春秋左氏伝 / 隠公元年 厚ければ将に崩れん
既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:「國不堪貳,君將若之何?欲與大叔,臣請事之;若弗與,則請除之。無生民心。」公曰:「無庸,將自及。」大叔又收貳以為己邑,至于廩延。子封曰:「可矣,厚將得眾。」公曰:「不義,不暱,厚將崩。」大叔完聚,繕甲兵,具卒乘,將襲鄭。夫人將啟之。公聞其期,曰:「可矣!」命子封帥車二百乘以伐京。京叛大叔段,段入于鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。書曰:「鄭伯克段于鄢。」段不弟,故不言弟;如二君,故曰克;稱鄭伯,譏失教也:謂之鄭志。不言出奔,難之也。遂寘姜氏于城潁,而誓之曰:「不及黃泉,無相見也。」既而悔之。
新字:既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:「国不堪貳,君将若之何?欲与大叔,臣請事之;若弗与,則請除之。無生民心。」公曰:「無庸,将自及。」大叔又収貳以為己邑,至于廩延。子封曰:「可矣,厚将得衆。」公曰:「不義,不暱,厚将崩。」大叔完聚,繕甲兵,具卒乗,将襲鄭。夫人将啓之。公聞其期,曰:「可矣!」命子封帥車二百乗以伐京。京叛大叔段,段入于鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。書曰:「鄭伯克段于鄢。」段不弟,故不言弟;如二君,故曰克;称鄭伯,譏失教也:謂之鄭志。不言出奔,難之也。遂寘姜氏于城潁,而誓之曰:「不及黄泉,無相見也。」既而悔之。
書き下し
既にして大叔、西鄙・北鄙に命じて己に貳せしむ。公子呂曰く、「國は貳に堪へず、君將に之を若何せんとする。大叔に與へんと欲せば、臣請ふ之に事へん。若し與へずんば、則ち請ふ之を除かん。民の心を生ずること無かれ」と。公曰く、「庸ゐること無し、將に自ら及ばんとす」と。大叔又貳を收めて以って己が邑と為し、廩延に至る。子封曰く、「可なり。厚くして將に眾を得んとす」と。公曰く、「義ならず、暱まず、厚くとも將に崩れんとす」と。大叔完め聚め、甲兵を繕ひ、卒乘を具へ、將に鄭を襲はんとす。夫人將に之を啟かんとす。公其の期を聞きて曰く、「可なり」と。子封に命じて車二百乘を帥ゐて以って京を伐たしむ。京大叔段に叛く。段鄢に入る。公諸を鄢に伐つ。五月辛丑、大叔出でて共に奔る。書に曰く、「鄭伯段に鄢に克つ」と。段弟たらず、故に弟と言はず。二君の如し、故に克つと曰ふ。鄭伯と稱するは、教へを失ふを譏るなり。之を鄭の志と謂ふ。出奔と言はざるは、之を難ずるなり。遂に姜氏を城潁に寘きて、之に誓ひて曰く、「黃泉に及ばずんば、相見ること無からん」と。既にして之を悔ゆ。
現代語訳
やがて大叔段(荘公の弟、共叔段)は、鄭の西と北の国境の町に命じて、主君と自分の両方に従わせた。公子呂(字は子封)が荘公に言った。「国は二君に仕える状態には耐えられません。君はどうなさるおつもりですか。大叔に国を譲るおつもりなら、私は大叔にお仕えいたします。もし譲らないのなら、どうか彼を除いてください。民に二心を生じさせてはなりません」。荘公は言った。「手を下すには及ばない。やがて自ら災いを招くだろう」。大叔はさらに、両属させていた町を自分の領邑に取り込み、廩延にまで及んだ。子封が言った。「もうよろしいでしょう。領地が厚くなれば、民衆を手に入れてしまいます」。荘公は言った。「義に背き、人に親しまれない者は、厚くなってもやがて崩れる」。大叔は城壁を固め、兵糧を集め、甲冑と武器を整え、歩兵と戦車をそろえて、鄭の都を襲おうとした。母の武姜夫人が内側から城門を開けて手引きするはずであった。荘公はその決行の日取りを聞くと、「今だ」と言った。子封に命じて戦車二百乗を率いて京を討たせた。京の人々は大叔段に背いた。段は鄢に逃げ込み、荘公は鄢まで追って討った。五月辛丑の日、大叔は国外の共へ出奔した。『春秋』は「鄭伯段に鄢に克つ」と記す。段が弟としての道を守らなかったので「弟」とは書かない。二人の君が争ったかのようであったので「克つ」と書く。荘公を「鄭伯」と爵で呼ぶのは、兄として弟を教え導かなかったことをそしるためであり、これこそ鄭の荘公の本心(弟を泳がせて滅ぼす意図)だったというのである。段の「出奔」を書かないのは、荘公の側にも非があって、段だけに罪を帰すのが難しいからである。荘公はそのまま母の姜氏を城潁に移し、「黄泉に行くまでは、二度と会うまい」と誓った。しかし間もなく、これを後悔した。
解説
この章句が説くこと
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史記 鄭世家太子寤生を生む。之を生むこと難く、生まるるに及びて、夫人愛せず。後に少子叔段を生む。段の生まるること易く、夫人之を愛す。二十七年、武公疾む。夫人公に請ひ、段を立てて太子と為さんと欲す。公聴かず。是の歳、武公卒し、寤生立つ、是を荘公と為す。荘公元年、弟段を京に封じ、太叔と号す。祭仲曰く、「京は国より大なり。庶を封ずる所以に非ざるなり」と。荘公曰く、「武姜之を欲す。我敢へて奪はざるなり」と。段京に至り、甲兵を繕治し、其の母武姜と謀りて鄭を襲はんとす。二十二年、段果たして鄭を襲ひ、武姜内応を為す。荘公兵を発して段を伐つ。段走る。京を伐つ。京人段に畔く。段出でて鄢に走る。鄢潰え、段出でて共に奔る。
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『春秋左氏伝』隠公十一年 鄭伯、許を処す鄭伯許の大夫百里をして許叔を奉じて以って許の東偏に居らしめて曰く、「天許國に禍し、鬼神實に許君に逞からずして、手を我寡人に假る。寡人唯だ是れ一二の父兄すら共億すること能はず、其れ敢へて許を以って自ら功と為さんや。寡人弟有りて、和協すること能はず、其の口を四方に餬せしむ。其れ況や能く久しく許を有たんや。吾子其れ許叔を奉じて以って此の民を撫柔せよ。吾將に獲をして吾子を佐けしめんとす。若し寡人地に沒するを得ば、天其れ禮を以って禍を許に悔いんか。無寧ろ茲の許公復た其の社稷を奉ぜん。唯だ我が鄭國の請謁する有らば、舊の昬媾の如く、其れ能く降りて以って相從へ。他族を滋して實に偪りて此に處り、以って我が鄭國と此の土を爭はしむること無かれ。吾が子孫其れ覆亡を之れ暇あらず、而るを況や能く許を禋祀せんや。寡人の吾子をして此に處らしむるは、唯だ許國の為のみにあらず、亦た聊か以って吾が圉を固むるなり」と。乃ち公孫獲をして許の西偏に處らしめて曰く、「凡そ而の器用財賄、許に寘くこと無かれ。我死せば、乃ち亟やかに之を去れ。吾が先君新たに此に邑す。王室而ち既に卑し。周の子孫日に其の序を失ふ。夫れ許は、大岳の胤なり。天而ち既に周の德を厭へり。吾其れ能く許と爭はんや」と。
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『春秋左氏伝』荘公二十一年 鄭伯、王に怨む二十一年春、弭に胥命す。夏、同に王城を伐つ。鄭伯王を將ゐて、圉門より入り、虢叔北門より入り、王子頹及び五大夫を殺す。鄭伯王を闕西辟に享し、樂備はる。王之に武公の略を與ふ、虎牢より以東なり。原伯曰く、「鄭伯尤に效ふ、其れ亦た將に咎有らんとす」と。五月、鄭の厲公卒す。王虢の守に巡る。虢公王の爲に宮を玤に爲り、王之に酒泉を與ふ。鄭伯の王を享するや、王后の鞶鑒を以って之に予ふ。虢公器を請ひ、王之に爵を予ふ。鄭伯是に由りて始めて王を惡む。冬、王虢より歸る。
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