慎思録 / 巻之三
朱子曰。謂之名之也。之謂直爲也。葢如天命之謂性。率性之謂道之類。天命即是性。率性即是道。是所謂直爲也。如喜怒哀樂之未發謂之中。發而皆中節謂之和。葢未發者非即是中。以其未發之時。其心不偏。故名之爲中。發而皆中節者。非即是和。以其已發之時。不乖戾于理。故名之爲和。所謂名之也。謂之與之謂。其意自別如是。不可槩乎混同。
新字:朱子曰。謂之名之也。之謂直為也。葢如天命之謂性。率性之謂道之類。天命即是性。率性即是道。是所謂直為也。如喜怒哀楽之未発謂之中。発而皆中節謂之和。葢未発者非即是中。以其未発之時。其心不偏。故名之為中。発而皆中節者。非即是和。以其已発之時。不乖戻于理。故名之為和。所謂名之也。謂之与之謂。其意自別如是。不可槩乎混同。
書き下し
朱子曰く、之と謂ふは之を名づくるなり。之を謂ふは直に為すなり、と。蓋し天命之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふの類の如きは、天命は即ち是れ性、率性は即ち是れ道なり。是れ所謂直に為すなり。喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ひ、発して皆節に中る、之を和と謂ふが如きは、蓋し未発の者は即ち是れ中に非ず。其の未発の時、其の心偏らざるを以て、故に之を名づけて中と為す。発して皆節に中る者は、即ち是れ和に非ず。其の已発の時、理に乖戻せざるを以て、故に之を名づけて和と為す。所謂之を名づくるなり。之と謂ふと之を謂ふと、其の意自ら別なること是の如し。概して混同すべからず。
現代語訳
朱子は「『謂之』(これを~と謂ふ)は名づけることで、『之謂』(これ~と謂ふ)はそのままそれだと言うことだ」と言いました。思うに『中庸』の「天命これを性と謂ふ」「性に率ふこれを道と謂ふ」の類は、天命がそのまま性であり、性に従うことがそのまま道です。これがいわゆる「そのままそれだと言う」です。「喜怒哀楽のまだ発しないのを中と謂ひ、発してみな節度にかなうのを和と謂ふ」のようなものは、まだ発していないことがそのまま中なのではありません。まだ発しない時にその心が偏っていないので、名づけて中とするのです。発してみな節度にかなうことがそのまま和なのではありません。すでに発した時に理に背かないので、名づけて和とするのです。これがいわゆる「名づける」です。「謂之」と「之謂」とでは、意味がおのずとこのように違います。一概に混同してはなりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之五孟子曰く、君子の言は、帯を下らずして、道存す、と。蓋し道は人に遠からず。性に率ふ、之を道と謂ふ。故に曰く、道なる者は、須臾も離るべからざるなり、と。身外の事に非ざるに由るなり。日用常行の間、至近の処にして、至道存す。此れ乃ち天理の流行発見する処なり。君子の道は、費にして隠なり。若し夫れ非常高遠の事に対して、以て至妙と為す者は、左太冲の所謂侈言験無く、麗なりと雖も経に非ずといふ者是れのみ。蓋し妙理を語ることは易し。一超直入、言下頓悟と雖も、亦為すべし。然れども真の悟りに非ざるのみ。
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『慎思録』巻之三君子の道は、固より敢て物を離れず、又敢て物を逐はず。夫れ物を逐ふ者は、其の心を放ちて求むることを知らず、其の欲に徇ひて反ることを知らず。道を失ふ所以なり。物を離るる者は、倫理を去り人事を廃す。道を為す所以に非ざるなり。
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論語・先進篇子貢問う、「師と商とは孰れか賢れる。」子曰く、「師や過ぎたり、商や及ばず。」曰く、「然らば則ち師愈れるか。」子曰く、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」