臣軌 / 題《臣軌》後
余家舊藏抄本《臣軌》一部,往往雜以武后製字,是蓋當時原本爾。但諸書所載製字,間與此異,未詳其孰是。今一仍抄本之舊云。己未星夕前一日,天瀑識。本注不著撰人名氏,《唐志》云賈行注《帝範》,則此注疑亦賈作,然未可必也。天瀑重識。
新字:余家旧蔵抄本《臣軌》一部,往往雑以武后製字,是蓋当時原本爾。但諸書所載製字,間与此異,未詳其孰是。今一仍抄本之旧云。己未星夕前一日,天瀑識。本注不著撰人名氏,《唐志》云賈行注《帝範》,則此注疑亦賈作,然未可必也。天瀑重識。
書き下し
余が家に旧く抄本の『臣軌』一部を蔵す。往往にして雑うるに武后の製字を以てす。是れ蓋し当時の原本のみ。但だ諸書に載する所の製字は、間々此れと異なり、未だ其の孰れか是なるかを詳らかにせず。今一に抄本の旧に仍ると云う。己未、星夕の前一日、天瀑識す。本注は撰人の名氏を著さず。『唐志』に賈行『帝範』に注すと云えば、則ち此の注も疑うらくは亦た賈の作ならん。然れども未だ必とす可からざるなり。天瀑重ねて識す。
現代語訳
わが家には古くから写本の『臣軌』一部を所蔵している。ところどころに則天武后が制定した文字(則天文字)が混じっている。これはおそらく当時の原本の姿であろう。ただ、諸書に載っている則天文字は、この写本と異なるところがあり、どちらが正しいかはまだ明らかでない。今はすべて写本の元のままに従う。己未の年、七夕の前日に、天瀑が記す。この本の注は、注をつけた人の名を記していない。『唐書』芸文志に、賈行が『帝範』に注をつけたとあるので、この注もあるいは賈行の作ではないかと疑われる。しかし確かとは言えない。天瀑が重ねて記す。
解説
本文の後に付された「題《臣軌》後」で、この書を刊行した人の書誌の覚え書きである。天瀑は江戸後期の儒者、林述斎の号で、中国で失われ日本に残った漢籍を集めた『佚存叢書』にこの書を収めた。『臣軌』は中国では早くに散逸し、日本に伝わった写本によって今に残った。天瀑は、家蔵の写本に則天武后の制定した文字が混じっているのを当時の原本の名残とみなし、他書の字形と違っても写本のままに従ったと記す。また注の作者を、『唐書』芸文志で『帝範』に注をつけたとされる賈行ではないかと推測しつつ、断定はしない。分からないことは分からないと書き、手元の資料を勝手に改めないという態度は、今の記録や調査の仕事でもそのまま手本になる。
関連する章句
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『臣軌』題《臣軌》後唐の武后撰『臣軌』二巻、太宗の『帝範』と並び行わる。今も亦た合刻本の世に流布する有り。二書は『唐志』に著録せられて『宋志』に載せず。『臣軌』は唯だ鄭樵の『芸文略』のみ並せてこれを載す。その他に見ゆる無きなり。清の乾隆中『四庫全書』を纂するに及び、『帝範』は独り『永楽大典』より録出せられて、『臣軌』に及ばず。則ち亦た存せざるに似たり。
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『臣軌』序何となれば、正言はこれ重く、玄珠も比して尚お軽し。巽語は珍と為し、蒼璧も喩えて宝に非ず。是を知る、人に贈るに財を以てする者は、唯だ即目の歓を申ぶるのみ、人に贈るに言を以てする者は、能く終身の福を致す。
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『臣軌』序蓋し聞く、惟れ天は象を著し、庶品は照臨に同じく、惟れ地は章を含み、群生は亭育に等しと。朕、庸昧を以て、忝くも坤元に位す。厚載の仁に斉しからんことを思い、式て普覃の恵みを馨らしむ。乃ち中、乃ち外、思養の志は殊なる靡く、惟れ子、惟れ臣、慈誘の情は隔て無し。常に願う、甫めて微懇を殫くし、上は紫機を翊け、爰に衆僚を須ちて、聿に玄化を匡さんことを。伏して以うに天皇は、明は則哲に逾え、志は旁求に切なり。簪裾は川嶽の霊を総べ、珩珮は星辰の秀を聚む。群英は職に蒞み、衆彦は司を分かつ。以て広く淳風を扇ぎ、長く宝祚を隆んにするに足る。但だ母の子に於けるや、慈愛特に深し。復た已に忠良を積むと雖も、猶お且つ勧励を垂れんことを思う。昔、文伯既に達して、仍お喩軸の言を加え、孟軻已に賢にして、更に断機の誨えを益す。良に情は撫字に隆く、心は助成を欲するを以てなり。比者(このごろ)、太子及び王は已に修身の訓を撰し、群公列辟は未だ忠告の規を敷かず。近ごろ暇辰を以て、心を策府に遊ばせ、聊か煒管に因りて、用て虚襟を写す。故に聞く所を綴叙し、以て『臣軌』一部と為す。周朝の十乱を想いて、爰に十章を著し、殷室の両臣を思いて、分かちて両巻と為す。言行を発揮し、身心を鎔範する所以なり。事上の軌模と為し、臣下の縄準と作す。若し乃ち遐かに綿載を想い、眇かに前修を鑒みれば、元首は尊きに居り、股肱は力を宣べざるは莫し。棟梁に資りて大廈を成し、舟楫に憑りて巨川を済る。唱和相依り、功を同じくし体を共にす。
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『臣軌』序然れば則ち君親すでに立ちて、忠孝焉に形わる。国に奉じ家に奉ずる、率由の道は寧んぞ二ならん、君に事え父に事うる、資敬の途はこれ一なり。臣主の義、それ至れるかな。休戚はこれ均し、深く鑒みざるべけんや。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏中間外に從いて徙り、世頗る偃蹇不偶と謂う。一時の後生の輩蜂のごとく出づるも、先生泊如たり。晩に朝廷に還り、天下其の學を用いんことを望む。而して新官制に屬し、遂に書命を掌る。是に於いて百官を更置す。舊舍人の在る者無し。已に試みて即ち院に入る。方に除目の填委するに、紙を占めて肆書す。初め經意せざるが若し。午漏盡きて草を院吏に授け、馬に上りて去る。凡そ除する郎・御史數十人、法意に本づき職守に原ねて之が訓敕を爲す所以の者は人人同じからず。咸ミ新趣有りて衍裕雅重、自ら一家を成す。余其の時尚書郎と爲り、制を吏部に付するを掌る。一日盡く觀るを得て、始めて先生の學は老ゆと雖も衰えず、而して大手筆は自ら人有るを知るなり。嗚呼、先生の用いらるるは未だ其の學を極めず。已んぬるかな。要するに名は天壌と相い弊きて誣う可からざるなり。
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『顔氏家訓』書證通俗文は、世間に題して「河南の服虔字は子慎造る」と云う。虔は既に是れ漢人なるに、其の叙は乃ち蘇林・張揖を引く。蘇・張は皆な是れ魏人なり。且つ鄭玄以前は、全く反語を解せず。通俗の反音は、甚だ近俗に会す。阮孝緒は又た「李虔の造る所」と云う。河北の此の書は、家ごとに一本を蔵するも、遂に李虔と作る者無し。晋の中経簿及び七志には、並びに其の目無し。竟に誰の制するかを知るを得ず。然れども其の文義は允愜にして、実に是れ高才なり。殷仲堪は常に字訓を用い、亦た服虔の俗説を引く。今復た此の書無し。未だ知らず、即ち是れ通俗文なるか、当に異なる有りと為すか。或いは更に服虔有るか。明らかにする能わざるなり。
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