臣軌 / 題《臣軌》後
唐武后撰《臣軌》二卷、與太宗《帝範》並行、今亦有合刻本流布於世。二書《唐志》著錄而《宋志》不載、《臣軌》唯鄭樵《藝文略》並載之、其他無見也。及清乾隆中纂《四庫全書》、《帝範》獨錄出於《永樂大典》、而不及《臣軌》、則亦似不存焉。
新字:唐武后撰《臣軌》二巻、与太宗《帝範》並行、今亦有合刻本流布於世。二書《唐志》著録而《宋志》不載、《臣軌》唯鄭樵《芸文略》並載之、其他無見也。及清乾隆中纂《四庫全書》、《帝範》独録出於《永楽大典》、而不及《臣軌》、則亦似不存焉。
書き下し
唐の武后撰『臣軌』二巻、太宗の『帝範』と並び行わる。今も亦た合刻本の世に流布する有り。二書は『唐志』に著録せられて『宋志』に載せず。『臣軌』は唯だ鄭樵の『芸文略』のみ並せてこれを載す。その他に見ゆる無きなり。清の乾隆中『四庫全書』を纂するに及び、『帝範』は独り『永楽大典』より録出せられて、『臣軌』に及ばず。則ち亦た存せざるに似たり。
現代語訳
唐の武后が撰した『臣軌』二巻は、太宗の『帝範』と並び行われた。今も両書を合わせて刻んだ本が世に流布している。二書は『唐志』には記載されているが『宋志』には載っていない。『臣軌』はただ鄭樵の『芸文略』だけが併せて記載しており、その他には見えない。清の乾隆年間に『四庫全書』を編纂したとき、『帝範』だけが『永楽大典』から取り出して収められ、『臣軌』は入らなかった。ということは、やはり伝わっていなかったらしい。
解説
日本の学者が抄本の末に書き付けた識語である。書物が消えていく過程が、目録の記載の有無だけで淡々と追跡されている。唐の目録にはある、宋の目録にはない、鄭樵だけが挙げている、四庫全書には帝範だけが入って臣軌は入らなかった——だから中国では失われていたらしい、と。続けてこう書かれる。我が家に旧蔵の抄本『臣軌』一部があり、しばしば武后の作った文字が混じっている。これはおそらく当時の原本のままだろう、と。**臣軌は中国で失われ、日本に残った抄本によって伝わった書である。**記録を持ち続けることの意味が、この書の運命そのものに現れている。
この章句が説くこと
題臣軌後唐志に著録し宋志に載せず四庫全書日本に伝わった書
関連する章句
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『臣軌』序何となれば、正言はこれ重く、玄珠も比して尚お軽し。巽語は珍と為し、蒼璧も喩えて宝に非ず。是を知る、人に贈るに財を以てする者は、唯だ即目の歓を申ぶるのみ、人に贈るに言を以てする者は、能く終身の福を致す。
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『臣軌』序然れば則ち君親すでに立ちて、忠孝焉に形わる。国に奉じ家に奉ずる、率由の道は寧んぞ二ならん、君に事え父に事うる、資敬の途はこれ一なり。臣主の義、それ至れるかな。休戚はこれ均し、深く鑒みざるべけんや。
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貞観政要・文史貞観の初め、太宗、監修国史房玄齢に謂いて曰く、「比(このごろ)前・後『漢史』を見るに、揚雄の『甘泉』『羽猟』、司馬相如の『子虚』『上林』、班固の『両都』等の賦を載録す。此れ既に文体は浮華にして、勧誡に益無し。何ぞ之を史策に書するを假(か)らんや。其の書を上りて事を論じ、詞理切直にして、政理に裨(おぎな)うべき者有らば、朕の従うと従わざるとを、皆な須らく備さに載すべし」と。
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『神皇正統記』巻五 群書治要寛平の群書治要をさしての給ける、部せばきに似たり。但此書は唐太宗、時の名臣魏徴をしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。此書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほとほと名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせましましそまではあるべからず。已に雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。
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『帝範』序朕(ちん)聞(き)く、大徳(たいとく)を生(せい)と曰(い)ひ、大寳(たいほう)を位(くらゐ)と曰(い)ふと。其(そ)の上下(しょうげ)を辨(わきま)へ、之(これ)に君臣(くんしん)を樹(た)つるは、黎元(れいげん)を撫育(ぶいく)し、庶類(しょるい)を鈞陶(きんとう)する所以(ゆゑん)なり。克(よ)く明(めい)に克(よ)く哲(てつ)に、允(まこと)に武(ぶ)に允(まこと)に文(ぶん)に、皇天(こうてん)命(めい)を眷(かへり)み、歴數(れきすう)躬(み)に在(あ)るに非(あら)ざるよりは、安(いづく)んぞ濫(みだ)りに靈圖(れいと)を握(にぎ)り、叨(みだ)りに神器(しんき)に臨(のぞ)む可(べ)けんや。是(ここ)を以(も)って翠媯(すいき)は唐堯(とうぎょう)の徳(とく)を荐(すす)め、元圭(げんけい)は夏禹(かう)の功(こう)に錫(たま)ふ。丹字(たんじ)祥(しょう)を呈(てい)して、周(しゅう)は八百(はっぴゃく)の祚(そ)を開(ひら)き、素靈(それい)瑞(ずい)を表(あらは)して、漢(かん)は重世(ちょうせい)の基(もとゐ)を啓(ひら)く。此(これ)に由(よ)って之(これ)を觀(み)れば、帝王(ていおう)の業(ぎょう)は、力(ちから)を以(も)って爭(あらそ)ふ可(べ)き者(もの)に非(あら)ざるなり。
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貞観政要・文史貞観十一年、著作佐郎鄧隆、表して太宗の文章を編次して集と為さんことを請う。太宗謂いて曰く、「朕若し事を制し令を出し、人に益有る者は、史は則ち之を書す。不朽と為すに足る。若し事は古を師とせず、政を乱し物を害せば、詞藻有りと雖も、終に後代の笑いを貽(のこ)す。須(もと)むる所に非ざるなり。只だ梁の武帝父子及び陳の後主・隋の煬帝の如きは、亦た大いに文集有り。而して為す所は多く不法なり。宗社は皆な須臾にして傾覆す。凡そ人主は惟だ徳行に在り。何ぞ必ずしも文章を事とせんや」と。竟に許さず。