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史記 / 太史公自序

漢興五世,隆在建元,外攘夷狄,內修法度,封禪,改正朔,易服色。作今上本紀第十二。維三代尚矣,年紀不可考,蓋取之譜牒舊聞,本于茲,於是略推,作三代世表第一。幽厲之後,周室衰微,諸侯專政,春秋有所不紀;而譜牒經略,五霸更盛衰,欲睹周世相先後之意,作十二諸侯年表第二。春秋之後,陪臣秉政,彊國相王;以至于秦,卒并諸夏,滅封地,擅其號。作六國年表第三。秦既暴虐,楚人發難,項氏遂亂,漢乃扶義征伐;八年之閒,天下三嬗,事繁變眾,故詳著秦楚之際月表第四。漢興已來,至于太初百年,諸侯廢立分削,譜紀不明,有司靡踵,彊弱之原云以世。作漢興已來諸侯年表第五。維高祖元功,輔臣股肱,剖符而爵,澤流苗裔,忘其昭穆,或殺身隕國。作高祖功臣侯者年表第六。惠景之閒,維申功臣宗屬爵邑,作惠景閒侯者年表第七。北討彊胡,南誅勁越,征伐夷蠻,武功爰列。作建元以來侯者年表第八。諸侯既彊,七國為從,子弟眾多,無爵封邑,推恩行義,其埶銷弱,德歸京師。作王子侯者年表第九。國有賢相良將,民之師表也。維見漢興以來將相名臣年表,賢者記其治,不賢者彰其事。作漢興以來將相名臣年表第十。

新字:漢興五世,隆在建元,外攘夷狄,内修法度,封禅,改正朔,易服色。作今上本紀第十二。維三代尚矣,年紀不可考,蓋取之譜牒旧聞,本于茲,於是略推,作三代世表第一。幽厲之後,周室衰微,諸侯専政,春秋有所不紀;而譜牒経略,五覇更盛衰,欲睹周世相先後之意,作十二諸侯年表第二。春秋之後,陪臣秉政,彊国相王;以至于秦,卒并諸夏,滅封地,擅其号。作六国年表第三。秦既暴虐,楚人発難,項氏遂乱,漢乃扶義征伐;八年之閒,天下三嬗,事繁変衆,故詳著秦楚之際月表第四。漢興已来,至于太初百年,諸侯廃立分削,譜紀不明,有司靡踵,彊弱之原云以世。作漢興已来諸侯年表第五。維高祖元功,輔臣股肱,剖符而爵,沢流苗裔,忘其昭穆,或殺身隕国。作高祖功臣侯者年表第六。恵景之閒,維申功臣宗属爵邑,作恵景閒侯者年表第七。北討彊胡,南誅勁越,征伐夷蠻,武功爰列。作建元以来侯者年表第八。諸侯既彊,七国為従,子弟衆多,無爵封邑,推恩行義,其埶銷弱,徳帰京師。作王子侯者年表第九。国有賢相良将,民之師表也。維見漢興以来将相名臣年表,賢者記其治,不賢者彰其事。作漢興以来将相名臣年表第十。

書き下し

漢興りて五世、隆んなること建元に在り。外は夷狄を攘ひ、内は法度を修め、封禅し、正朔を改め、服色を易ふ。今上本紀第十二を作る。維れ三代は尚し。年紀考ふ可からず。蓋し之を譜牒の旧聞に取り、茲に本づき、是に於いて略々推す。三代世表第一を作る。幽・厲の後、周室衰微し、諸侯政を専らにし、春秋紀さざる所有り。而して譜牒経略し、五覇更々盛衰す。周の世の相先後するの意を睹んと欲し、十二諸侯年表第二を作る。春秋の後、陪臣政を秉り、彊国相王たり。以て秦に至り、卒に諸夏を并せ、封地を滅ぼし、其の号を擅にす。六国年表第三を作る。秦既に暴虐にして、楚人難を発し、項氏遂に乱し、漢乃ち義を扶けて征伐す。八年の間、天下三たび嬗(うつ)り、事繁く変衆し。故に詳らかに秦楚之際月表第四を著す。漢興りてより已来、太初に至るまで百年、諸侯の廃立分削、譜紀明らかならず、有司踵ぐ靡し。彊弱の原は世を以てすと云ふ。漢興已来諸侯年表第五を作る。維れ高祖の元功、輔臣股肱、符を剖きて爵し、沢は苗裔に流る。其の昭穆を忘れ、或いは身を殺し国を隕す。高祖功臣侯者年表第六を作る。恵・景の間、維れ功臣宗属の爵邑を申ぶ。恵景間侯者年表第七を作る。北は彊胡を討ち、南は勁越を誅し、夷蛮を征伐し、武功爰に列す。建元以来侯者年表第八を作る。諸侯既に彊く、七国従を為す。子弟衆多にして、爵封邑無し。恩を推し義を行ひ、其の埶銷弱し、徳は京師に帰す。王子侯者年表第九を作る。国に賢相良将有るは、民の師表なり。維れ漢興以来の将相名臣の年表を見るに、賢者は其の治を記し、不賢者は其の事を彰す。漢興以来将相名臣年表第十を作る。

現代語訳

漢が興って五代目、その隆盛は建元の年間(武帝の時代)にある。外には夷狄を退け、内には法制度を整え、封禅を行い、暦の正月を改め、服の色を改めた。そこで今上本紀第十二を作った。夏・殷・周の三代は古く、年代を考証することができない。そこで系譜の古い言い伝えを取り、これに基づいて大まかに推定し、三代世表第一を作った。幽王・厲王以後、周王室は衰え、諸侯が政治をほしいままにし、春秋にも記されていないことがある。そして系譜はおおまかで、五覇が代わる代わる盛衰した。周の時代の出来事の前後関係を見ようとして、十二諸侯年表第二を作った。春秋の後、陪臣が政権を握り、強国が互いに王を称した。やがて秦に至り、ついに中国全土を併合し、封建の地を滅ぼし、皇帝の称号を独占した。そこで六国年表第三を作った。秦が暴虐を行うと、楚の人(陳渉)が反乱の口火を切り、項氏がついに天下を乱し、漢は義を助けて征伐した。八年の間に天下の主は三度代わり、出来事は複雑で変化が多かった。そこで詳しく秦楚之際月表第四を著した。漢が興ってから太初に至るまでの百年間、諸侯の廃立や領地の分割・削減について、記録がはっきりせず、担当の役人も跡をたどることができなかった。強弱の原因は代々の成り行きにあるという。そこで漢興以来諸侯年表第五を作った。高祖の建国の功臣たちは、手足となって補佐した臣であり、割り符を分けて爵位を与えられ、その恩恵は子孫に流れた。しかし(子孫たちは)先祖の序列を忘れ、ある者は身を滅ぼし国を失った。そこで高祖功臣侯者年表第六を作った。恵帝から景帝までの間、功臣や皇族の爵位と領地を広げた。そこで恵景間侯者年表第七を作った。北は強い胡を討ち、南は手ごわい越を誅し、夷や蛮を征伐して、武功ある者がここに並んだ。そこで建元以来侯者年表第八を作った。諸侯が強くなると、七国は合従して反乱した。諸侯の子弟は多いのに、爵位も領地もなかった。そこで恩を推し広め義を行って子弟にも領地を分けさせたので、諸侯の勢いは弱まり、徳は都に帰した。そこで王子侯者年表第九を作った。国に賢い宰相と優れた将軍がいることは、民の手本である。漢が興って以来の将軍・宰相・名臣の年表を見ると、賢者はその治績が記され、賢くない者はその事績が明らかにされる。そこで漢興以来将相名臣年表第十を作った。

解説

太史公自序の篇目解説の続きで、十二本紀の最後である今上本紀と、十表の作成意図が述べられています。三代は年代が考証できないので系譜に拠って大まかに推し、周の時代は諸侯の前後関係を見るために、秦と楚の八年間は変化が激しいので月ごとに、漢の諸侯や功臣は廃立や分割の記録が乱れているので整理する、と、時代の性質によって表の作り方を変えています。表は、同時に起こった別々の出来事を横に並べて見るための工夫で、紀伝体の史記に時間の軸を与える重要な部分です。最後の将相名臣年表については、賢者は治績が記され、そうでない者もその事績が明らかになると言い、記録が評価の鏡となることを示します。情報を整理するとき、扱う内容の性質によって細かさや形式を変えるのは、今の報告書づくりにも通じる工夫です。一覧にすることで、個別の話では見えない全体の流れが浮かび上がるのです。

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