史記 / 西南夷列伝
邛竹。西夷后揃,剽分二方,卒為七郡。
書き下し
邛竹とにあり。西夷後に揃られ、剽して二方に分かたれ、卒に七郡と為る。
現代語訳
邛の竹を見たことにあった。西夷は後に切り取られ、二つの方面に分けて掠め取られ、ついに七つの郡となった。
解説
西南夷列伝の太史公曰の結びです。前の段から続き、西南夷経営の発端は番禺で見た枸醤と大夏で見た蜀の杖・邛の竹にあったと述べ、西夷は後に切り取られて南と西の二方面に分けられ、最終的に七つの郡になったとまとめます。七郡とは、犍為・牂柯・越巂・沈犁・汶山・武都・益州を指すと考えられます。わずか数十年で、交易の噂から始まった関心が武力と外交を経て郡県支配にまで至ったことを、司馬遷はあえて短い言葉で締めくくっています。そこに称賛とも批判ともつかない、距離をおいた視線が感じられます。小さな発見が組織の大きな拡大につながったとき、その成果と引き換えに何が失われたかも併せて振り返る姿勢を、この結びは促しているように思われます。
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