史記 / 酷吏列伝
郅都遷爲中尉。丞相條侯至貴倨也,而都揖丞相。是時民樸,畏罪自重,而都獨先嚴酷,致行法不避貴戚,列侯宗室見都側目而視,號曰「蒼鷹」。臨江王徴詣中尉府對簿,臨江王欲得刀筆爲書謝上,而都禁吏不予。魏其侯使人以閒與臨江王。臨江王旣爲書謝上,因自殺。竇太后聞之,怒,以危法中都,都免歸家。孝景帝乃使使持節拜都爲鴈門太守,而便道之官,得以便宜從事。匈奴素聞郅都節,居邊,爲引兵去,竟郅都死不近鴈門。匈奴至爲偶人象郅都,令騎馳射莫能中,見憚如此。匈奴患之。竇太后乃竟中都以漢法。景帝曰:「都忠臣。」欲釋之。竇太后曰:「臨江王獨非忠臣邪?」於是遂斬郅都。寧成者,穰人也。以郎謁者事景帝。
新字:郅都遷為中尉。丞相条侯至貴倨也,而都揖丞相。是時民樸,畏罪自重,而都独先厳酷,致行法不避貴戚,列侯宗室見都側目而視,号曰「蒼鷹」。臨江王徴詣中尉府対簿,臨江王欲得刀筆為書謝上,而都禁吏不予。魏其侯使人以閒与臨江王。臨江王既為書謝上,因自殺。竇太后聞之,怒,以危法中都,都免帰家。孝景帝乃使使持節拝都為鴈門太守,而便道之官,得以便宜従事。匈奴素聞郅都節,居辺,為引兵去,竟郅都死不近鴈門。匈奴至為偶人象郅都,令騎馳射莫能中,見憚如此。匈奴患之。竇太后乃竟中都以漢法。景帝曰:「都忠臣。」欲釈之。竇太后曰:「臨江王独非忠臣邪?」於是遂斬郅都。寧成者,穰人也。以郎謁者事景帝。
書き下し
郅都遷りて中尉と為る。丞相条侯至って貴く倨るなり、而して都丞相に揖す。是の時民樸にして、罪を畏れて自ら重んず、而して都独り厳酷を先にし、法を行ふを致して貴戚を避けず、列侯宗室都を見れば目を側めて視る、号して「蒼鷹」と曰ふ。臨江王徴されて中尉府に詣りて対簿す、臨江王刀筆を得て書を為りて上に謝せんと欲す、而して都吏を禁じて予へず。魏其侯人をして間を以て臨江王に与へしむ。臨江王既に書を為りて上に謝し、因りて自殺す。竇太后之を聞き、怒り、危法を以て都を中つ、都免ぜられて家に帰る。孝景帝乃ち使ひをして節を持して都を拝して鴈門太守と為さしめ、而して便道より官に之き、便宜を以て事に従ふを得しむ。匈奴素より郅都の節を聞く、辺に居るや、為に兵を引きて去り、郅都の死するを竟ふるまで鴈門に近づかず。匈奴偶人を為りて郅都に象り、騎をして馳せて射しむるに能く中つる莫し、憚らるること此くの如し。匈奴之を患ふ。竇太后乃ち竟に都を中つるに漢法を以てす。景帝曰く、「都は忠臣なり」と。之を釈さんと欲す。竇太后曰く、「臨江王は独り忠臣に非ざるか」と。是に於て遂に郅都を斬る。寧成は、穣の人なり。郎謁者を以て景帝に事ふ。
現代語訳
郅都は昇進して中尉(都の治安長官)となった。丞相の条侯周亜夫はきわめて位が高く傲慢であったが、郅都は丞相に会っても会釈するだけであった。このころ民は素朴で、罪を恐れて自らを慎んでいたが、郅都だけは厳しさと苛酷さを第一にし、法を執行するにあたって貴族や外戚も避けなかった。列侯や皇族は郅都を見ると目をそらし、「蒼鷹(あおたか)」とあだ名した。臨江王(景帝の廃太子劉栄)が召されて中尉府に出頭し取り調べを受けたとき、臨江王は筆と木札を借りて主上に謝罪の書を書きたいと願ったが、郅都は役人に禁じて与えさせなかった。魏其侯竇嬰が人を使ってこっそり臨江王に与えた。臨江王は書を書いて主上に謝罪すると、そのまま自殺した。竇太后はこれを聞いて怒り、厳しい法で郅都を罪に陥れ、郅都は免職されて家に帰った。孝景帝はそこで使者に節を持たせて郅都を鴈門太守に任じ、都に寄らず直接任地に向かわせ、現地の判断で処置してよいとした。匈奴はかねてから郅都の節操を聞いていたので、彼が辺境にいると兵を引いて去り、郅都が死ぬまで鴈門に近づかなかった。匈奴は郅都に似せた人形を作り、騎兵に馬を走らせながら射させたが、誰も当てることができなかった。それほど恐れられていたのである。匈奴はこれに困っていた。竇太后はとうとう漢の法によって郅都を罪に陥れた。景帝は「郅都は忠臣である」と言って釈放しようとした。竇太后は「臨江王は忠臣ではなかったとでもいうのか」と言った。こうしてついに郅都を斬った。寧成は穣の人である。郎・謁者として景帝に仕えた。
解説
関連する章句
-
史記 酷吏列伝高后の時、酷吏は独り侯封有り、宗室を刻轢し、功臣を侵辱す。呂氏已に敗れ、遂に侯封の家を夷ぐ。孝景の時、晁錯刻深を以て頗る術を用ひて其の資を輔く、而して七国の乱、怒りを錯に発す、錯卒に以て戮せらる。其の後郅都・寧成の属有り。郅都は、楊の人なり。郎を以て孝文帝に事ふ。孝景の時、都中郎将と為り、敢て直諫し、大臣を朝に面折す。嘗て従ひて上林に入る、賈姫廁に如く、野彘卒かに廁に入る。上都に目す、都行かず。上自ら兵を持して賈姫を救はんと欲す、都上の前に伏して曰く、「一姫を亡へば復た一姫進む、天下に少き所は寧ろ賈姫等ならんや。陛下縦ひ自ら軽んずとも、宗廟・太后を柰何せん」と。上還る、彘も亦去る。太后之を聞き、都に金百斤を賜ふ、此に由りて郅都を重んず。済南の瞯氏の宗人三百余家、豪猾にして、二千石能く制する莫し、是に於て景帝乃ち都を拝して済南太守と為す。至るや則ち瞯氏の首悪を族し、余は皆股栗す。居ること歳余、郡中遺ちたるを拾はず。旁の十余郡の守都を畏るること大府の如し。
-
史記 酷吏列伝郅都の為人勇にして、気力有り、公廉にして、私書を発せず、問遺受くる所無く、請寄聴く所無し。常に自ら称して曰く、「已に親に倍きて仕ふ、身固より当に職を奉じ節に死し官下にすべく、終に妻子を顧みざるなり」と。
-
史記 酷吏列伝数々廃せられ数々起こり、御史及び中丞為ること幾ど二十歳。王温舒中尉を免ぜられ、而して宣左内史と為る。其の米塩を治む、事の大小皆其の手に関はる、自ら県名曹の実物を部署し、官吏令丞擅に揺かすことを得ず、痛く重法を以て之を縄す。官に居ること数年、一切の郡中小治弁を為す、然れども独り宣のみ小を以て大に致し、能く力に因りて之を行ふ、以て経と為し難し。中ごろ廃せらる。右扶風と為り、成信を怨むに坐す、信亡げて上林の中に蔵る、宣郿の令をして信を格殺せしむ、吏卒信を格する時、射て上林苑の門に中つ、宣吏に下されて罪を詆られ、以て大逆と為し、族に当たる、自殺す。而して杜周任用せらる。杜周は、南陽杜衍の人なり。義縦南陽の守為り、以て爪牙と為し、挙げて廷尉史と為す。張湯に事ふ、湯数々其の害無きを言ひ、御史に至る。辺の失亡を案ぜしむ、論殺する所甚だ衆し。事を奏して上の意に中る、任用せられ、減宣と相編み、更々中丞と為ること十余歳。其の治宣と相放ふ、然れども重遅にして、外は寛、内は深く骨に次ぐ。宣左内史為り、周廷尉為り、其の治大いに張湯に放ひて善く候伺す。上の擠さんと欲する所は、因りて之を陥れ、上の釈さんと欲する所は、久しく繋ぎて問を待ちて微かに其の冤状を見す。客周を譲めて曰く、「君天子の為に平を決す、三尺の法に循はず、専ら人主の意指を以て獄を為す。獄は固より是くの如きか」と。周曰く、「三尺安くより出づるや。前主の是とする所は著して律と為し、後主の是とする所は疏して令と為す、当時是と為す、何ぞ古の法ならんや」と。周廷尉と為るに至り、詔獄も亦益々多し。二千石の繋がるる者新故相因り、百余人を減ぜず。郡吏大府之を廷尉に挙ぐ、一歳に千余章に至る。章の大なる者は連逮証案数百、小なる者は数十人。遠き者は数千、近き者は数百里。獄に会し、吏因りて責むること章の告劾の如くし、服せざれば、笞掠を以て之を定む。
-
史記 酷吏列伝寧成は、穰の人なり。気を好み、人の小吏為るや、必ず其の長吏を陵ぎ、人の上為るや、下を操ること溼薪を束ぬるがごとし。滑賊にして威に任ず。稍く遷りて済南都尉に至る。武帝即位し、徙りて内史と為る。外戚多く成の短を毀り、罪に抵り髡鉗せらる。是の時九卿罪死すれば即ち死し、少く刑を被る、而して成極刑せられ……
-
史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
-
史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る