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春秋左氏伝 / 僖公二十五年 信は国の宝なり

戊午,晉侯朝王。王饗醴,命之宥。請隧,弗許,曰:「王章也。未有代德而有二王,亦叔父之所惡也。」與之陽樊、溫、原、欑茅之田。晉於是始起南陽。陽樊不服,圍之。蒼葛呼曰:「德以柔中國,刑以威四夷,宜吾不敢服也。此誰非王之親姻,其俘之也?」乃出其民。秋,秦、晉伐鄀。楚鬭克、屈禦寇以申息之師戍商密。秦人過析,隈入而係輿人,以圍商密,昏而傅焉。宵,坎血加書,偽與子儀、子邊盟者。商密人懼曰:「秦取析矣,戍人反矣!」乃降秦師。囚申公子儀、息公子邊以歸。楚令尹子玉追秦師,弗及。遂圍陳,納頓子于頓。冬,晉侯圍原,命三日之糧。原不降,命去之。諜出,曰:「原將降矣。」軍吏曰:「請待之。」公曰:「信,國之寶也,民之所庇也。得原失信,何以庇之?所亡滋多。」退一舍而原降。遷原伯貫于冀。趙衰為原大夫,狐溱為溫大夫。衛人平莒于我。十二月,盟于洮,脩衛文公之好,且及莒平也。晉侯問原守於寺人勃鞮。對曰:「昔趙衰以壺飧從徑,餒而弗食。」故使處原。

新字:戊午,晋侯朝王。王饗醴,命之宥。請隧,弗許,曰:「王章也。未有代徳而有二王,亦叔父之所悪也。」与之陽樊、温、原、欑茅之田。晋於是始起南陽。陽樊不服,囲之。蒼葛呼曰:「徳以柔中国,刑以威四夷,宜吾不敢服也。此誰非王之親姻,其俘之也?」乃出其民。秋,秦、晋伐鄀。楚闘克、屈禦寇以申息之師戍商密。秦人過析,隈入而係輿人,以囲商密,昏而傅焉。宵,坎血加書,偽与子儀、子辺盟者。商密人懼曰:「秦取析矣,戍人反矣!」乃降秦師。囚申公子儀、息公子辺以帰。楚令尹子玉追秦師,弗及。遂囲陳,納頓子于頓。冬,晋侯囲原,命三日之糧。原不降,命去之。諜出,曰:「原将降矣。」軍吏曰:「請待之。」公曰:「信,国之宝也,民之所庇也。得原失信,何以庇之?所亡滋多。」退一舎而原降。遷原伯貫于冀。趙衰為原大夫,狐溱為温大夫。衛人平莒于我。十二月,盟于洮,脩衛文公之好,且及莒平也。晋侯問原守於寺人勃鞮。対曰:「昔趙衰以壺飧従径,餒而弗食。」故使処原。

書き下し

戊午、晉侯王に朝す。王醴を饗し、之に宥を命ず。隧を請ふ、許さずして、曰く、「王の章なり。未だ德に代はること有らずして二王有るは、亦た叔父の惡む所なり」と。之に陽樊・溫・原・欑茅の田を與ふ。晉是に於いて始めて南陽を起こす。陽樊服せず、之を圍む。蒼葛呼びて曰く、「德は以て中國を柔らげ、刑は以て四夷を威す。宜なり吾の敢へて服せざるや。此れ誰か王の親姻に非ざらん、其れ之を俘にせんや」と。乃ち其の民を出だす。秋、秦・晉鄀を伐つ。楚の鬭克・屈禦寇申・息の師を以て商密を戍る。秦人析を過ぎ、隈より入りて輿人を係ぎ、以て商密を圍み、昏にして傅く。宵に、坎し血して書を加へ、偽りて子儀・子邊と盟ふ者とす。商密の人懼れて曰く、「秦析を取れり、戍人反けり」と。乃ち秦の師に降る。申公子儀・息公子邊を囚へて以て歸る。楚の令尹子玉秦の師を追ふも、及ばず。遂に陳を圍み、頓子を頓に納る。冬、晉侯原を圍み、三日の糧を命ず。原降らず、之を去るを命ず。諜出でて、曰く、「原將に降らんとす」と。軍吏曰く、「請ふ之を待たん」と。公曰く、「信は、國の寶なり、民の庇ふ所なり。原を得て信を失はば、何を以てか之を庇はん。亡ふ所滋ます多からん」と。退くこと一舍にして原降る。原伯貫を冀に遷す。趙衰原の大夫と為り、狐溱溫の大夫と為る。衛人莒を我に平らぐ。十二月、洮に盟ふ、衛の文公の好を脩め、且つ莒と平らぐに及ぶなり。晉侯原の守を寺人勃鞮に問ふ。對へて曰く、「昔趙衰壺飧を以て徑に從ひ、餒ゑて食はず」と。故に原に處らしむ。

現代語訳

戊午の日、晋侯(文公)は襄王に拝謁した。王は甘酒で饗応し、晋侯に酒を勧めて返礼させる栄誉を与えた。晋侯は、死後に墓へ地下道(隧)を通して葬られる天子の礼を許してほしいと願ったが、王は許さず、言った。「それは王のしるしである。まだ周に代わる徳を持つ者が現れていないのに王が二人いることになれば、叔父(晋侯)もそれは嫌うところであろう」。そして陽樊・温・原・欑茅の土地を晋侯に与えた。晋はここで初めて南陽の地を開いた。陽樊が服従しなかったので、晋はこれを包囲した。陽樊の蒼葛(そうかつ)が叫んだ。「徳によって中原の国々を和らげ、刑罰によって四方の異民族を威圧するものだ。我々が服従しないのは当然ではないか。ここにいるのは誰もが王の親族や姻戚だ。それを捕虜にするというのか」。そこで晋は陽樊の民を城から出して立ち去らせ、土地だけを取った。秋、秦と晋は鄀を討った。楚の闘克(とうこく)と屈禦寇(くつぎょこう)は、申と息の軍を率いて商密を守っていた。秦軍は析を通り、山の隅から回り込んで、輿を担ぐ人夫たちを縛って析の捕虜に見せかけ、商密を包囲し、夕暮れに城に迫った。夜、地面に穴を掘り、生贄の血をそそいで盟約の文書を載せ、楚の子儀(闘克)・子辺(屈禦寇)と盟約したかのように偽装した。商密の人々は恐れて言った。「秦は析を取った。守備の者たちも寝返った」。そこで秦軍に降伏した。秦は申公子儀と息公子辺を捕らえて帰った。楚の令尹子玉は秦軍を追ったが、追いつかなかった。そこで陳を包囲し、頓子を頓の国に戻した。冬、晋侯は原を包囲し、兵に三日分の食糧を持たせた。三日たっても原は降伏しなかったので、晋侯は撤退を命じた。原から間者が出てきて言った。「原はまもなく降伏します」。軍吏が言った。「どうか待ちましょう」。晋侯は言った。「信は国の宝であり、民を守るよりどころである。原を得ても信を失えば、何をもって民を守るのか。失うもののほうがずっと多いだろう」。一舎(三十里)退いたところで、原は降伏した。原伯貫を冀に移した。趙衰が原の大夫となり、狐溱(こしん)が温の大夫となった。衛は莒と魯を和睦させた。十二月、洮で盟約した。衛の文公のときの友好を改めて確かめ、あわせて莒と和睦したのである。晋侯は原の守りを誰に任せるべきかを宦官の勃鞮(ぼってい、寺人披)に尋ねた。勃鞮は答えた。「昔、趙衰は壺に入れた食事を持って間道をお供したとき、飢えても自分は手をつけませんでした」。そこで趙衰を原に置いた。

解説

勤王の功で南陽の地を得た晋の文公の、その後の処置が並ぶ。まず文公は天子の葬礼の特権を求めて退けられる。王の格式を求めた、覇者の野心の表れである。陽樊では蒼葛が、この地の民は王の親族だと叫び、晋は民を出して土地だけを取る。句の中心は原の包囲である。三日分の食糧で攻めると約束した文公は、間者が「まもなく降る」と告げても撤退する。「信は、國の寶なり、民の庇ふ所なり」。一城を得るために約束を破れば、以後すべての言葉が信用されなくなり、失うものの方が大きいという判断である。退いたところで原は自ら降った。この「原を伐ちて信を示す」は、二十七年の句で民への教育として振り返られる。秦が偽の盟約で商密を落とした計略が同じ句に並ぶのも見どころである。最後に、原の守りに、飢えても主君の食を口にしなかった趙衰を選ぶ。目先の成果を取るか、約束の信用を守るか。その選択が組織の言葉の重みを決めていく。

この章句が説くこと

信義約束覇業人材登用計略

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