄭。壬申。至于貍脤而占之。曰。余恐死。故不敢占也。今眾繁而從余三年矣。無傷也。言之之莫而卒。齊侯使崔杼為大夫。使慶克佐之。帥師圍盧。國佐從諸侯圍鄭。以難請而歸。遂如盧師。殺慶克以穀叛。齊侯與之盟于徐關而復之。
新字:秋。七月。壬寅。刖鮑牽而逐高無咎。無咎奔莒。高弱以盧叛。斉人来召鮑国而立之。初。鮑国去鮑氏而来。為施孝叔臣。施氏卜宰。匡句須吉。施氏之宰。有百室之邑与匡句須邑。使為宰以譲鮑国而致邑焉。施孝叔曰。子実吉。対曰。能与忠良。吉孰大焉。鮑国相施氏忠。故斉人取以為鮑氏。後仲尼曰。鮑荘子之知不如葵。葵猶能衛其足。冬。諸侯伐鄭。十月。庚午。囲鄭。楚公子申救鄭。師于汝上。十一月。諸侯還。初。声伯夢渉洹。或与己瓊瑰食之。泣而為瓊瑰。盈其懐。従而歌之曰。済洹之水。贈我以瓊瑰。帰乎帰乎。瓊瑰盈吾懐乎。懼不敢占也。還自鄭。壬申。至于貍脤而占之。曰。余恐死。故不敢占也。今衆繁而従余三年矣。無傷也。言之之莫而卒。斉侯使崔杼為大夫。使慶克佐之。帥師囲盧。国佐従諸侯囲鄭。以難請而帰。遂如盧師。殺慶克以穀叛。斉侯与之盟于徐関而復之。
書き下し
秋、七月、壬寅、鮑牽を刖りて高無咎を逐ふ。無咎莒に奔る。高弱盧を以って叛く。齊人來りて鮑國を召して之を立つ。初め、鮑國鮑氏を去りて來り、施孝叔の臣と為る。施氏宰を卜す。匡句須吉なり。施氏の宰は、百室の邑有り。匡句須に邑を與へて、宰と為さしむ。以って鮑國に讓りて邑を致す。施孝叔曰く、「子實に吉なり」と。對へて曰く、「能く忠良に與ふ、吉孰れか大ならん」と。鮑國施氏に相として忠なり。故に齊人取りて以って鮑氏の後と為す。仲尼曰く、「鮑莊子の知は葵に如かず。葵すら猶ほ能く其の足を衞る」と。冬、諸侯鄭を伐つ。十月、庚午、鄭を圍む。楚の公子申鄭を救ひ、汝上に師す。十一月、諸侯還る。初め、聲伯洹を涉り、或ひと己に瓊瑰を與へて之を食はしめ、泣きて瓊瑰と為り、其の懷に盈つるを夢む。從ひて之を歌ひて曰く、「洹の水を濟れば、我に贈るに瓊瑰を以ってす。歸らんか歸らんか、瓊瑰吾が懷に盈てり」と。懼れて敢へて占はず。鄭より還り、壬申、貍脤に至りて之を占ひて曰く、「余死を恐る、故に敢へて占はざりき。今眾繁くして余に從ふこと三年なり。傷む無からん」と。之を言ひて、莫に之きて卒す。齊侯崔杼をして大夫為らしめ、慶克をして之に佐たらしめ、師を帥ゐて盧を圍む。國佐諸侯に從ひて鄭を圍み、難を以って請ひて歸る。遂に盧の師に如き、慶克を殺し、穀を以って叛く。齊侯之と徐關に盟ひて之を復す。
現代語訳
秋七月壬寅の日、斉は鮑牽の足を断つ刑に処し、高無咎を追放した。高無咎は莒に奔った。その子の高弱は盧の邑に拠って背いた。斉の人々は魯に来て、鮑牽の弟の鮑国を呼び戻し、鮑氏の後継ぎに立てた。これより前、鮑国は鮑氏の家を出て魯に来て、施孝叔(魯の大夫)の家臣になっていた。施氏が家宰を誰にするかを占ったところ、匡句須が吉と出た。施氏の家宰には百戸の邑が付いていた。そこで匡句須に邑を与えて家宰にしたが、匡句須はその職を鮑国に譲り、邑も差し出した。施孝叔が言った。「占いで吉と出たのはあなたなのだが」。匡句須は答えた。「忠良な人に譲ることができた。これ以上の吉がありましょうか」。鮑国は施氏の家宰として忠実に仕えた。それで斉の人々は彼を迎えて鮑氏の後継ぎとしたのである。仲尼(孔子)は言った。「鮑荘子(鮑牽)の知恵は葵にも及ばなかった。葵でさえ葉を傾けて自分の根元を守ることができるのに」。冬、諸侯は鄭を討った。十月庚午の日、鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を救い、汝水のほとりに陣を張った。十一月、諸侯は引き上げた。これより前、声伯(子叔声伯)は洹水を渡る夢を見た。ある人が自分に美しい玉を与えて食べさせ、泣くと涙が玉となって、懐に満ちあふれた。それに合わせて歌った。「洹の水を渡れば、私に玉を贈ってくれる。帰ろうか帰ろうか、玉が私の懐に満ちている」。声伯は(死者の口に玉を含ませる葬礼を連想して)恐ろしくなり、占わせることができなかった。鄭から帰る途中、壬申の日に貍脤に着いて、はじめてこれを占わせて言った。「私は死を恐れて、これまで占わせなかった。いまは従う者も多く、あの夢から三年たっている。もう差し支えはあるまい」。それを話したその日の夕方に亡くなった。斉侯(霊公)は崔杼を大夫とし、慶克をその補佐として、軍を率いて盧を包囲させた。国佐は諸侯に従って鄭を包囲していたが、国内の難を理由に願い出て帰国し、そのまま盧を囲む軍に行って慶克を殺し、穀の邑に拠って背いた。斉侯は国佐と徐関で盟約を結び、その地位を元に戻した。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公二十一年 欒祁の讒訴齊侯慶佐をして大夫と為さしむ。復た公子牙の黨を討じ、公子買を句瀆の丘に執ふ。公子鉏來奔す。叔孫還燕に奔る。夏、楚の子庚卒す。楚子薳子馮をして令尹と為さしめんとし、申叔豫に訪ふ。叔豫曰く、「國に寵多くして王弱し。國為む可からざるなり」と。遂に疾を以って辭す。方に暑きに、地を闕(ほ)りて冰を下し、而して床す。繭を重ね裘を衣、食を鮮(すく)なくして寢ぬ。楚子醫をして之を視しむ。復して曰く、「瘠(や)すること則ち甚だし。而れども血氣未だ動かず」と。乃ち子南をして令尹と為さしむ。欒桓子范宣子に娶りて、懷子を生む。范鞅其の亡げしを以って、欒氏を怨む。故に欒盈と公族大夫と為りて、相能くせず。桓子卒す。欒祁其の老州賓と通じ、幾ど室を亡ぼさんとす。懷子之を患ふ。祁其の討を懼れ、諸を宣子に愬へて曰く、「盈將に亂を為さんとす。范氏を以って桓主を死なしめて政を專らにすと為せり。曰く、『吾が父鞅を逐ふや、怒らずして寵を以って之に報ゆ。又吾と官を同じくして之を專らにす。吾が父死して益々富む。吾が父を死なしめて國に專らなり。死有るのみ、吾之に從ふこと蔑(な)からん』と。其の謀是くの如し。主を害せんことを懼る。吾敢へて言はずんばあらず」と。范鞅之が徵を為す。懷子施しを好み、士多く之に歸す。宣子其の士の多きを畏れ、之を信ず。懷子下卿為り。宣子著に城かしめて遂に之を逐ふ。
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史記 韓信盧綰列伝漢の五年の冬、項籍を破るを以て、乃ち盧綰をして別将たらしめ、劉賈と臨江王共尉を撃たしめ、之を破る。七月還り、従ひて燕王臧荼(ぞうと)を撃ち、臧荼降る。高祖已に天下を定むるに、諸侯の劉氏に非ずして王たる者七人。盧綰を王とせんと欲するも、群臣の觖望(けつぼう)を為す。臧荼を虜にするに及び、乃ち詔を諸将相・列侯に下し、群臣の功有る者を択びて以て燕王と為さしむ。群臣上の盧綰を王とせんと欲するを知り、皆言ひて曰く、「太尉長安侯盧綰は常に従ひて天下を平定し、功最も多し。燕に王たるべし」と。詔して之を許す。漢の五年八月、乃ち虜綰を立てて燕王と為す。諸侯王の幸を得ること燕王に如くは莫し。漢の十一年の秋、陳豨代の地に反す。高祖邯鄲に如きて豨の兵を撃ち、燕王綰も亦其の東北を撃つ。是の時に当たり、陳豨王黄をして救ひを匈奴に求めしむ。燕王綰も亦其の臣張勝を匈奴に使はし、豨等の軍破れたりと言はしむ。張勝胡に至るに、故の燕王臧茶の子衍出亡して胡に在り、張勝に見えて曰く、「公の燕に重んぜらるる所以の者は、胡の事に習ふを以てなり。燕の久しく存する所以の者は、諸侯数反し、兵連なりて決せざるを以てなり。今公燕の為に急に豨等を滅ぼさんと欲するも、豨等已に尽くれば、次は亦燕に至り、公等も亦且に虜と為らんとす。公何ぞ燕をして且く陳豨を緩めて胡と和せしめざる。事寛なれば、長く燕に王たるを得。即し漢の急有らば、以て国を安んずべし」と。張勝以て然りと為し、豨私かに匈奴をして豨等を助けて燕を撃たしむ。燕王綰張勝の胡と反するを疑ひ、上書して張勝を族せんことを請ふ。勝還り、具に為す所以の者を道ふ。燕王寤り、乃ち詐りて它人を論じ、勝の家属を脱し、匈奴の間と為るを得しめ、而して陰かに范斉をして陳豨の所に之かしめ、久しく亡げしめ、兵を連ねて決すること勿からしめんと欲す。漢の十二年、東のかた黥布を撃つ。豨常に兵を将ゐて代に居り、
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『呻吟語』外篇・品藻・國家奚ぞ賴らんや此の身操執の常を棄てて圓軟を以て俗譽を沽り、國家遠大の患ひを忘れて寬厚を以て私恩を巿り、巧みに人の未だ見ざる所の利に趨き、善く人の未だ識らざる所の害を避け、身を百禍侵さざるの地に立て、事成れば我に功有り、事敗るれば我に咎無し。此れ智巧の士なり。國家奚ぞ賴らんや。
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