尚武論 / 跋・跋 物の性に従う尚武論
凡天地之間。萬物各有性。山自山。海自海。山豈可以爲海乎。海豈可以爲山乎。先王孔子之道。率萬物之性。而立之敎法也。子思不曰乎。率性之謂道。是也。學者看以爲一。欲通之萬物。不亦誤乎。中倧先生。學術純正。識見高明。乃悟曰。我邦爲武國。我邦之有武也。猶漢士之有文。是自然之性也。嘗著尚武論。嗚呼。先生之於此著也。以山爲山。以海爲海。自似違先王孔子之道。而不背先王孔子之意。固非世之腐儒輩。拘理氣泥章句之比也。於是先王孔子之道。再明于世。而我邦神明之武德。亦可起哉。其功可謂偉矣。余愚陋服先生之說。因妄述蕪言。書之以爲跋云。天保甲辰十一月上浣佐藤嘉重謹識
新字:凡天地之間。万物各有性。山自山。海自海。山豈可以為海乎。海豈可以為山乎。先王孔子之道。率万物之性。而立之教法也。子思不曰乎。率性之謂道。是也。学者看以為一。欲通之万物。不亦誤乎。中倧先生。学術純正。識見高明。乃悟曰。我邦為武国。我邦之有武也。猶漢士之有文。是自然之性也。嘗著尚武論。嗚呼。先生之於此著也。以山為山。以海為海。自似違先王孔子之道。而不背先王孔子之意。固非世之腐儒輩。拘理気泥章句之比也。於是先王孔子之道。再明于世。而我邦神明之武徳。亦可起哉。其功可謂偉矣。余愚陋服先生之説。因妄述蕪言。書之以為跋云。天保甲辰十一月上浣佐藤嘉重謹識
書き下し
凡そ天地の間、万物各々性有り。山は自ら山、海は自ら海なり。山豈に以て海と為すべけんや、海豈に以て山と為すべけんや。先王孔子の道は、万物の性に率ひて之が教法を立つるなり。子思曰はずや、性に率ふ、之を道と謂ふ、と。是れなり。学者看て以て一と為し、之を万物に通ぜんと欲す。亦誤りならずや。中倧先生は、学術純正にして、識見高明なり。乃ち悟りて曰く、我が邦は武国たり。我が邦に武有るは、猶ほ漢士に文有るがごとし。是れ自然の性なり、と。嘗て尚武論を著す。嗚呼、先生の此の著に於けるや、山を以て山と為し、海を以て海と為す。自づから先王孔子の道に違ふに似て、先王孔子の意には背かず。固より世の腐儒輩の、理気に拘り章句に泥むの比に非ざるなり。是に於いて先王孔子の道再び世に明らかにして、我が邦神明の武徳も亦起こすべし。其の功、偉と謂ふべし。余愚陋にして先生の説に服し、因りて妄りに蕪言を述べ、之を書して以て跋と為すと云ふ。天保甲辰十一月上浣、佐藤嘉重謹んで識す。
現代語訳
およそ天地の間で、万物にはそれぞれ性があります。山はおのずから山であり、海はおのずから海です。山をどうして海とすることができるでしょうか。海をどうして山とすることができるでしょうか。先王・孔子の道は、万物の性に従って教えの法を立てたものです。子思は「性に従うこと、これを道と言う」と言ったではありませんか。このことです。学ぶ者はこれを見て一つのものとし、万物に通じさせようとしますが、誤りではないでしょうか。中倧先生は学術が純正で、見識が高く明らかです。そこで悟って言いました。「我が国は武の国である。我が国に武があるのは、漢の人に文があるのと同じである。これは自然の性である」と。かつて『尚武論』を著しました。ああ、先生のこの著作は、山を山とし、海を海としています。おのずから先王・孔子の道に反するようでありながら、先王・孔子の意には背いていません。もとより世の腐った儒者たちが、理気にこだわり章句にとらわれているのとは比べものになりません。これによって先王・孔子の道が再び世に明らかになり、我が国の神明の武徳もまた起こすことができるでしょう。その功は偉大だと言えます。私は愚かで見識が狭いながら、先生の説に服し、そこでみだりに拙い言葉を述べ、これを書いて跋とするものです。天保甲辰十一月上旬、佐藤嘉重が謹んで記します。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『尚武論』・武国日本と、風土に合った道我が邦は武国なり。西土は文国なり。文国は文を尚び、武国は武を尚ぶ、固より其の所なり。何を以て之を言ふ。夫れ上古数百年の間、逆臣凌がず、外寇入らず、上安く下平らかに、四方事無し。其の治、堯舜の世に孰与れぞ。当時、儒道未だ入らず、仏法未だ興らず。何を以て然るか。唯だ武の治のみ。我が邦に武有るは、我が邦自然の道なり。尚ぶべきかな。何を以て其の然るを知る。曰く、瑞穂国とは、米粟狠戻の謂なり。曰く、細戈千足国とは、武器精備の謂なり。武器精しく、米粟足る。武国に非ずして何ぞ。又曰く、礒馭廬島とは、猶ほ西土の丈夫国と曰ふがごとし。丈夫は即ち武夫の称なり。曰く、浦安国とは、外賊侵す能はず、四辺安寧の義を取るなり。此れ則ち此れ武国たる所以なり。余乃ち卦を以て之を推すに、我が邦は震卦に配す。説卦に曰く、震は龍たり、と。西川求林曰く、我が国の形、游龍の象有り、と。真に然り。我が邦は丈夫と称す、猶ほ彼の国の君子と称するがごとし。西土は文国にして、其の邦已に文を主とす、則ち君子を以て尚しと為す。自づから同じからざるのみ。我が邦の武夫、豈に君子を以て之を称すべけんや。彼も又我が邦を称して君子国と曰ふは、自ら尚ぶ所を以て之を称するなり。固より彼と此と別有るを知らざるなり。聖人の道は天に順ひ時に応ず。子丑寅の建正、忠質文の更尚、彼の土に在りて古今異なる。宜しく已に然るべし。況んや我が邦の彼の邦に於けるや、相距たること幾百里、其の風絶異し、人情同じからず。悪くんぞ其の道を同じうするを獲んや。君子は其の教へを修めて其の俗を易へず、其の政を斉へて其の宜しきを易へず。故に我が邦の武は廃棄すべからざるなり。孔子若し桴に乗りて海に浮かび、既に我が方に在らば、則ち必ず武を以て尚しと為さん。未だ必ずしも文を以て尚しと為さず。若し西土の文に拘泥して国土の道に循はず、曰く、我聖人の道を学ぶ、と。豈に之を聖人の道を知ると謂ふべけんや。聖人は礼楽を以て国を治む。彼の国の礼楽は文を主として之を制す、則ち我が邦の礼楽は宜しく武を主として之を制すべきのみ。東涯先生曰く、今日の世に在りては、今日の楽無かるべからず。何ぞ必ずしも前古の楽を襲ひて以て之を今日に用ひんや。聖人作ること有らば、必ず能く当時の楽を制し、当時の人をして視て之を楽しみ、聴きて之を悦ばしめん。亦唯だ世俗の楽に因りて之を文るのみ、と。其の言甚だ善し。然れども未だ彼と此と文武の異有るを論ずるに及ばず。孔子、韶を謂ふ、美を尽くせり、
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『尚武論』・法と情の両立と、史伝を座右に置く学び六国史以下の史は、猶ほ彼の方の書のごとし。弓矢の礼は、乃ち彼の方の所謂礼なり。我が邦の人、是を以て学と為さば、亦武徳を養ふに庶幾からんか。唯だ我が邦のごときは楽無きを如何せん。若し聖人起こること有らば、宜しく其の方俗に従ひ、其の宜しきを稽へ、之を制作すべし。世に用ふる所の猿楽は、稍や武楽に近し。姑く之を用ひて、頗る勇気を養ふに足るのみ。仏にも楽有り、僧徒常に之を用ふ。仏の盛んなるは、即ち楽を行ふの効なり。楽は無かるべからざるものなり。我が邦に楽無きは、大いなる闕典為り。初め神君、天下を平治するに専ら武徳を以てし、傍ら儒学を用ふ。乃ち儒者の空論多く、大いに実事を害するを厭ひ、是を以て宋学を用ひて程式と為し、無用の論説を省く。然れども又異学を禁ぜず、人材を生ずるを求むる所以なり。慶元以還、文運大いに闢け、元禄・享保に至りて儒学勃興し、人物輩出し、前代に比無し。自づから天子に臣たらず、諸侯に友たらざるの士有り、盛んと謂ふべし。唯だ憾むらくは先輩皆武の文より尊きを知らず、徒らに俛首して文学の士に従はんと欲す。亦誤りならずや。漢の時、文武は二と為り、烈士は皆武人の中より起こる。文国すら猶ほ然り、況んや我が方に於いてをや。近代、大石良雄は、躬ら国家の令を干し、其の主の為に能く其の仇を報い、罪を闕下に俟つ。此れ私には則ち忠を存し、公には則ち法を重んず。両つながら得たりと謂ふべし。武士道は自づから此くのごときのみ。尚ぶべしと為す。国家の法は固より泰山より重し。則ち其の忠志を愍れむと雖も、法を枉げて私を行ふ能はず。待つに武士道を以てして死を賜ふ。法を重んじ忠を恤み、天下の耳目を新たにして、武士道を興起するなり。吾が儕小人、妄りに口吻を容るべからずと雖も、私に以為へらく、太平の兆なり、と。欽みて奉り之を賀す。而るに闇斎の流れは、漫りに議して以為へらく、彼は復讐に非ず、と。徂徠の徒は、妄りに斥けて以為へらく、彼は義士に非ず、と。一は性理に泥み、一は文辞に拘り、我が邦に武道の尚ぶべき有るを知らず。悲しいかな。湯浅常山曰く、苟くも武士たる者は、寧ろ文華を廃すとも、武事を廃すること勿かれ、と。真儒の見、卓なりと謂ふべし。嘗て聞く、程子、人に史伝を読むことを勧む、と。予も又毎に謂ふ、我が方の学者は、当に勤めて史伝を読むべし、と。夫の常山紀談・藩翰譜・砕玉話・武野燭談等の類のごときは、則ち常に諸を座右に置きて可なり。此れ則ち武心を養ふの方なり。楽を用ひず、武術を治めずして、別に心を治むるの方有らんや。学者徒らに心を治むるの工夫を為し、
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『尚武論』・文に偏る害と、封建が武を興す理存するが如く亡きが如し。天運已に改まり、聖賢の力も之を為す能はず。則ち天下已に喪乱に苦しみ、生民自づから塗炭に陥る。又別に王者の起こりて之を救ふ有るを俟つのみ。斉の桓公、未だ必ずしも純ら王道を用ひずと雖も、其の力、天子を翼戴し、天下を一匡す。則ち孔子已に其の仁を与す。蓋し試みる所有ればなり。孟子は却つて之を卑しむ。時世の異なればなり。管仲は三帰反坫の僭有れども、其の仁たるを害せず。若し其の純ならざるを以て之を廃せば、則ち孟子にも亦純ならざる者有り、宜しく廃する所に在るべし。我が邦の用ふる所の儒道は、儒の本原を究めず、変通の道を知らず、唯だ文辞章句を為すのみ。此れを以て聖人の道と為して之を朝廷に用ふれば、則ち搢紳の士は文人たるのみ。搢紳の士既に文人たれば、則ち軟弱に失はざる者幾ど希なり。悪くんぞ孔孟の道たらんや。吁、朝廷是を以て衰微不振に至る、亦悲しむべきかな。更に仏法因果応報の説を用ひて人心を蕩滌するに至り、其の邪説を以て国神を推移し、以て彼は則ち祇侫媚者なりと謂ふ。是に於いて神に賽し仏に佞し、僧を寵し巫を崇め、至らざる所無し。人事の当に務むべきを務めず、国勢奚ぞ失はざるを得んや。我が邦の上古の太平は儒と仏とに由るに非ず、別に所在有るなり。我が邦は固より武国たり、則ち武有りて国昌え、武無ければ則ち国衰ふ。国の興替は唯だ武事の盛衰に在るのみ。国柄を執る者は、宜しく真儒を用ひて武事を輔くべきのみ。古人既に文武を以て之を車の両輪、鳥の両翼に比す。唯だ文を以て武を害すること勿かれのみ。夫れ武士の国に在るは、猶ほ水の地中に在るがごとし。師の卦の象見るべし。往くとして水に非ざる莫く、至る攸として武士にして其の長を用ひざる莫し。諸侯を建てて其の国を治めしむれば、則ち国自づから興り、磐石堅固なり。武国たる所以なり。我が邦、上古は封建、中葉は郡県と為りて、国勢衰弱す。今復た封建と為れば、則ち武道自づから盛んにして、武国の名に適ふ。賀すべく悦ぶべきなり。上古は封建、中葉は郡県とは、何を以て之を言ふ。白石先生曰く、上世の制は、猶ほ三代封建の時のごとし。中世以降は、亦猶ほ漢の初め、兼ねて封建郡県の制を有つがごとし。孝徳の世に迨びて、天下尽く変じ、嬴秦郡県の制と為れり、と。昔、上世に在りて五方の国、各々君長有り、山海の間に散在し、大小強弱、相統一する能はず。神武開国の初め、其の功有るを封ず。
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『学論抄録』・時代で変わる文武の重みと武家の成り立ち孔子豈に独り未だ之を学ばざらんや。将た必ず其の再三問うて措かざるを待ちて後、以て応ずる有るなり。亦た臣の君に対するの礼なり。具眼の儒先の成説已に此くの如し。末学復た何ぞ之れ贅せん。夫れ礼楽は、先王の妙術にして、治道は此に由らざる莫し。軍は是れ五礼の一にして、吉凶賓嘉の四つは、是れ治日の礼、軍は以て乱を戢む。其の軽んずべからざること知るべし。子の慎む所は斎・戦・疾、苟くも慎むこと無くして可ならんや。而して治まれば則ち武衰へ、乱るれば則ち文荒る。理勢の緩急、必ず然らざるを得ざるなり。故に文武の二つは素より軽重無しと雖も、然れども時を済ふの挙は、自ら抑揚有り。此れ政教の異同無きこと能はざる所以なり。按ずるに古に大道・常道の目有り。所謂大とは、小数に対して言ふ。蓋し時王の行ふ所、時俗風を成し、対立する者無きの謂なり。所謂常とは不経に対して言ふ。蓋し先王の建つる所、万世之に依りて易ふべからざるの謂のみ。原ぬるに夫れ我が国上世、細戈千足国と称す。武備の盛んなる、亦た以て知るべし。爾来国人風を成すなり。中葉以降、天下の権、人臣に移り、其の権を握る者、或いは文を以て自ら処り、或いは武を以て自ら処る。蓋し澆季の世、術古に及ばず、所謂文武も亦た先王の旧に非ざるなり。故に文を以て自ら処る者は、早く外患有るを忘れ、淫靡の風従ひて起こる。是を以て永く社稷を保つこと能はず。平相国の如き是れなり。武を以て自ら処る者は、剛烈にして風を損ひ、礼制過朴の弊無きこと能はず。然れども常に戒慎恐懼の意有りて、反って先王の遺旨を存す。是を以て遽かに滅亡の憂ひに至らず。鎌倉氏の如き是れなり。前蹤昭々として見るべし。神祖の運を開くに追び、遠く国初の芳躅を追ひ、近く前代の覆轍を鑑み、武を以て表と為し、文を以て裏と為す。而して玉科金条、標題して武家と曰ふ。恭しく惟みるに皇帝の封冊に曰く、征夷大将軍云々と。所以に、当路の士大夫皆武を以て自ら処り、傍らに儒者を置きて以て顧問に備ふ。官儒と雖も其の始め皆円頂にして僧官に属し、
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『尚武論』・武士道の自然と、歌や学の位置未だ聞かず、不幸を以て之を罪する者有るを。又、池田輝政は其の父を害せんが為に、永井氏厚賞を請ひ、日比半右衛門は其の子を殺さんが為に、米村市之丞之を揄揚するの類、未だ聞かず、天倫を斁ると謗る者有るを。此れ則ち我が邦の武士道なり。他、婦人女子の身を殺して節操を立つる者のごときは、渠等初めより学道の者に非ず。我が邦自然の武士道、自然にして之を識るなり。徂徠曰く、武士道は戦国に創まる、悪習なり、と。闇斎曰く、我が邦に異端有り、所謂武士道是れなり、云云、と。此れ皆儒に僻せる言なり。余故に曰く、我が方の士、宜しく武の文より尊く、忠の孝より尊きを体識すべきなり、と。徐庶たらんよりは、寧ろ趙苞たれ。班固たらんよりは、寧ろ班彪たれ。亦可ならずや。我が邦苟くも武士道無くんば、則ち武士は武士ならざるなり。何ぞ尊ぶべけんや。朝廷縉紳家、倭歌を以て我が邦の道と為す。夫れ和歌は素盞烏尊に創まり、連歌は日本武命に基づく。二神は固より此れを以て道と為す者に非ず、仮りて以て志を述ぶるのみ。今の学者、学を以て詩歌を為すは可なり。詩歌を以て学と為すは、大いに不可なり。人麻呂・赤人、世に歌聖を以て之を称す。二人は均しく文人なり。固より道を知る者に非ず。予を以て之を観れば、則ち李杜の亜のみ。我が邦の道とする所は武に在り、歌に在らざるなり。孔子嘗て曰く、桴に乗りて海に浮かばん、と。又曰く、九夷に居らんと欲す、と。豈に我が邦に取る所有るか。其の取る所は果たして武に在るなり。白石先生は京師の風を以て江戸に易へんと欲し、徂徠先生は西土の風を以て日本を化せんと欲す。倶に我が邦の善の世界に冠たる者有るを知らざるなり。易に曰く、爾の霊亀を舎てて、我が朶頤を観る、と。二先生に有り。我が邦の武は、弓馬を以て重しと為す。故に武士を弓執と曰ひ、弓馬家と曰ふ。此れ皆古言なり。西土は夷を以て我が邦を称す。説文に曰く、夷の字は大に从ひ弓に从ふ、と。此れ又弓を以て之を称するなり。南蛮北狄の、獣を以て之を称するの類に非ざるなり。陸機の要覧に、我が方の弓を称して東弓と曰ふ。又邦人、武士道を称して弓矢の礼と曰ふは、是が為の故なり。我が邦東北の士、最も弓馬に善し。是を以て東北の武勇、特に天下に秀づ。武田・長尾の武を以て顕るるは、弓馬を以てなり。武士は宜しく馬に乗り弓を執り、古実を失はざるべきなり。聖人は詩書礼楽を以て教へと為す。予を以て之を観れば、我が邦の万葉・古今集は、猶ほ彼の方の詩のごとし。
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『尚武論』・義理と廉恥、そして備えの実際仏の流れと為らざる者幾ど希なり。今の儒者、滔々たる者は皆仏の徒なるかな。僧義堂曰く、儒者は我が仏法を用ふること七分、と。誠なるかな。学者若し仏の流れと為らんと欲せば、則ち宜しく儒を拾てて仏に従ふべきなり。僧日蓮、鎌倉に在りて、土牢の中に拘はるること三年、而る後に勅命有り。日蓮、使者を迎へて曰く、我、一尺の牢中に在るも、亦関せず、我が心は則ち天地の間に充つ、と。三宅尚斎曰く、其の胸中の大なる、吾が党に却つて此の気象無し、と。余毎に曰く、性理の弊は仏法と為り、古学者の弊は文人と為る。我が邦の学者は、道学先生と為ること勿かれ、其の仏に陥らんことを恐るればなり。詞章を事とすること勿かれ、其の文人に流れんことを恐るればなり。平日武術を治め、以て義理を識り、廉恥を養ふを要と為す。武と云ふ、武と云ふ、戈矛の云ならんや。義理を知らざれば武に非ざるなり。廉恥を弁へざれば武に非ざるなり。又戈矛弓矢備はざれば武に非ざるなり。米粟多からざれば武に非ざるなり。如し其れ米粟多からずんば、則ち何ぞ瑞穂国と謂はん。戈矛備はらずんば、則ち何ぞ細戈千足国と謂はん。我が国は特り東海の中に立ち、諸邦と壌を接せず。米粟備はり、矛戟満ち、士皆義理を知り廉恥を弁ふれば、外賊其の辺陲を窺ふを得ず。弘安の蒙古は、北条時宗撃ちて之を殲し、応永の明賊は、足利義持討ちて之を却く。豈に亦壮ならずや。唐の太宗は八十万を将ゐて朝鮮を撃つも、朝鮮服せず。而るに神功皇后は婦人にして躬自ら甲を擐き、征して之を平らぐ。豊臣太閤は全功を収めずと雖も、彼の国懾服し、懲りて之を慫す。我が邦の武の諸国に冠たるを知るべし。近く聞く、外賊の来たりて伺ふ者有りと。今や封建の制、各々皆其の地に処りて之を禦ぐ。必ずしも多兵を仮らず、趙の李牧の胡を防ぐが如く易易たるのみ。若し遠兵を用ふれば、則ち兵労れ国糜え、後禍貲らず。李広父子、兵を将ゐて遠きに抵り、其の功を収めざるは、李氏の兵術、豈に李牧に及ばざらんや。封建郡県に得失有るを以ての故なり。今、浦安国に生まれ、封建の制有りて、漫りに辺陲を憂ふ。亦何の心ぞや。或ひは又措きて問はず、遂に驕奢を去らず、武術を備へず、遊佚日に増し、怠惰月に生ずるに至る。我が憂ひは此に在りて、戎に在らず。余故に曰く、我が邦の人は、宜しく武を識るべきのみ。能く武を識れば、則ち上安く下平らかに、逆臣凌がず、外寇入らず、四方事無し。亦何ぞ堯舜の治を羨まんや。

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