春秋左氏伝 / 成公十五年 盗は主人を憎む
冬。十月。華元自止之。不可。乃反。魚府曰。今不從。不得入矣。右師視速而言疾。有異志焉。若不我納。今將馳矣。登丘而望之。則馳騁而從之。則決睢澨。閉門登陴矣。左師。二司寇。二宰。遂出奔楚。華元使向戌為左師。老佐為司馬。樂裔為司寇。以靖國人。晉三郤害伯宗。譖而殺之。及欒弗忌。伯州犁奔楚。韓獻子曰。郤氏其不免乎。善人。天地之紀也。而驟絕之。不亡何待。初。伯宗每朝。其妻必戒之曰。盜憎主人。民惡其上。子好直言。必及於難。十一月。會吳于鍾離。始通吳也。許靈公畏偪于鄭。請遷于楚。辛丑。楚公子申遷許于葉。
新字:冬。十月。華元自止之。不可。乃反。魚府曰。今不従。不得入矣。右師視速而言疾。有異志焉。若不我納。今将馳矣。登丘而望之。則馳騁而従之。則決睢澨。閉門登陴矣。左師。二司寇。二宰。遂出奔楚。華元使向戌為左師。老佐為司馬。楽裔為司寇。以靖国人。晋三郤害伯宗。譖而殺之。及欒弗忌。伯州犁奔楚。韓献子曰。郤氏其不免乎。善人。天地之紀也。而驟絶之。不亡何待。初。伯宗毎朝。其妻必戒之曰。盗憎主人。民悪其上。子好直言。必及於難。十一月。会呉于鍾離。始通呉也。許霊公畏偪于鄭。請遷于楚。辛丑。楚公子申遷許于葉。
書き下し
冬、十月、華元自ら之を止む。可かず。乃ち反る。魚府曰く、「今從はずんば、入るを得ざらん。右師視ること速かにして言ふこと疾し。異志有り。若し我を納れずんば、今將に馳せんとす」と。丘に登りて之を望めば、則ち馳す。馳騁して之に從へば、則ち睢の澨を決し、門を閉ぢて陴に登れり。左師・二司寇・二宰、遂に出でて楚に奔る。華元向戌をして左師為らしめ、老佐をして司馬為らしめ、樂裔をして司寇為らしめ、以って國人を靖んず。晉の三郤伯宗を害し、譖して之を殺し、欒弗忌に及ぶ。伯州犁楚に奔る。韓獻子曰く、「郤氏其れ免れざらんか。善人は天地の紀なり。而るに驟しば之を絶つ。亡びずして何をか待たん」と。初め、伯宗朝する每に、其の妻必ず之を戒めて曰く、「盜は主人を憎み、民は其の上を惡む。子直言を好む。必ず難に及ばん」と。十一月、吳に鍾離に會す。始めて吳に通ずるなり。許の靈公鄭に偪らるるを畏れ、楚に遷らんことを請ふ。辛丑、楚の公子申許を葉に遷す。
現代語訳
冬十月、華元は自ら出向いて五人を引き止めたが、聞き入れられず、そのまま都に戻った。魚府が言った。「いま従わなければ、二度と都に入れなくなるでしょう。右師は目の配りが素早く、言葉も早口でした。何か別の考えがあるのです。もし我々を受け入れるつもりがないなら、いまにも馬を走らせて帰るはずです」。丘に登って見ると、華元は馬を走らせていた。急いで馬を駆って後を追うと、華元はすでに睢水の堤を切って水を流し、城門を閉ざし、城壁の上に兵を上げていた。左師の魚石、二人の司寇(向為人・鱗朱)、二人の宰(向帯・魚府)は、とうとう国を出て楚に奔った。華元は向戌を左師に、老佐を司馬に、楽裔を司寇に任じて、国人を落ち着かせた。晋の三郤(郤錡・郤犨・郤至)は伯宗(はくそう、晋の大夫)を憎み、讒言して殺し、その累は欒弗忌にまで及んだ。伯宗の子の伯州犁は楚に奔った。韓献子(韓厥)は言った。「郤氏は禍いを免れまい。善人は天地の綱紀である。それをしきりに断ち切っている。滅びずに何を待つというのか」。これより前、伯宗が朝廷に出仕するたびに、その妻は必ず戒めて言っていた。「盗人は家の主人を憎み、民はその上に立つ者を憎むものです。あなたは直言を好みます。きっと禍いに遭うでしょう」。十一月、諸侯は鍾離で呉と会合した。これが中原諸国と呉が初めて通交した時である。許の霊公は鄭に圧迫されるのを恐れ、楚の領内に移ることを願い出た。辛丑の日、楚の公子申が許を葉の地に移した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公二十年 伍奢、讒を信ずるを諫む二十年、春、王の二月、己丑、日南至す。梓慎氛を望みて曰く、「今茲宋に亂有り、國幾ど亡びん。三年にして後に弭まん。蔡に大喪有らん」と。叔孫昭子曰く、「然らば則ち戴・桓なり。汏侈無禮、已に甚し。亂の在る所なり」と。費無極楚子に言ひて曰く、「建と伍奢と、將に方城の外を以て叛かんとす。自ら以て猶ほ宋・鄭のごとしと為す。齊・晉又交々之を輔く。將に以て楚を害せんとす。其の事集まれり」と。王之を信じ、伍奢に問ふ。伍奢對へて曰く、「君一たび過つこと多し。何ぞ讒を信ずる」と。王伍奢を執ふ。城父の司馬奮揚をして大子を殺さしむ。未だ至らずして、使ひして之を遣らしむ。三月、大子建宋に奔る。王奮揚を召す。奮揚城父の人をして己を執へしめて以て至る。王曰く、「言余が口より出でて、爾の耳に入る。誰か建に告げし」と。對へて曰く、「臣之に告ぐ。君王臣に命じて曰く、『建に事ふること余に事ふるが如くせよ』と。臣不佞にして、苟くも貳する能はず。初めを奉じて以て還(めぐ)らし、後の命に忍びず。故に之を遣る。既にして之を悔ゆるも、亦た及ぶ無きのみ」と。王曰く、「而(なんぢ)敢へて來るは、何ぞや」と。對へて曰く、「使はされて命を失ひ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七長坂長閑·跡部大炊助申す、それはあの旁、信玄公御心をよく存ぜられずしてさやう也、あの曲淵ほどの者は旗本の事は申すに及ばず、甲州·信州·上州へかけては二千も三千もあらん、其上主又は寄親をさやうに悪口申す、頭の下知につかざるは大悪事なりとて、則ち長坂長閑·跡部大炊介御機嫌を見合せ、曲淵が板垣弥次郎へ雑言の次第申上る、信玄公聞し召しおほきにわらひ給ふ、
-
説苑・雜言祁射子、秦の惠王に見え、惠王之を說ぶ。是に於いて唐姑之を讒し、復た見ゆるに、惠王怒りを懷きて以て之を待つ。其の說く所異なるに非ざるなり、聽く所の易わればなり。故に徵を以て羽と為すは、絃の罪に非ざるなり。甘きを以て苦しと為すは、味を限るの過ちなり。
-
論語・顔淵篇子張、明を問う。子曰く、「浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、明と謂う可きのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、遠しと謂う可きのみ。」
-
『甲陽軍鑑』品第十三ある時両人談合して己々が所領を沢山にとらんと思ひ、扇谷殿へ申けるは、御台所入り是なくして事不弁にましますに、家老衆は江戸河越の国中に徘徊の儀、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵対申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は両上杉殿御仕合に少シもたがひ申まじ、御分別有べき由申上る処に扇谷殿武州江戸太田道灌を召寄殺し給ふ、是を聞て残る上田·見田·荻谷を始め道灌が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへクチ〳〵をいたし居、
-
論語・憲問篇公伯寮、子路を季孫に愬う。子服景伯以て告げて曰く、「夫子固より公伯寮に惑志有り。吾が力猶お能く諸を市朝に肆さん。」子曰く、「道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯寮其れ命を如何せん。」
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る