史記 / 滑稽列伝
問之安所受計策,對曰:「受之待詔者東郭先生。」詔召東郭先生,拜以為郡都尉。東郭先生久待詔公車,貧困饑寒,衣敝,履不完。行雪中,履有上無下,足盡踐地。道中人笑之,東郭先生應之曰:「誰能履行雪中,令人視之,其上履也,其履下處乃似人足者乎?」及其拜為二千石,佩青緺出宮門,行謝主人。故所以同官待詔者,等比祖道於都門外。榮華道路,立名當世。此所謂衣褐懷寶者也。當其貧困時,人莫省視;至其貴也,乃爭附之。諺曰:「相馬失之瘦,相士失之貧。」其此之謂邪?王夫人病甚,人主至自往問之曰:「子當為王,欲安所置之?」對曰:「願居洛陽。」人主曰:「不可。洛陽有武庫、敖倉,當關口,天下咽喉。自先帝以來,傳不為置王。然關東國莫大於齊,可以為齊王。」王夫人以手擊頭,呼「幸甚」。王夫人死,號曰「齊王太后薨」。昔者,齊王使淳于髡獻鵠於楚。出邑門,道飛其鵠,徒揭空籠,造詐成辭,往見楚王曰:「齊王使臣來獻鵠,過於水上,不忍鵠之渴,出而飲之,去我飛亡。吾欲刺腹絞頸而死。恐人之議吾王以鳥獸之故令士自傷殺也。鵠,毛物,多相類者,吾欲買而代之,是不信而欺吾王也。欲赴佗國奔亡,痛吾兩主使不通。故來服過,叩頭受罪大王。」
新字:問之安所受計策,対曰:「受之待詔者東郭先生。」詔召東郭先生,拝以為郡都尉。東郭先生久待詔公車,貧困饑寒,衣敝,履不完。行雪中,履有上無下,足尽践地。道中人笑之,東郭先生応之曰:「誰能履行雪中,令人視之,其上履也,其履下処乃似人足者乎?」及其拝為二千石,佩青緺出宮門,行謝主人。故所以同官待詔者,等比祖道於都門外。栄華道路,立名当世。此所謂衣褐懐宝者也。当其貧困時,人莫省視;至其貴也,乃争附之。諺曰:「相馬失之痩,相士失之貧。」其此之謂邪?王夫人病甚,人主至自往問之曰:「子当為王,欲安所置之?」対曰:「願居洛陽。」人主曰:「不可。洛陽有武庫、敖倉,当関口,天下咽喉。自先帝以来,伝不為置王。然関東国莫大於斉,可以為斉王。」王夫人以手撃頭,呼「幸甚」。王夫人死,号曰「斉王太后薨」。昔者,斉王使淳于髡献鵠於楚。出邑門,道飛其鵠,徒掲空籠,造詐成辞,往見楚王曰:「斉王使臣来献鵠,過於水上,不忍鵠之渇,出而飲之,去我飛亡。吾欲刺腹絞頸而死。恐人之議吾王以鳥獣之故令士自傷殺也。鵠,毛物,多相類者,吾欲買而代之,是不信而欺吾王也。欲赴佗国奔亡,痛吾両主使不通。故来服過,叩頭受罪大王。」
書き下し
之に安くにか計策を受けたるを問ふ。対へて曰く、「之を待詔の者東郭先生に受く」と。詔して東郭先生を召し、拝して以て郡都尉と為す。東郭先生、久しく公車に待詔し、貧困饑寒にして、衣敝れ、履完からず。雪中を行くに、履上有りて下無く、足尽く地を践む。道中の人之を笑ふ。東郭先生之に応へて曰く、「誰か能く履きて雪中を行き、人をして之を視しむるに、其の上は履なるも、其の履の下の処は乃ち人の足に似たる者あらんや」と。其の拝せられて二千石と為るに及び、青緺を佩びて宮門を出で、行きて主人に謝す。故に以て官を同じくして待詔せし所の者、等比して都門の外に祖道す。道路に栄華あり、名を当世に立つ。此れ所謂褐を衣て宝を懐く者なり。其の貧困の時に当たりては、人省視する莫し。其の貴きに至るや、乃ち争ひて之に附く。諺に曰く、「馬を相するに之を痩に失ひ、士を相するに之を貧に失ふ」と。其れ此の謂ひか。王夫人病甚だし。人主至りて自ら往きて之に問ひて曰く、「子当に王と為るべし。安くにか之を置かんと欲する」と。対へて曰く、「願はくは洛陽に居らしめん」と。人主曰く、「不可なり。洛陽には武庫・敖倉有り、関口に当たり、天下の咽喉なり。先帝より以来、伝へて為に王を置かず。然れども関東の国は斉より大なるは莫し。以て斉王と為す可し」と。王夫人手を以て頭を撃ち、幸甚と呼ぶ。王夫人死す。号して斉王の太后薨ずと曰ふ。昔者、斉王、淳于髡をして鵠を楚に献ぜしむ。邑門を出で、道にて其の鵠を飛ばし、徒だ空籠を掲げ、詐を造り辞を成し、往きて楚王に見えて曰く、「斉王、臣をして来たりて鵠を献ぜしむ。水上を過ぎるに、鵠の渇くに忍びず、出だして之に飲ましむるに、我を去りて飛び亡ぐ。吾、腹を刺し頸を絞りて死なんと欲す。人の吾が王を議して、鳥獣の故を以て士をして自ら傷殺せしむと為さんことを恐る。鵠は毛物にして相類する者多し。吾買ひて之に代へんと欲すれども、是れ信ならずして吾が王を欺くなり。他国に赴きて奔亡せんと欲すれども、吾が両主の使ひの通ぜざるを痛む。故に来たりて過ちに服し、叩頭して罪を大王に受く」と。
現代語訳
帝は衛青に、その計略を誰から教わったのかと尋ねた。衛青は答えた。「待詔の東郭先生から教わった」。詔によって東郭先生を呼び寄せ、郡の都尉に任じた。東郭先生は長く公車で詔を待っていたので、貧しく飢えて凍え、衣服は破れ、靴もまともではなかった。雪の中を歩くと、靴は上だけあって底がなく、足がそのまま地面を踏んでいた。道行く人はそれを笑った。東郭先生はそれに答えて言った。「靴を履いて雪の中を歩き、人が見ると上は靴なのに、靴の下はまるで人の足のようだ、などということが、誰にできようか」。その彼が二千石の官に任じられると、青い組紐の印綬を帯びて宮門を出て、世話になった宿の主人に礼を言いに行った。かつて同じように詔を待っていた者たちが、そろって都の門の外で送別の宴を開いた。その道中は華やかで、名を当世に上げた。これこそいわゆる、粗末な衣を着て宝を懐に抱く者である。貧しかったときには誰も目をかけなかったが、身分が高くなると争ってつき従った。ことわざに「馬の目利きは痩せ馬を見誤り、人の目利きは貧しい士を見誤る」とあるのは、このことをいうのであろう。王夫人が重い病気にかかった。帝は自ら見舞いに行って尋ねた。「あなたの子は王になるはずだ。どこに封じたいか」。王夫人は答えた。「洛陽に置いてほしい」。帝は言った。「それはできない。洛陽には武器庫と敖倉(大穀倉)があり、関所の入り口に当たる天下の急所だ。先帝以来、代々洛陽には王を置かないことになっている。しかし関東の国で斉より大きな国はない。斉王にすることができる」。王夫人は手で頭を打って(感謝の礼をして)「ありがたい幸せです」と叫んだ。王夫人が死ぬと、「斉王の太后が薨去された」と称した。むかし、斉王が淳于髡に命じて楚に鵠(白鳥)を献上させた。淳于髡は町の門を出ると、道で鵠を逃がしてしまい、空の籠だけを持って、うそをこしらえて言葉を整え、楚王に会いに行って言った。「斉王が私に鵠を献上させに来させた。川のほとりを通るとき、鵠がのどを渇かせているのが忍びなく、籠から出して水を飲ませたところ、私を離れて飛んで逃げてしまった。私は腹を刺すか首をくくって死のうと思った。しかし人々がわが王を、鳥のために士を自殺させたと非難するのを恐れた。鵠は羽のある生き物で、似たものが多い。私は買ってすり替えようと思ったが、それはうそをついてわが王を欺くことになる。他国へ逃げてしまおうとも思ったが、わが二人の君主の間の使いが通じなくなるのを心苦しく思った。そこでこうして過ちを認め、頭を地につけて大王の罰を受けに来たのだ」。
解説
関連する章句
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史記 滑稽列伝楚王曰く、「善し。斉王に信士有ること此の若きか」と。厚く之に賜ひ、財は鵠の在るに倍す。武帝の時、北海太守を徴して行在所に詣らしむ。文学卒史王先生なる者有り、自ら太守と俱にせんことを請ふ、「吾、君に益有らん」と。君之を許す。諸府の掾・功曹白して云ふ、「王先生は酒を嗜み、言多くして実少なし。恐らくは与に俱にす可からず」と。太守曰く、「先生の意行かんと欲す。逆らふ可からず」と。遂に与に俱にす。行きて宮下に至り、宮府の門に待詔す。王先生徒だ銭を懐にして酒を沽ひ、衛卒の僕射と飲み、日々酔ひ、其の太守を視ず。太守入りて跪拝す。王先生、戸郎に謂ひて曰く、「幸ひに我が為に吾が君を呼びて門内に至らしめ、遥かに語らん」と。戸郎為に太守を呼ぶ。太守来たり、王先生を望み見る。王先生曰く、「天子即し君に何を以て北海を治めて盗賊無からしむると問はば、君対へて何と曰はんや」と。対へて曰く、「賢材を選択し、各々之に任ずるに其の能を以てし、異等を賞し、不肖を罰せん」と。王先生曰く、「対ふること是の如くんば、是れ自ら誉め自ら功を伐るなり。不可なり。願はくは君対へて言へ、臣の力に非ず、尽く陛下の神霊威武の変化する所なりと」と。太守曰く、「諾」と。召されて入り、殿下に至るに、詔有りて之に問ひて曰く、「何ぞ北海を治むるに於いて、盗賊をして起こらざらしむる」と。叩頭して対へて言ふ、「臣の力に非ず。尽く陛下の神霊威武の変化する所なり」と。武帝大いに笑ひて曰く、「於呼、安くにか長者の語を得て之を称するや。安くにか之を受けたる」と。対へて曰く、「之を文学卒史に受く」と。帝曰く、「今安くにか在る」と。対へて曰く、「宮府の門外に在り」と。詔有りて召して王先生を拝して水衡丞と為し、北海太守を以て水衡都尉と為す。伝に曰く、「美言は以て市る可く、尊行は以て人に加ふ可し。君子は相送るに言を以てし、小人は相送るに財を以てす」と。魏の文侯の時、西門豹鄴の令と為る。豹往きて鄴に到り、長老を会し、之に民の疾苦とする所を問ふ。長老曰く、「河伯の為に婦を娶るに苦しみ、故を以て貧し」と。
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史記 滑稽列伝左右の群臣の事に習ひ経術に通ずる者に問ふも、能く知る莫し。詔して東方朔をして之を視しむ。朔曰く、「臣之を知る。願はくは美酒粱飯を賜ひて大いに臣に飱せしめよ。臣乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。已にして又曰く、「某所に公田・魚池・蒲葦数頃有り。陛下以て臣に賜はば、臣朔乃ち言はん」と。詔して曰く、「可なり」と。是に於いて朔乃ち肯へて言ひて曰く、「所謂騶牙なる者なり。遠方当に来たりて義に帰すべくして、騶牙先づ見る。其の歯は前後一の若く、斉等にして牙無し。故に之を騶牙と謂ふ」と。其の後一歳所にして、匈奴の混邪王果たして十万の衆を将ゐて来たりて漢に降る。乃ち復た東方生に銭財を賜ふこと甚だ多し。老に至り、朔且に死せんとする時、諫めて曰く、「詩に云ふ、『営営たる青蠅、蕃に止まる。愷悌の君子、讒言を信ずる無かれ。讒言極まり罔く、交々四国を乱す』と。願はくは陛下巧佞を遠ざけ、讒言を退けよ」と。帝曰く、「今顧みるに東方朔多く善言するか」と。之を怪しむ。居ること幾何も無く、朔果たして病みて死す。伝に曰く、「鳥の将に死なんとするや、其の鳴くや哀し。人の将に死なんとするや、其の言ふや善し」と。此の謂ひなり。武帝の時、大将軍衛青なる者は衛后の兄なり。封ぜられて長平侯と為る。軍に従ひて匈奴を撃ち、余吾水の上に至りて還る。斬首捕虜し、功有りて来たり帰る。詔して金千斤を賜ふ。将軍宮門を出づるに、斉人東郭先生、方士を以て公車に待詔し、道に当たりて衛将軍の車を遮り、拝謁して曰く、「願はくは事を白さん」と。将軍車を前に止む。東郭先生、車に旁(そ)ひて言ひて曰く、「王夫人新たに上に幸を得たるも、家貧し。今将軍金千斤を得たり。誠に其の半ばを以て王夫人の親に賜はば、人主之を聞きて必ず喜ばん。此れ所謂奇策便計なり」と。衛将軍之に謝して曰く、「先生幸ひに之に告ぐるに便計を以てす。請ふ、教へを奉ぜん」と。是に於いて衛将軍乃ち五百金を以て王夫人の親の寿と為す。王夫人以て武帝に聞す。帝曰く、「大将軍は此を為すを知らず」と。
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史記 三王世家謹んで其の真草の詔書を論次し、左方に編む。覧る者をして自ら其の意に通じて之を解説せしむ。王夫人は、趙の人なり、衛夫人と并びに武帝に幸せられ、而して子閎を生む。閎且に立ちて王と為らんとする時、其の母病む、武帝自ら臨みて之を問ふ。曰く、「子当に王と為るべし、安くに之を置かんと欲する」と。王夫人曰く、「陛下在り、妾又何等の言ふべき者あらん」と。帝曰く、「然りと雖も、意の欲する所、何れの所に於いて之を王とせんと欲する」と。王夫人曰く、「願はくは之を雒陽に置かん」と。武帝曰く、「雒陽は武庫敖倉有り、天下の衝阸にして、漢国の大都なり。先帝以来、子の雒陽に王たる者無し。雒陽を去りては、余は尽く可なり」と。王夫人応へず。武帝曰く、「関東の国は斉より大なる者無し。斉は東のかた海を負ひて城郭大なり、古時独り臨菑の中十万戸、天下の膏腴の地斉より盛んなる者莫し」と。王夫人手を以て頭を撃ち、謝して曰く、「幸甚なり」と。王夫人死して帝之を痛み、使者をして之を拝せしめて曰く、「皇帝謹んで使をして太中大夫明をして璧一を奉じ、夫人に賜ひて斉王の太后と為さしむ」と。子閎斉に王たり、年少くして、子有る無く、立ちて、不幸にして早く死し、国絶え、郡と為る。天下斉は王たるに宜しからずと称すと云ふ。所謂「此の土を受けよ」とは、諸侯王の始めて封ぜらるる者は必ず土を天子の社に受け、帰りて之を立てて以て国社と為し、歳時を以て之を祠る。春秋大伝に曰く、「天子の国に泰社有り。東方は青、南方は赤、西方は白、北方は黒、上方は黄」と。故に将に東方に封ぜられんとする者は青土を取り、南方に封ぜらるる者は赤土を取り、西方に封ぜらるる者は白土を取り、北方に封ぜらるる者は黒土を取り、上方に封ぜらるる者は黄土を取る。各々其の色の物を取り、裹むに白茅を以てし、封じて以て社と為す。此れ始めて封を天子より受くる者なり。此れを之れ主土と為す。主土とは、社を立てて之を奉ずるなり。
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史記 滑稽列伝褚先生曰く、臣、幸ひに経術を以て郎と為るを得て、而して好みて外家の伝語を読む。窃かに遜譲せず、復た故事滑稽の語六章を作り、之を左に編む。以て覧観して意を揚ぐ可く、以て後世の好事の者に示して之を読ましめ、以て心を游ばせ耳を駭かし、以て上方の太史公の三章に附益す。武帝の時、幸する所の倡、郭舎人なる者有り。言を発し辞を陳ぶること大道に合はずと雖も、然れども人主をして和説せしむ。武帝少き時、東武侯の母常に帝を養ふ。帝壮なる時、之を号して大乳母と曰ふ。率ね一月に再び朝す。朝奏入るに、詔有りて幸臣馬游卿をして帛五十匹を以て乳母に賜ひ、又飲糒飱を奉じて乳母を養はしむ。乳母上書して曰く、「某所に公田有り、願はくは之を仮倩するを得ん」と。帝曰く、「乳母之を得んと欲するか」と。以て乳母に賜ふ。乳母の言ふ所、未だ嘗て聴かれざるはあらず。詔有りて乳母をして車に乗りて馳道の中を行かしむるを得。此の時に当たりて、公卿大臣皆乳母を敬重す。乳母の家の子孫奴従の者、長安の中に横暴し、道に当たりて人の車馬を掣頓し、人の衣服を奪ふ。中に聞こゆるも、之を法に致すに忍びず。有司、乳母の家室を徙し、之を辺に処らしめんと請ふ。奏可とせらる。乳母当に入りて前に至り、面見して辞すべし。乳母先づ郭舎人に見え、為に下りて泣く。舎人曰く、「即し入りて見え辞して去らば、疾歩して数々還顧せよ」と。乳母其の言の如くし、謝して去り、疾歩して数々還顧す。郭舎人疾言して之を罵りて曰く、「咄、老女子、何ぞ疾く行かざる。陛下已に壮なり。寧ろ尚ほ汝の乳を須ちて活きんや。尚ほ何ぞ還顧する」と。是に於いて人主憐れみて之を悲しみ、乃ち詔を下して止めて乳母を徙す無からしめ、之を譖する者を罰謫す。武帝の時、斉人に東方生、名は朔なる有り。古伝の書を好み、経術を愛するを以て、多く外家の語を博観する所あり。朔初めて長安に入り、公車に至りて上書す。凡そ三千の奏牘を用ふ。
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