春秋左氏伝 / 僖公二十四年 王子帯の乱
初,甘昭公有寵於惠后,惠后將立之,未及而卒。昭公奔齊,王復之。又通於隗氏。王替隗氏。頹叔、桃子曰:「我實使狄,狄其怨我。」遂奉大叔以狄師攻王。王御士將禦之,王曰:「先后其謂我何?寧使諸侯圖之。」王遂出,及坎欿,國人納之。秋,頹叔、桃子奉大叔以狄師伐周,大敗周師,獲周公忌父、原伯、毛伯、富辰。王出適鄭,處于氾。大叔以隗氏居于溫。鄭子華之弟子臧出奔宋,好聚鷸冠。鄭伯聞而惡之,使盜誘之。八月,盜殺之于陳宋之間。君子曰:「服之不衷,身之災也。《詩》曰:『彼己之子,不稱其服。』子臧之服,不稱也夫!《詩》曰:『自詒伊慼。』其子臧之謂矣。《夏書》曰:『地平天成。』稱也。」
新字:初,甘昭公有寵於恵后,恵后将立之,未及而卒。昭公奔斉,王復之。又通於隗氏。王替隗氏。頽叔、桃子曰:「我実使狄,狄其怨我。」遂奉大叔以狄師攻王。王御士将禦之,王曰:「先后其謂我何?寧使諸侯図之。」王遂出,及坎欿,国人納之。秋,頽叔、桃子奉大叔以狄師伐周,大敗周師,獲周公忌父、原伯、毛伯、富辰。王出適鄭,処于氾。大叔以隗氏居于温。鄭子華之弟子臧出奔宋,好聚鷸冠。鄭伯聞而悪之,使盗誘之。八月,盗殺之于陳宋之間。君子曰:「服之不衷,身之災也。《詩》曰:『彼己之子,不称其服。』子臧之服,不称也夫!《詩》曰:『自詒伊慼。』其子臧之謂矣。《夏書》曰:『地平天成。』称也。」
書き下し
初め、甘の昭公惠后に寵有り、惠后將に之を立てんとして、未だ及ばずして卒す。昭公齊に奔る、王之を復す。又隗氏に通ず。王隗氏を替つ。頹叔・桃子曰く、「我實に狄を使ふ、狄其れ我を怨まん」と。遂に大叔を奉じて狄の師を以て王を攻む。王の御士將に之を禦がんとす。王曰く、「先后其れ我を何とか謂はん。寧ろ諸侯をして之を圖らしめん」と。王遂に出で、坎欿に及ぶ、國人之を納る。秋、頹叔・桃子大叔を奉じて狄の師を以て周を伐ち、大いに周の師を敗り、周公忌父・原伯・毛伯・富辰を獲たり。王出でて鄭に適き、氾に處る。大叔隗氏を以て溫に居る。鄭の子華の弟子臧宋に出奔す。好んで鷸冠を聚む。鄭伯聞きて之を惡み、盜をして之を誘はしむ。八月、盜之を陳・宋の間に殺す。君子曰く、「服の衷ならざるは、身の災ひなり。《詩》に曰く、『彼の己の子、其の服に稱はず』と。子臧の服は、稱はざるかな。《詩》に曰く、『自ら伊の慼ひを詒す』と。其れ子臧の謂ひなり。《夏書》に曰く、『地平らかに天成る』と。稱ふなり」と。
現代語訳
これより前、甘の昭公(王子帯、大叔)は恵后(襄王の継母)に寵愛され、恵后は彼を王に立てようとしていたが、果たさないうちに亡くなった。昭公は斉に逃れていたが、王が呼び戻した。ところが昭公は、王の后となった狄の隗氏と密通した。王は隗氏を廃した。頽叔と桃子は言った。「狄の兵を動かしたのは実は我々だ。狄は我々を恨むだろう」。そこで大叔を奉じ、狄の軍を率いて王を攻めた。王の近衛の士たちが防ごうとすると、王は言った。「亡き母后(恵后)は私を何と言うだろうか。いっそ諸侯にこのことを処置させよう」。王はついに都を出て坎欿まで行ったが、都の人々が王を迎え入れた。秋、頽叔と桃子は大叔を奉じて狄の軍とともに周を討ち、周軍を大いに破って、周公忌父・原伯・毛伯・富辰を捕らえた。王は都を出て鄭に行き、氾に身を寄せた。大叔は隗氏とともに温に住んだ。鄭の子華(鄭の太子で、以前に殺された)の弟子臧(しぞう)は宋に亡命していたが、カワセミの羽で飾った冠を好んで集めていた。鄭伯(文公)はそれを聞いて憎み、刺客に誘い出させた。八月、刺客は陳と宋の境で子臧を殺した。君子は言った。「身分にふさわしくない服を着るのは、身の災いである。『詩』に『あの人は、その服にふさわしくない』とある。子臧の服は、ふさわしくなかったのだ。『詩』に『自ら憂いを招く』とある。これは子臧のことを言っている。『夏書』に『地が平らかになり、天が成る』とあるのは、上下がそれぞれにふさわしいということである」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公二十四年 嫠婦、緯を恤えず六月、壬申、王子朝の師、瑕及び杏を攻む。皆潰ゆ。鄭伯晉に如く。子大叔相たり。范獻子に見ゆ。獻子曰く、「王室を若何せん」と。對へて曰く、「老夫其の國家すら恤ふる能はず、敢へて王室に及ばんや。抑人亦た言へる有り、曰く、『嫠(やもめ)は其の緯を恤へずして、宗周の隕つるを憂ふ。將に及ばんとするが為なり』と。今王室實に蠢蠢焉たり。吾が小國懼る。然れども大國の憂ひなり。吾が儕何をか知らん。吾子其れ早く之を圖れ。詩に曰く、『缾(かめ)の罄(つ)くるは、惟れ罍(らい)の恥』と。王室の寧からざるは、晉の恥なり」と。獻子懼れて、宣子と之を圖り、乃ち會を諸侯に徵し、期するに明年を以ってす。秋、八月、大いに雩す。旱すればなり。冬、十月、癸酉、王子朝成周の寶珪を河に用ふ。甲戌、津人諸を河上に得たり。陰不佞溫人を以って南に侵し、玉を得たる者を拘へて、其の玉を取り、將に之を賣らんとす。則ち石と為る。王定まりて之を獻ず。之に東訾を與ふ。
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『春秋左氏伝』僖公二十四年 富辰の諫め今天子小忿を忍ばずして以て鄭の親を棄つ、其れ之を若何せん。勳を庸ゐ、親を親しみ、近きに暱しみ、賢を尊ぶは、德の大なる者なり。聾に即き、昧に從ひ、頑に與し、嚚を用ゐるは、姦の大なる者なり。德を棄てて姦を崇ぶは、禍の大なる者なり。鄭に平・惠の勳有り、又厲・宣の親有り、嬖寵を棄てて三良を用ゐ、諸姬に於いて近しと為す、四德具はれり。耳五聲の和を聽かざるを聾と為し、目五色の章を別たざるを昧と為し、心德義の經に則らざるを頑と為し、口忠信の言を道はざるを嚚と為す。狄皆之に則る、四姦具はれり。周の懿德有るや、猶ほ『兄弟に如くは莫し』と曰ふ、故に之を封建す。其の天下を懷柔するや、猶ほ外侮有るを懼る、侮りを扞禦する者は親を親しむに如くは莫し、故に親を以て周に屏とす。召の穆公も亦た云ふ。今周の德既に衰ふ、是に於いてか又周・召を渝へて以て諸姦に從ふ、乃ち不可なる無からんや。民未だ禍を忘れず、王又之を興す、其れ文・武を若何せん」と。王聽かず、頹叔・桃子をして狄の師を出ださしむ。夏、狄鄭を伐ち、櫟を取る。王狄人を德とし、將に其の女を以て后と為さんとす。富辰諫めて曰く、「不可なり。臣之を聞く、曰く、『報ゆる者は倦めり、施す者は未だ厭かず』と。狄は固より貪惏なり、王又之を啟く。女德は極まり無く、婦怨は終はり無し、狄必ず患ひを為さん」と。王又聽かず。
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『春秋左氏伝』僖公二十四年 天子、塵を蒙る宋楚と平らぐ。宋の成公楚に如く。還りて、鄭に入る。鄭伯將に之を享せんとし、禮を皇武子に問ふ。對へて曰く、「宋は、先代の後なり、周に於いて客為り。天子事有れば、膰す。喪有れば、拜す。豐厚にして可なり」と。鄭伯之に從ふ。宋公を享するに加有り、禮なり。冬、王來たりて難を告げしめて、曰く、「不穀不德にして、母弟の寵子帶に罪を得て、鄭の地氾に鄙す。敢へて叔父に告ぐ」と。臧文仲對へて曰く、「天子外に塵を蒙る、敢へて官守に奔問せざらんや」と。王簡師父をして晉に告げしめ、左鄢父をして秦に告げしむ。天子に出づること無し、書して「天王出でて鄭に居る」と曰ふは、母弟の難を辟くればなり。天子凶服して名を降す、禮なり。鄭伯孔將鉏・石甲父・侯宣多と官具を氾に省視し、而る後に其の私政を聽く、禮なり。衛人將に邢を伐たんとす。禮至曰く、「其の守を得ずんば、國得べからざるなり。我請ふ昆弟仕へん」と。乃ち往きて仕ふるを得たり。
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『春秋左氏伝』僖公二十二年 嬴氏、従わず告げず二十二年春、邾を伐ち、須句を取り、其の君を反す、禮なり。三月、鄭伯楚に如く。夏、宋公鄭を伐つ。子魚曰く、「所謂禍は此に在り」と。初め、平王の東遷するや、辛有伊川に適き、髮を被りて野に祭る者を見て、曰く、「百年に及ばずして、此れ其れ戎ならんか。其の禮先づ亡びたり」と。秋、秦・晉陸渾の戎を伊川に遷す。晉の大子圉秦に質と為る。將に逃げ歸らんとし、嬴氏に謂ひて曰く、「子と歸らんか」と。對へて曰く、「子は晉の大子にして、秦に辱めらる。子の歸らんと欲するは、亦た宜ならずや。寡君の婢子をして巾櫛を侍執せしむるは、以て子を固むるなり。子に從ひて歸るは、君命を棄つるなり。敢へて從はず、亦た敢へて言はず」と。遂に逃げ歸る。富辰王に言ひて曰く、「請ふ大叔を召さん。《詩》に曰く、『其の鄰に協比し、昏姻孔だ云る』と。吾が兄弟の協はざる、焉んぞ能く諸侯の睦まざるを怨みん」と。王說ぶ。王子帶齊より復た京師に歸る、王之を召せばなり。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 子産、楚を禦がず冬、十月、楚子鄭を伐つ。鄭人將に之を禦がんとす。子產曰く、「晉・楚將に平らがんとし、諸侯將に和せんとす。楚王是の故に一たび來るに昧るのみ。逞くして歸らしむるに如かず。乃ち成り易からん。夫れ小人の性は、勇に釁き、禍に嗇り、以て其の性を足して、名を求むる者は、國家の利に非ざるなり。若何ぞ之に從はん」と。子展說び、寇を禦がず。十二月、乙酉、南里に入り、其の城を墮ち、樂氏に涉り、師之梁に門す。縣門發し、九人を獲たり。氾を涉りて歸る。而る後に許の靈公を葬る。衛人衛姬を晉に歸る。乃ち衛侯を釋す。君子是を以て平公の政を失ふを知る。晉の韓宣子周に聘す。王事を請はしむ。對へて曰く、「晉の士起將に時事を宰旅に歸せんとす。他事無し」と。王之を聞きて曰く、「韓氏其れ晉に昌阜ならんか。辭舊を失はず」と。齊人郟に城くの歲、其の夏、齊の烏餘廩丘を以て晉に奔る。衛の羊角を襲ひて之を取る。遂に我が高魚を襲ふ。大雨有り、其の竇より入り、其の庫に介して、以て其の城に登り、克ちて之を取る。又邑を宋に取る。是に於いて范宣子卒す。諸侯治むる能はず。趙文子政を為すに及び、乃ち卒に之を治む。文子晉侯に言ひて曰く、「晉盟主為り。諸侯或いは相侵さば、則ち討ちて其の地を歸さしむ。今烏餘の邑は、皆討類なり。而るに之を貪るは、是れ以て盟主為ること無きなり。請ふ之を歸さん」と。公曰く、「諾。孰か使ふべき」と。對へて曰く、「胥梁帶能く師を用ゐること無からん」と。晉侯往かしむ。
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史記 周本紀管仲辞して曰く、「臣は賤しき有司なり。天子の二守国・高在る有り。若し春秋に節して来たりて王命を承けなば、何を以て焉を礼せん。陪臣敢へて辞す」と。王曰く、「舅氏、余乃の勲を嘉す、朕が命に逆らふ毋かれ」と。管仲卒に下卿の礼を受けて還る。九年、斉の桓公卒す。十二年、叔帯復た周に帰る。十三年、鄭滑を伐つ。王游孫・伯服をして滑の為に請はしむ。鄭人之を囚ふ。鄭の文公恵王の入りて厲公に爵を与へざりしを怨み、又襄王の衛・滑に与するを怨む。故に伯服を囚ふ。王怒り、将に翟を以て鄭を伐たんとす。富辰諫めて曰く、「凡そ我が周の東に徙るや、晋・鄭に焉れ依る。子穨の乱も、又鄭に由りて定まる。今小怨を以て之を棄つるか」と。王聴かず。十五年、王翟の師を降して以て鄭を伐つ。王翟人を徳とし、将に其の女を以て后と為さんとす。富辰諫めて曰く、「平・桓・荘・恵皆鄭の労を受く。王親を棄てて翟に親しむ、従ふ可からず」と。王聴かず。十六年、王翟后を絀く。翟人来たりて誅し、譚伯を殺す。富辰曰く、「吾数諫むれども従はれず。是の如くして出でずんば、王我を以て懟めりと為さんか」と。乃ち其の属を以て之に死す。初め、恵后王子帯を立てんと欲し、故に党を以て翟人を開く。翟人遂に周に入る。襄王出でて鄭に奔る。鄭王を汜に居らしむ。子帯立ちて王と為り、襄王の絀けし所の翟后を取りて与に温に居る。十七年、襄王急を晋に告ぐ。晋の文公王を納れて叔帯を誅す。襄王乃ち晋の文公に珪鬯弓矢を賜ひ、伯と為し、河内の地を以て晋に与ふ。二十年、晋の文公襄王を召す。襄王之に河陽・践土に会す。諸侯畢く朝す。書は諱みて曰く「天王河陽に狩す」と。二十四年、晋の文公卒す。三十一年、秦の穆公卒す。三十二年、襄王崩じ、子頃王壬臣立つ。頃王六年にして崩じ、子匡王班立つ。匡王六年にして崩じ、弟瑜立つ。是を定王と為す。
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