慎思録 / 巻之五
樂之所過。即是憂之所生也。樂者爲憂之根。憂之所在。還是樂之所生也。憂者爲樂之根。是亦與禍福相倚伏之理相似。人之制行。惟量我力之所宜爲而爲之。則可無後日之怨悔。如邵子詩所謂量力動時無悔吝。是也。苟不量其力而行難爲之事。不能終無怨悔。不量力之過。率起於好事好名。而不出于其誠實。或起于一時浮氣之激發。宜乎不能保久也。唐高祖以其次子世民功大才高。欲立爲太子。世民固辭而不立。終逢建成之亂。至殺戮兄弟。此以好名之心僞讓。而不能終其友悌。葢於初不用其誠。故於終不能保初節。所以有悔也。孟子曰。好名之人。能讓千乘之國。苟非其人。簞食豆羹見於色。信哉斯言也。
新字:楽之所過。即是憂之所生也。楽者為憂之根。憂之所在。還是楽之所生也。憂者為楽之根。是亦与禍福相倚伏之理相似。人之制行。惟量我力之所宜為而為之。則可無後日之怨悔。如邵子詩所謂量力動時無悔吝。是也。苟不量其力而行難為之事。不能終無怨悔。不量力之過。率起於好事好名。而不出于其誠実。或起于一時浮気之激発。宜乎不能保久也。唐高祖以其次子世民功大才高。欲立為太子。世民固辞而不立。終逢建成之乱。至殺戮兄弟。此以好名之心偽譲。而不能終其友悌。葢於初不用其誠。故於終不能保初節。所以有悔也。孟子曰。好名之人。能譲千乗之国。苟非其人。箪食豆羹見於色。信哉斯言也。
書き下し
楽の過ぐる所は、即ち是れ憂ひの生ずる所なり。楽は憂ひの根たり。憂ひの在る所は、還りて是れ楽の生ずる所なり。憂ひは楽の根たり。是れ亦禍福相倚伏するの理と相似たり。人の行ひを制する、惟我が力の宜しく為すべき所を量りて之を為せば、則ち後日の怨悔無かるべし。邵子の詩に所謂、力を量りて動く時は悔吝無し、といふが如き、是れなり。苟も其の力を量らずして為し難きの事を行へば、終に怨悔無きこと能はず。力を量らざるの過ちは、率ね事を好み名を好むより起こりて、其の誠実より出でず。或いは一時の浮気の激発より起こる。宜なるかな久しきを保つこと能はざるや。唐の高祖、其の次子世民の功大に才高きを以て、立てて太子と為さんと欲す。世民固辞して立たず。終に建成の乱に逢ひ、兄弟を殺戮するに至る。此れ名を好むの心を以て偽り譲りて、其の友悌を終ふること能はず。蓋し初めに於て其の誠を用ひず。故に終はりに於て初節を保つこと能はず。悔い有る所以なり。孟子曰く、名を好むの人は、能く千乗の国を譲る。苟も其の人に非ずんば、簞食豆羹も色に見はる、と。信なるかな斯の言や。
現代語訳
楽しみが度を過ぎるところは、そのまま憂いの生じるところです。楽しみは憂いの根です。憂いのあるところは、かえって楽しみの生じるところです。憂いは楽しみの根です。これもまた禍と福が互いに寄りかかり潜み合う理と似ています。人が行いを定めるとき、自分の力でするのにふさわしいことを量ってそれを行えば、後日の恨みや悔いはないでしょう。邵康節の詩に「力を量って動けば悔いはない」とあるのがそれです。もし力を量らずに難しいことを行えば、ついには恨みや悔いを免れません。力を量らない誤りは、おおむね事を好み名を好むことから起こり、誠実さから出たものではありません。あるいは一時の浮ついた気の高ぶりから起こります。長く保てないのももっともです。唐の高祖は、次男の李世民の功が大きく才が高いので、太子に立てようとしました。世民は固く辞退して立ちませんでした。ついに兄の建成との争乱にあい、兄弟を殺すに至りました。これは名を好む心で偽って譲り、兄弟の情をまっとうできなかったのです。初めに誠を用いなかったので、終わりに初めの節操を保てなかった。だから悔いがあるのです。孟子は「名を好む人は千乗の国をも譲ることができる。しかしそのような人でなければ、一椀の飯や一杯の汁でも顔色に出る」と言いました。まことにこの言葉のとおりです。
解説
この章句が説くこと
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