史記 / 梁孝王世家
於是天子意梁王,逐賊,果梁使之。乃遣使冠蓋相望於道,覆按梁,捕公孫詭、羊勝。公孫詭、羊勝匿王後宮。使者責二千石急,梁相軒丘豹及內史韓安國進諫王,王乃令勝、詭皆自殺,出之。上由此怨望於梁王。梁王恐,乃使韓安國因長公主謝罪太后,然后得釋。上怒稍解,因上書請朝。既至關,茅蘭說王,使乘布車,從兩騎入,匿於長公主園。漢使使迎王,王已入關,車騎盡居外,不知王處。太后泣曰:「帝殺吾子!」景帝憂恐。於是梁王伏斧質於闕下,謝罪,然後太后、景帝大喜,相泣,復如故。悉召王從官入關。然景帝益疏王,不同車輦矣。三十五年冬,復朝。上疏欲留,上弗許。歸國,意忽忽不樂。北獵良山,有獻牛,足出背上,孝王惡之。六月中,病熱,六日卒,謚曰孝王。孝王慈孝,每聞太后病,口不能食,居不安寢,常欲留長安侍太后。太后亦愛之。及聞梁王薨,竇太后哭極哀,不食,曰:「帝果殺吾子!」景帝哀懼,不知所為。與長公主計之,乃分梁為五國,盡立孝王男五人為王,女五人皆食湯沐邑。於是奏之太后,太后乃說,為帝加壹湌 。梁孝王長子買為梁王,是為共王;子明為濟川王;子彭離為濟東王;子定為山陽王;子不識為濟陰王。
新字:於是天子意梁王,逐賊,果梁使之。乃遣使冠蓋相望於道,覆按梁,捕公孫詭、羊勝。公孫詭、羊勝匿王後宮。使者責二千石急,梁相軒丘豹及内史韓安国進諫王,王乃令勝、詭皆自殺,出之。上由此怨望於梁王。梁王恐,乃使韓安国因長公主謝罪太后,然后得釈。上怒稍解,因上書請朝。既至関,茅蘭説王,使乗布車,従両騎入,匿於長公主園。漢使使迎王,王已入関,車騎尽居外,不知王処。太后泣曰:「帝殺吾子!」景帝憂恐。於是梁王伏斧質於闕下,謝罪,然後太后、景帝大喜,相泣,復如故。悉召王従官入関。然景帝益疏王,不同車輦矣。三十五年冬,復朝。上疏欲留,上弗許。帰国,意忽忽不楽。北猟良山,有献牛,足出背上,孝王悪之。六月中,病熱,六日卒,謚曰孝王。孝王慈孝,毎聞太后病,口不能食,居不安寝,常欲留長安侍太后。太后亦愛之。及聞梁王薨,竇太后哭極哀,不食,曰:「帝果殺吾子!」景帝哀懼,不知所為。与長公主計之,乃分梁為五国,尽立孝王男五人為王,女五人皆食湯沐邑。於是奏之太后,太后乃説,為帝加壱湌 。梁孝王長子買為梁王,是為共王;子明為済川王;子彭離為済東王;子定為山陽王;子不識為済陰王。
書き下し
是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
現代語訳
そこで天子は梁王の仕業ではないかと疑い、刺客を追及すると、果たして梁が遣わしたものであった。そこで使者を次々に送り、その冠と車の覆いが道に途切れず見えるほどで、梁を徹底して取り調べ、公孫詭と羊勝を捕らえようとした。公孫詭と羊勝は王の後宮に隠れた。使者が梁の二千石の高官を厳しく責め立てたので、梁の相の軒丘豹と内史の韓安国が王を諫めた。王はようやく羊勝と公孫詭を自殺させ、その死体を差し出した。帝はこれ以来梁王を恨むようになった。梁王は恐れ、韓安国を遣わし、長公主(景帝の姉)を通じて太后に罪を詫びさせ、ようやく許された。帝の怒りが少し解けたので、梁王は上書して入朝を願い出た。函谷関に着くと、家臣の茅蘭(ぼうらん)が王に説き、粗末な布張りの車に乗って騎馬二人だけを従えて関に入り、長公主の庭園に身を隠させた。漢が使者を送って王を迎えさせたところ、王はすでに関に入っており、車騎はみな関の外にいて、王の居場所が分からなかった。太后は泣いて「帝がわたしの子を殺した」と言った。景帝は憂え恐れた。そこで梁王は宮門の下で首斬り台に身を伏せて罪を謝した。それでようやく太后も景帝も大いに喜び、互いに泣いて、元どおりの仲に戻った。王の随行の役人もすべて関の中に呼び入れた。しかし景帝はますます王を疎んじ、もはや同じ車や輦に乗ることはなかった。三十五年の冬、再び入朝した。上書して都に留まりたいと願ったが、帝は許さなかった。封国に帰ると、王は気がふさいで楽しまなかった。北の良山で狩りをしたとき、足が背中から生えた牛を献上する者があり、孝王はこれを忌み嫌った。六月、熱病にかかり、六日で亡くなった。孝王と諡された。孝王は母思いで、太后が病気と聞くたびに、食事も喉を通らず、夜も安らかに眠れず、いつも長安に留まって太后に仕えたいと願っていた。太后もまた彼を愛していた。梁王の死を聞くと、竇太后は声をあげて極度に嘆き悲しみ、食事もとらずに「帝がやはりわたしの子を殺したのだ」と言った。景帝は悲しみ恐れて、どうしてよいか分からなかった。長公主と相談し、梁を五つの国に分け、孝王の男子五人をすべて王に立て、娘五人にもみな湯沐邑(化粧料の領地)を与えた。このことを太后に奏上すると、太后はようやく喜び、帝のために食事を一膳増やして口にした。梁の孝王の長子の買が梁王となり、これが共王である。子の明は済川王、子の彭離は済東王、子の定は山陽王、子の不識は済陰王となった。
解説
関連する章句
-
史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
-
史記 梁孝王世家公卿襄を廃して庶人と為さんことを請ふ。天子曰く、「李太后淫行有り、而して梁王襄良き師傅無し、故に不義に陥る」と。乃ち梁の八城を削り、任王后の首を市に梟す。梁余りて尚ほ十城有り。襄立つこと三十九年にして卒し、謚して平王と為す。子無傷立ちて梁王と為るなり。済川王明は、梁の孝王の子なり、桓邑侯を以て孝景の中六年に済川王と為る。七歳にして、其の中尉を射殺するに坐し、漢の有司誅せんことを請ふも、天子誅するに忍びず、明を廃して庶人と為す。房陵に遷し、地は漢に入りて郡と為る。済東王彭離は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済東王と為る。二十九年、彭離驕悍にして、人君の礼無く、昏暮に私かに其の奴・亡命の少年数十人と剽を行ひて人を殺し、財物を取りて以て好みと為す。殺す所の発覚する者百余人、国皆之を知り、敢へて夜行く莫し。殺さるる者の子上書して言ふ。漢の有司誅せんことを請ふも、上忍びず、廃して以て庶人と為し、上庸に遷し、地は漢に入り、大河郡と為る。山陽の哀王定は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て山陽王と為る。九年にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、山陽郡と為る。済陰の哀王不識は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済陰王と為る。一歳にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、済陰郡と為る。太史公曰く、梁の孝王親愛の故を以て、膏腴の地に王たりと雖も、然れども漢家の隆盛、百姓の殷富に会ふ、故に能く其の財貨を植やし、宮室を広め、車服天子に擬す。然れども亦僭なり。褚先生曰く、臣郎たりし時、之を宮殿中の老郎吏の事を好む者の称道するに聞けり。竊かに以為へらく梁の孝王をして怨望し、不善を為さんと欲せしむる者は、事中より生ず。今太后は、女主なり、少子を愛するの故を以て、梁王をして太子と為さしめんと欲す。
-
史記 梁孝王世家梁の孝王武は、孝文皇帝の子なり、而して孝景帝と母を同じくす。母は、竇太后なり。孝文帝凡そ四男あり。長子を太子と曰ふ、是れ孝景帝為り。次子は武、次子は参、次子は勝。孝文帝即位の二年、武を以て代王と為し、参を以て太原王と為し、勝を以て梁王と為す。二歳にして、代王を徙して淮陽王と為す。代を以て尽く太原王に与へ、号して代王と曰ふ。参立つこと十七年、孝文の後二年卒し、謚して孝王と為す。子登嗣ぎて立つ、是れ代の共王為り。立つこと二十九年、元光二年卒す。子義立つ、是れ代王為り。十九年にして、漢関を広げ、常山を以て限りと為し、而して代王を徙して清河に王たらしむ。清河王の徙るは元鼎三年を以てなり。初め、武淮陽王たること十年にして、梁王勝卒し、謚して梁の懐王と為す。懐王最も少子にして、愛幸他子に異なれり。其の明年、淮陽王武を徙して梁王と為す。梁王の初めて梁に王たるは、孝文帝の十二年なり。梁王初めて王たりしより通歴已に十一年なり。梁王の十四年、入朝す。十七年、十八年、比年入朝し、留まり、其の明年、乃ち国に之く。二十一年、入朝す。二十二年、孝文帝崩ず。二十四年、入朝す。二十五年、復た入朝す。是の時上未だ太子を置かざるなり。上梁王と燕飲し、嘗て従容として言ひて曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。王辞謝す。至言に非ざるを知ると雖も、然れども心内に喜ぶ。太后も亦然り。其の春、呉楚斉趙の七国反す。呉楚先づ梁の棘壁を撃ち、数万人を殺す。梁の孝王睢陽に城守し、而して韓安国・張羽等をして大将軍と為し、以て呉楚を距がしむ。呉楚梁を以て限りと為し、敢へて過ぎて西せず、太尉亜夫等と相距ぐこと三月。呉楚破れ、而して梁の破殺虜略する所漢と中分す。
-
史記 梁孝王世家袁盎等宋の宣公正を立てず、禍を生じ、禍乱後五世絶えず、小を忍ばざれば大義を害する状を以て太后に報ず。太后乃ち解説し、即ち梁王をして帰りて国に就かしむ。而して梁王其の義の袁盎諸大臣の所より出づるを聞き、怨望し、人をして来たりて袁盎を殺さしむ。袁盎之を顧みて曰く、「我は所謂袁将軍なる者なり、公誤ること毋きを得んや」と。刺す者曰く、「是なり」と。之を刺し、其の剣を置く、剣身に著く。其の剣を視るに、新たに治む。長安中の削厲工に問ふに、工曰く、「梁の郎某子来たりて此の剣を治む」と。此を以て知りて之を発覚し、使者を発して捕へ逐はしむ。独り梁王の殺さんと欲する所の大臣十余人、文吏之を窮本し、謀反の端頗る見はる。太后食はず、日夜泣きて止まず。景帝甚だ之を憂へ、公卿大臣に問ふ、大臣以為へらく経術の吏を遣はして往きて之を治めしめば、乃ち解くべしと。是に於いて田叔・呂季主を遣はして往きて之を治めしむ。此の二人皆経術に通じ、大礼を知る。来たり還りて、霸昌廏に至り、火を取りて悉く梁の反辞を焼き、但だ空手にて来たりて景帝に対ふ。景帝曰く、「何如」と。対へて曰く、「言ふこころは梁王知らざるなり。之を造為する者は、独り其の幸臣羊勝・公孫詭の属之を為すのみ。謹んで以て誅に伏して死し、梁王恙無きなり」と。景帝喜説して、曰く、「急ぎ趨りて太后に謁せよ」と。太后之を聞き、立ちどころに起ちて坐して湌し、気平復す。故に曰く、経術に通じ古今の大礼を知らざれば、以て三公及び左右の近臣と為すべからず。少見の人は、管中より天を闚ふが如きなり。
-
史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
-
史記 韓長孺列伝公孫詭・羊勝孝王を説きて帝の太子と為り及び地を益す事を求む、漢の大臣の聴かざるを恐れ、乃ち陰かに人をして漢の用事の謀臣を刺さしむ。景帝遂に詭・勝等の計画を聞き、乃ち使を遣りて詭・勝を捕へしむ。内史安国詭・勝の孝王の所に匿るるを聞き、安国入りて王に見えて泣きて曰く、「主辱めらるれば臣死す。大王良臣無く、故に事紛紛として此に至る。今詭・勝得ずんば、辞して賜死を請はん」と。王曰く、「何ぞ此に至る」と。安国泣数行下りて曰く、「大王自ら皇帝に度るに、太上皇の高皇帝におけると、皇帝の臨江王におけると孰与れか親しき。天下を治むるは終に私を以て公を乱さず。今大王一邪臣の浮説を悦び、上禁を犯し、明法を橈ぐ。如し太后の宮車即ち晏駕せば、大王尚ほ誰にか攀らんや」と。語未だ卒らざるに、孝王泣数行下り、安国に謝して曰く、「吾今詭・勝を出ださん」と。詭・勝自殺す。梁の事皆釈するを得、安国の力なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る