慎思録 / 巻之四
天運而不息。故四時行焉。百物生焉者。是乃道之所以變化流行。而成其功也。而此道必有氣。而流行變化。氣之所以流行變化者。其實即道爲之主宰。而萬化出焉。所謂天以陰陽五行化生萬物。是也。道之中。自有氣而具焉。譬諸人身之必有四體。苟無四體。則不可以爲人。苟無氣。則不可以爲道。氣不能無動靜。於此有陰陽。陰陽者。道中之物也。非在道之外。故言道。則統氣而在其中矣。不可分析而爲二物。古昔聖人未嘗以道與陰陽爲二而說。可見理氣混同而無間。道主于陰陽。而陰陽在其中。然則理外無氣。故曰。天地之間。唯有道而巳矣。更有何物乎哉。
新字:天運而不息。故四時行焉。百物生焉者。是乃道之所以変化流行。而成其功也。而此道必有気。而流行変化。気之所以流行変化者。其実即道為之主宰。而万化出焉。所謂天以陰陽五行化生万物。是也。道之中。自有気而具焉。譬諸人身之必有四体。苟無四体。則不可以為人。苟無気。則不可以為道。気不能無動静。於此有陰陽。陰陽者。道中之物也。非在道之外。故言道。則統気而在其中矣。不可分析而為二物。古昔聖人未嘗以道与陰陽為二而説。可見理気混同而無間。道主于陰陽。而陰陽在其中。然則理外無気。故曰。天地之間。唯有道而巳矣。更有何物乎哉。
書き下し
天運りて息まず。故に四時行はれ、百物生ずるは、是れ乃ち道の変化流行して其の功を成す所以なり。而して此の道必ず気有りて流行変化す。気の流行変化する所以は、其の実即ち道之が主宰を為して、万化出づ。所謂天は陰陽五行を以て万物を化生す、是れなり。道の中、自ら気有りて具はる。諸を人身の必ず四体有るに譬ふ。苟も四体無ければ、則ち以て人と為すべからず。苟も気無ければ、則ち以て道と為すべからず。気は動静無きこと能はず。此に於て陰陽有り。陰陽は道中の物なり。道の外に在るに非ず。故に道を言へば、則ち気を統べて其の中に在り。分析して二物と為すべからず。古昔の聖人、未だ嘗て道と陰陽とを以て二と為して説かず。理気混同して間無きを見るべし。道は陰陽を主りて、陰陽其の中に在り。然らば則ち理の外に気無し。故に曰く、天地の間、唯だ道有るのみ、更に何物か有らんや、と。
現代語訳
天がめぐって止まず、それで四季がめぐり、あらゆる物が生まれるのは、道が変化し流れて、そのはたらきを成し遂げるからです。そしてこの道には必ず気があって、流れ変化します。気が流れ変化するのは、実は道がそれを主宰しているからで、そこからあらゆる変化が出てきます。「天は陰陽五行によって万物を生み育てる」というのがこれです。道の中にはおのずから気が具わっています。人の体に必ず手足があるのにたとえられます。手足がなければ人とは言えず、気がなければ道とは言えません。気は動と静を持たずにはいられず、そこに陰陽があります。陰陽は道の中の物であって、道の外にあるのではありません。ですから道と言えば気を統べてその中に含みます。分けて二つの物とすることはできません。昔の聖人は、道と陰陽を二つのものとして説いたことはありません。理と気が混じり合って隙間がないことがわかります。道は陰陽を主宰し、陰陽はその中にあります。そうであれば理の外に気はありません。だから「天地の間にはただ道があるだけで、それ以外に何があろうか」と言うのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四道と理とは一なり。天人の道、二有るに非ずと雖も、然れども其の流行を以て之を道と謂ふ者は、天の道なり。其の性に率ふを以て之を道と謂ふ者は、人の道なり。其の条貫を以て之を理と謂ふ者は、天人に通じて言ふ。易に窮理と謂ひ、孟子に理義と謂ひ、礼記に天理と謂ふが如き、是れなり。其の気と相対して形象無き者を以て、故に宋儒専ら理の字を説きて、気と対了す。近世異学の輩出でて、以謂へらく、只だ之を道と謂ふべし、之を理と謂ふべからず、と。此れ亦た固陋の甚だしき、時変に通ぜざる者なり。豈に古来聖賢の説、時に順ひて宜しきを異にすることを知らんや。堯舜の盛世の如きは、未だ幾許の議論有らず。唯だ一の中の字を言ひて足る。後世に至りて時を歴ること愈久しくして、議論愈詳らかなり。宋儒に到りて専ら理の字を説くも、亦た何の害か之有らん。
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『慎思録』巻之五天地の間、道に非ざる無し。鳶の飛び、魚の躍る者は、乃ち天機の発動する所、道の費なり。此れ見るべし。鳶をして飛ばしめ、魚をして躍らしむる者は、鬼神の為す所、是れ二気の良能、道の隠なり。此れ見るべからず。合せて之を言へば、則ち二気の流行する所、皆是れ天理の在る所にして、道に非ざる無し。
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『慎思録』巻之四天地の間、只だ一箇の道有るのみ。更に何物か有らんや。或ひと曰く、陰陽は是れ道と相対す。何ぞ只だ一箇の道有るのみと言ふや、と。曰く、陰陽も亦た是れ道中に備はる所の物なり。道に非ざるは莫し。道とは、天地の主宰なり、統ぶる所を以て言ふ。陰陽の綱紀なり、経緯錯綜を以て言ふ。万物の根柢なり、生ずる所を以て言ふ。人身の徳行なり、禀受すると率循するとを以て言ふ。天地とは、道の郛廓なり、載する所を以て言ふ。陰陽とは、道の権力なり、運用を以て言ふ。四時とは、道の流行なり、転化を以て言ふ。万物とは、道の形体なり、寓する所を以て言ふ。道なる者は、天地を主宰し、陰陽を総摂し、万物を化生する所以の者なり。其の流行を以て、之を道と謂ふ。其の気を主りて条貫有るを以て、又之を理と謂ふ。其の実は道と理と一なり。其の指す所有るを以て名を異にするのみ。此の理は陰陽の主と為りて相離れず。理の気有るは、猶ほ人の四体有るがごとし。故に理を言へば、則ち気其の中に在りて、離合すべからず。蓋し気無きの理無く、又理無きの気無し。
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『慎思録』巻之四理と気とは一にして二、二にして一なり。同じくして異なりと謂ふべし。故に善く理を観る者は、陰陽に就きて之を言ひて、其の理を失はず。理を以て主と為すに由るなり。気は是れ理の運用、理は是れ気の本主なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。是れ気に就きて道を見るなり。道と陰陽とは決して是れ二物に非ざることを見るべし。混同して間無きなり。其の混同して間無きの中に、至理有りて之を主宰す。如し或いは陰陽を離れて道を言ひ、或いは陰陽を主として道を言ふ者は、道を知る者に非ざるなり。陰陽を離れて道を言ふ者は、風を係ぎ影を捕ふるが如し。此れ異学空虚の説なり。其の言は妄誕為り。陰陽を主として道を言ふ者は、糟粕を甘しとして醍醐を舎つるが如し。是れ方技術数の説なり。其の言は鄙陋為り。皆此れ道の至理にして陰陽の主為ることを知らざるなり。苟も此の意を理会せば、則ち陰陽を合して道と為すも、固より可なり。陰陽を以て器と為すも、亦た可なり。故に明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。苟も陰陽を離れて道と為さば則ち不可なり。蓋し理無きの気無く、気無きの理無きに由るなり。
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『慎思録』巻之四故に天地の覆載、陰陽の闔闢、四時の流行、万物の生育、皆是れ道の為す所なり。陰陽之が経緯錯綜を為すと雖も、亦た是れ道中の事のみ。蓋し道有りて陰陽立ち、陰陽有りて道行はる。道無ければ則ち立たず、陰陽無ければ則ち行はれず。故に道と陰陽とは、一にして二、二にして一なり。須らく是れ心に会して之を自得すべし。言語の能く形容する所に非ざるなり。先正以為へらく、理気は決して是れ二物なり、と。此れ後学の暁り易からんことを欲するなり。之を要するに理気は分析すべからず。明道曰く、道も亦た器、器も亦た道、と。夫れ道器は誠に是れ二物なり。然り而して明道渾融して説く。其の義自ら分明なり。況や理気は本是れ分析すべからず。蓋し理は必ず気有り、気は必ず理有り。離合を説くべからず、先後を論ずべからず。其の混同を以て之を一物と謂ふも、固より可なり。主宰運用の異有るを以て之を二物と謂ふも、亦た可なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。皆是れ陰陽に就きて言を為す。故に陰陽を舎つれば、則ち道の言ふべき無し。道は陰陽に因りて見る。然れども理を廃して陰陽を説く者は、
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『慎思録』巻之四易に曰く、形よりして上なる者、之を道と謂ひ、形よりして下なる者、之を器と謂ふ、と。程子朱子皆謂ふ、陰陽も亦た形而下なる者なり、と。是れ理と気と相対するを以て之を謂ふなり。蓋し理気は分かつべからずと雖も、然れども分かたずして之を言へば、則ち其の別明らかならず。故に程朱の言此の如し。其の実、器なる者は形有るの物なり。此れを形而下なる者と為す。陰陽は只だ象有りて形無し。形而下なる者と謂ふべからざるなり。明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。蓋し道器相離れず。然れども程朱は理の万物に主為ることを説かんと欲す。故に陰陽を以て形而下なる者と為すのみ。蓋し道を主と為し、陰陽を次と為す。其の言此の如くならざれば、則ち道明らかならざるのみ。是れ已むを得ざるの説なり。