春秋左氏伝 / 宣公二年 過ちて改むる
夏,晉趙盾救焦,遂自陰地,及諸侯之師侵鄭,以報大棘之役。楚鬥椒救鄭,曰:「能欲諸侯而惡其難乎?」遂次于鄭,以待晉師。趙盾曰:「彼宗競于楚,殆將斃矣,姑益其疾,乃去之。」晉靈公不君,厚斂以彫牆,從臺上彈人,而觀其辟丸也。宰夫胹熊蹯不熟,殺之,寘諸畚,使婦人載以過朝。趙盾、士季,見其手,問其故,而患之。將諫,士季曰:「諫而不入,則莫之繼也。會請先,不入,則子繼之。」三進及溜,而後視之,曰:「吾知所過矣,將改之。」稽首而對曰:「人誰無過,過而能改,善莫大焉。詩曰:『靡不有初,鮮克有終。』夫如是,則能補過者鮮矣。君能有終,則社稷之固也,豈惟群臣賴之。又曰:『袞職有闕,惟仲山甫補之。』能補過也。君能補過,袞不廢矣。」猶不改。宣子驟諫,公患之,使鉏麑賊之。晨往,寢門闢矣,盛服將朝,尚早,坐而假寐。麑退,歎而言曰:「不忘恭敬,民之主也。賊民之主,不忠。棄君之命,不信。有一於此,不如死也。」觸槐而死。
新字:夏,晋趙盾救焦,遂自陰地,及諸侯之師侵鄭,以報大棘之役。楚鬥椒救鄭,曰:「能欲諸侯而悪其難乎?」遂次于鄭,以待晋師。趙盾曰:「彼宗競于楚,殆将斃矣,姑益其疾,乃去之。」晋霊公不君,厚斂以彫牆,従台上弾人,而観其辟丸也。宰夫胹熊蹯不熟,殺之,寘諸畚,使婦人載以過朝。趙盾、士季,見其手,問其故,而患之。将諫,士季曰:「諫而不入,則莫之継也。会請先,不入,則子継之。」三進及溜,而後視之,曰:「吾知所過矣,将改之。」稽首而対曰:「人誰無過,過而能改,善莫大焉。詩曰:『靡不有初,鮮克有終。』夫如是,則能補過者鮮矣。君能有終,則社稷之固也,豈惟群臣頼之。又曰:『袞職有闕,惟仲山甫補之。』能補過也。君能補過,袞不廃矣。」猶不改。宣子驟諫,公患之,使鉏麑賊之。晨往,寝門闢矣,盛服将朝,尚早,坐而仮寐。麑退,嘆而言曰:「不忘恭敬,民之主也。賊民之主,不忠。棄君之命,不信。有一於此,不如死也。」触槐而死。
書き下し
……晉の靈公君たらず。斂を厚くして以って牆を彫り、臺上より人を彈じて、其の丸を辟くるを觀る。宰夫熊蹯を胹(に)て熟せず、之を殺し、諸を畚(ふご)に寘き、婦人をして載せて朝を過ぎしむ。趙盾・士季、其の手を見て、其の故を問ひて、之を患ふ。將に諫めんとす。士季曰く、「諫めて入らずんば、則ち之に繼ぐ莫きなり。會請ふ先んぜん、入らずんば、則ち子之に繼げ」と。三たび進みて溜に及び、而る後に之を視て曰く、「吾過つ所を知れり、將に之を改めん」と。稽首して對へて曰く、「人誰か過ち無からん。過ちて能く改むる、善之より大なるは莫し。詩に曰く、『初め有らざる靡し、克く終はり有るは鮮し』と。夫れ是の如くんば、則ち能く過ちを補ふ者鮮し。君能く終はり有らば、則ち社稷の固めなり、豈に惟だ群臣のみ之に賴らんや。又曰く、『袞職闕くる有り、惟だ仲山甫のみ之を補ふ』と。能く過ちを補ふなり。君能く過ちを補はば、袞廢れざらん」と。猶ほ改めず。……
現代語訳
……晋の霊公は君主らしくなかった。税を重く取り立てて壁を飾り、高殿の上から人に弾を撃ちかけ、その弾をよける様子を眺めた。料理人が熊の掌を煮て生煮えだったので殺し、死体をかごに入れ、婦人に運ばせて朝廷の前を通らせた。趙盾と士季がその手を見て理由を問い、憂えた。諫めようとした。士季が言った。「諫めて聞き入れられなければ、後を継ぐ者がいなくなる。私がまず行きましょう。聞き入れられなければ、あなたが続いてください」。三度進んで軒下に至り、そこで初めて霊公は士季を見て言った。「私は過ちを知っている。改めるつもりだ」。士季は頭を地につけて答えた。「人に過ちのない者がありましょうか。過ちを犯して改めることができる、これより大きな善はありません。『詩経』に『初めのない者はいないが、よく終わりを全うする者は少ない』とあります。そうであれば、過ちを補える者は少ないのです。君がよく終わりを全うされるなら、それは国家の固めであり、群臣だけが頼るのではありません。また『天子の衣に破れがあれば、ただ仲山甫だけがこれを繕う』ともあります。過ちを補うということです。君が過ちを補われるなら、天子の衣は廃れません」。しかし霊公は改めなかった。……
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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