慎思録 / 巻之六
凡記事之文。尙質實而無虛飾者。是可爲實錄。葢不以質實。而務爲巧麗粧飾。則其所記之事迹。誠僞未可知。恐不能無虛妄。且多無用之贅言。不可爲實錄。苟非實錄。則徒非無益。而又害之也。其文字之鋟刻者。便所謂木妖而已。
新字:凡記事之文。尚質実而無虚飾者。是可為実録。葢不以質実。而務為巧麗粧飾。則其所記之事迹。誠偽未可知。恐不能無虚妄。且多無用之贅言。不可為実録。苟非実録。則徒非無益。而又害之也。其文字之鋟刻者。便所謂木妖而已。
書き下し
凡そ事を記すの文は、質実を尚びて虚飾無き者、是れ実録と為すべし。蓋し質実を以てせずして、務めて巧麗粧飾を為せば、則ち其の記す所の事迹、誠偽未だ知るべからず。恐らくは虚妄無きこと能はず。且つ無用の贅言多し。実録と為すべからず。苟も実録に非ずば、則ち徒に益無きのみに非ずして、又之を害す。其の文字の鋟刻する者は、便ち所謂木妖のみ。
現代語訳
およそ事実を記す文は、質朴で真実を尊び、飾りのないものを実録とすべきです。思うに、質実によらずに巧みで華やかな飾りに努めれば、記された事跡が本当か偽りか分かりません。おそらく虚偽がないわけにはいかないでしょう。また無用の余計な言葉が多くなります。これは実録とは言えません。実録でなければ、ただ益がないだけでなく、かえって害になります。そういう文章を版木に彫って出版したものは、いわゆる「木妖(版木のばけもの)」にすぎません。
解説
記録の文章は飾らず事実をありのまま書くべきで、美文で飾った記録は真偽が分からず害になると説く条です。「木妖」は無益な書物を刊行して版木を無駄にすることを皮肉る語です。益軒は『黒田家譜』の編纂や諸国の紀行文で、見聞をありのままに記す姿勢を貫きました。報告書や議事録、記事でも、印象を良くしようと飾るほど事実が見えにくくなります。記録の価値は読みやすさや華やかさより、後の人が信頼できることにあります。
この章句が説くこと
実録質実記録誠文章
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