新論 / 國體中
至 仁德朝、海内無事、兵革不試、 履仲 安康而後、漸趨乎衰弱、歴十餘世、而任那失守、三韓不朝、 中宗中興、憤皇化之不振、躬臨行營經略任那、而終不能克、然當時事東略、大攘斥蝦夷、建府於後方羊蹄、〈今西蝦夷地有止利別山、蓋古後方羊蹄地、嘗聞此山中本有路径、蝦夷恒往來之、百餘年前、蝦夷叛亂、自是禁蝦夷不得由是路、路遂廢、蓋是地險要、叛虜易依阻以爲變、故禁其往來、而古者建府於此、亦據險要以制夷虜也、〉遂以征肅愼、其事則雖在 齊明天皇世、而蓋 中宗在儲宮佐英略、而餘威所震、渤海亦遣使貢獻、治強之實復見矣、
新字:至 仁徳朝、海内無事、兵革不試、 履仲 安康而後、漸趨乎衰弱、歴十余世、而任那失守、三韓不朝、 中宗中興、憤皇化之不振、躬臨行営経略任那、而終不能克、然当時事東略、大攘斥蝦夷、建府於後方羊蹄、〈今西蝦夷地有止利別山、蓋古後方羊蹄地、嘗聞此山中本有路径、蝦夷恒往来之、百余年前、蝦夷叛乱、自是禁蝦夷不得由是路、路遂廃、蓋是地険要、叛虜易依阻以為変、故禁其往来、而古者建府於此、亦拠険要以制夷虜也、〉遂以征粛慎、其事則雖在 斉明天皇世、而蓋 中宗在儲宮佐英略、而余威所震、渤海亦遣使貢献、治強之実復見矣、
書き下し
仁徳の朝に至り、海内事無く、兵革試みず。履仲・安康よりして後、漸く衰弱に趨き、十余世を歴て、任那守りを失ひ、三韓朝せず。中宗中興し、皇化の振はざるを憤り、躬ら行営に臨みて任那を経略したまへども、終に克つこと能はず。然れども当時東略を事とし、大いに蝦夷を攘斥し、府を後方羊蹄に建て、(今西蝦夷地に止利別山有り、蓋し古の後方羊蹄の地なり。嘗て聞く、此の山中本路径有りて、蝦夷恒に之を往来す。百余年前、蝦夷叛乱し、是より蝦夷の是の路に由るを得ざるを禁じ、路遂に廃すと。蓋し是の地険要にして、叛虜依阻して以て変を為し易し。故に其の往来を禁ず。而して古者府を此に建つるも、亦険要に拠りて以て夷虜を制するなり。)遂に以て粛慎を征す。其の事は則ち斉明天皇の世に在りと雖も、蓋し中宗儲宮に在りて英略を佐け、而して余威の震ふ所、渤海も亦使を遣はして貢献す。治強の実復た見ゆ。
現代語訳
仁徳天皇の御代になると、国内は平穏で戦をすることもなかった。履中・安康の天皇以後、しだいに衰弱に向かい、十余代を経て任那は守りを失い、三韓は朝貢しなくなった。中宗(中興の帝。天智天皇を指すとみられる)は、天皇の教化が振るわないのを憤って、自ら陣営に臨んで任那の回復を図られたが、ついに果たせなかった。しかし当時は東方の経略に力を入れ、大いに蝦夷を退け、後方羊蹄(しりべし)に府を置き(いま西蝦夷地に止利別山があり、おそらく古の後方羊蹄の地である。聞くところでは、この山中にはもと道があり、蝦夷が常に往来していた。百年余り前に蝦夷が反乱を起こし、それ以来蝦夷がこの道を通ることを禁じたので、道はついに廃れたという。思うにこの地は険しい要地で、反乱者が立てこもって変事を起こしやすい。だから往来を禁じたのである。古にここに府を建てたのも、やはり要害に拠って夷狄を抑えるためであった)、ついに粛慎(みしはせ)を討った。その事は斉明天皇の御代のことではあるが、おそらく中宗が皇太子として優れた策略で補佐されたのであり、その余勢の及ぶところ、渤海もまた使者を遣わして貢物を献じた。国が治まり強かった実が、ここで再び現れたのである。
解説
この章句が説くこと
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『新論』國體中天朝は武を以て国を建て、戎を詰め方に行ふこと、由来旧し。弧矢の利、戈矛の用、既に神代に見え、宝剣は三器の一に居る。故に号して細戈千足の国と曰ふ。天祖中州を天孫に授けたまふや、押日をして来目の兵を帥ゐて従ひ行かしむ。太祖の征戦も、亦専ら来目を以て折衝の用と為し、遂に中土を平定したまふ。又物部を置きて、来目と相参へ、以て宮城を衛り、国土を鎮む。崇神天皇将軍を四道に遣はして、不庭を討平し、皇子豊城命をして東国を治めしめ、而して民をして農隙に射猟し、以て其の物を貢し、以て征役に従はしむ。規制一たび立ち、歴朝遵奉し、土疆日に以て広く、東は蝦夷を斥け、西は筑紫を清め、遂に三韓を平げ、府を任那に建て、以て之を控制す。治強の実、是に於てか見ゆ。
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『新論』國體中爾後百余年、世道漸く汚ると雖も、桓武・嵯峨の朝に迨び、遂に陸奥の賊を平げ、蝦夷跡を海外に屏く。則ち猶未だ以て衰弱と為さざるなり。夫れ寇賊を攘除し、土宇を開拓するは、天祖の孫謀を貽したまふ所以にして、天孫の天祖を継述したまふ所以なり。故に皇太神を祭る祝詞に称する有り、「神明の照臨したまふ所、天を窮め地を極め、狭き者は広からしめ、険しき者は平らかならしめ、遠き者は八十綱を以て之を牽くが如し」と。是れ皇化の日に四表に被らんことを禱る所以にして、天朝建国尚武の意も亦見るべきなり。
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『新論』國體上世を歴ること既に久しきに及び、紀綱漸く弛み、或は背叛有り。崇神天皇、不庭を四征し、大いに政教を敷き、人民を校へて調役を課し、益々国造を封じて、以て遐陬を鎮撫し、拮据経営して、数朝を歴て衰へず。皇化日に洽く、土疆日に広く、而して土は皆天子の地、人は皆天子の民にして、民志一にして天下又大いに治まる。爾後安きに習ひて事無く、廟堂に遠大の慮無く、大臣権を弄し、私門を経営す。時に歴朝置く所、既に官家及び標代の民有り、而して臣・連・伴造・国造も、亦各私田を置き私民を畜ひ、土地人民漸く分裂し、各趨向する所を異にす。中宗天智天皇に至り、既に乱賊を誅戮し、儲闈に在りて政を輔け、旧弊を革除して、新制を布き、其の封建の勢に因りて之を一変し、国司を以て国郡を統治せしめ、而して遂に郡県の制を成す。私地私民を除きて、尽く之を朝廷に帰し、天下一として王土と王臣とに非ざる者無くして、天下又大いに治まる。
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『新論』國體中夫れ既に天下を弱くして、天下弱し。黔首を愚にして黔首愚なり。弱にして且つ愚なれば、則ち自ら動揺せんと欲すとも得んや。故に天下の変無き所以の者は、一言にして尽くすべし。曰く、戦を畏るるのみ。歴代の史伝の紀す所、一語有りて戦を畏ると曰へば、則ち豎子と雖も其の弱国為るを知る。堂堂たる用武の邦を挙げて、反つて狼顧畏戦の俗と為る、亦羞づべからずや。任那の守らざる、渤海の貢せざる、亦既に久し。而して蝦夷の諸島の如きも、亦日に蚕食に就き、内地と雖も、一水の外は、直ちに虜人の巣窟と為る。所謂先王は日に国を辟くこと百里、今や日に国を蹙むること百里なる者、独り周人の嘆く所のみならず。日に蹙まるの勢に処りて、日に辟くの虜を待ち、戦を畏るるの俗を用ゐて、以て百戦の寇に抗す。悪んぞ寒心せざるを得ん。
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『新論』國體中故に朝廷衰ふと雖も、天下乱ると雖も、天下の勢猶未だ其の強為るを失はず。是を以て能く胡元の賊船を却け、朝鮮の国都を抜き、兵威の海外に震ふこと、猶尚ほ此の如きなり。豊臣氏天下の太だ強きを患へ、有土の君を挙げて尽く之を大阪に処き、或いは之を土木に役し、或いは之を戦伐に用ゐ、之をして一日も強を其の国に養ふを得ざらしむ。東照宮の興るや、其の務めも亦本を強くして末を弱くするに在り。武士をして各々都城に聚処せしめ、之をして一日も強を其の邑に養ふを得ざらしめ、庶民をして耳に金鼓を聞かず目に干戈を見ざらしむ。是に於てか兵寡く民愚にして、天下始めて弱く、而して一時の人豪、息を屏めて命を聴く。英算偉略の独り天下を運らす所以の者、其の効速やかなりと謂ふべし。
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『新論』國體上今夷虜禍心を包蔵し、日に辺陲を窺伺して、邪説の害内に稔ること、百端窮まり無きこと此の如し。夷狄を中国に養ひ、天下嗷嗷として、民に淫朋有り、人に比徳有り。挙げて之を大観すれば、果たして中国と為すか、明清か、将た身毒か、抑も西洋か。国の体為る、其れ何如ぞや。夫れ四体具はらざれば、以て人と為すべからず。国にして体無くんば、何を以て国と為さんや。而るに論者方に富国強兵、守辺の要務を言ふ。今虜民心の主無きに乗じて、陰に辺民を誘ひ、暗に之が心を移す。民心一たび移らば、則ち未だ戦はずして天下既に夷虜の有と為る。所謂富強なる者、既に我が有に非ずして、適に以て賊に兵を借し盗に糧を齎すに足るのみ。心を労し慮りを竭くして、其の国を富強にし、一旦挙げて以て寇賊に資す。亦惜しむべきなり。苟も稍事体を弁ずる者は、誰か扼腕切歯して共に之を憤らざらんや。今幕府断然として天下に明令し、辺民の接済を厳禁し、黠虜をして肆に吾が民を煽惑するを得ざらしむ。而して令布くこと一日にして、天下智愚と無く、黠虜の狡謀詭計の悪むべく醜むべきを知らざる莫し。天下人心の磨滅すべからざること此の如し。
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