史記 / 西南夷列伝
及至南越反,上使馳義侯因犍為發南夷兵。且蘭君恐遠行,旁國虜其老弱,乃與其眾反,殺使者及犍為太守。漢乃發巴蜀罪人嘗擊南越者八校尉擊破之。會越已破,漢八校尉不下,即引兵還,行誅頭蘭。頭蘭,常隔滇道者也。已平頭蘭,遂平南夷為牂柯郡。夜郎侯始倚南越,南越已滅,會還誅反者,夜郎遂入朝。上以為夜郎王。南越破後,及漢誅且蘭、邛君,并殺筰侯,冄駹皆振恐,請臣置吏。乃以邛都為越巂郡,筰都為沈犁郡,冄駹為汶山郡,廣漢西白馬為武都郡。上使王然于以越破及誅南夷兵威風喻滇王入朝。滇王者,其眾數萬人,其旁東北有勞寖、靡莫,皆同姓相扶,未肯聽。勞寖、靡莫數侵犯使者吏卒。元封二年,天子發巴蜀兵擊滅勞寖、靡莫,以兵臨滇。滇王始首善,以故弗誅。滇王離難西南夷,舉國降,請置吏入朝。於是以為益州郡,賜滇王王印,復長其民。西南夷君長以百數,獨夜郎、滇受王印。滇小邑,最寵焉。
新字:及至南越反,上使馳義侯因犍為発南夷兵。且蘭君恐遠行,旁国虜其老弱,乃与其衆反,殺使者及犍為太守。漢乃発巴蜀罪人嘗撃南越者八校尉撃破之。会越已破,漢八校尉不下,即引兵還,行誅頭蘭。頭蘭,常隔滇道者也。已平頭蘭,遂平南夷為牂柯郡。夜郎侯始倚南越,南越已滅,会還誅反者,夜郎遂入朝。上以為夜郎王。南越破後,及漢誅且蘭、邛君,并殺筰侯,冄駹皆振恐,請臣置吏。乃以邛都為越巂郡,筰都為沈犁郡,冄駹為汶山郡,広漢西白馬為武都郡。上使王然于以越破及誅南夷兵威風喩滇王入朝。滇王者,其衆数万人,其旁東北有労寖、靡莫,皆同姓相扶,未肯聴。労寖、靡莫数侵犯使者吏卒。元封二年,天子発巴蜀兵撃滅労寖、靡莫,以兵臨滇。滇王始首善,以故弗誅。滇王離難西南夷,舉国降,請置吏入朝。於是以為益州郡,賜滇王王印,復長其民。西南夷君長以百数,独夜郎、滇受王印。滇小邑,最寵焉。
書き下し
南越反するに至るに及び、上馳義侯をして犍為に因りて南夷の兵を発せしむ。且蘭の君遠く行かば、旁国其の老弱を虜にせんことを恐れ、乃ち其の衆と反し、使者及び犍為太守を殺す。漢乃ち巴蜀の罪人の嘗て南越を撃ちし者八校尉を発して之を撃破す。越已に破るるに会ひ、漢の八校尉下らず、即ち兵を引きて還り、行くゆく頭蘭を誅す。頭蘭は、常に滇の道を隔つる者なり。已に頭蘭を平らげ、遂に南夷を平らげて牂柯郡と為す。夜郎侯始め南越に倚る、南越已に滅び、還りて反く者を誅するに会ひ、夜郎遂に入朝す。上以て夜郎王と為す。南越破れし後、漢の且蘭・邛君を誅し、并せて筰侯を殺すに及び、冄駹皆振ひ恐れ、臣として吏を置かんことを請ふ。乃ち邛都を以て越巂郡と為し、筰都を沈犁郡と為し、冄駹を汶山郡と為し、広漢の西の白馬を武都郡と為す。上王然于をして越を破り及び南夷を誅するの兵威を以て滇王に入朝を風喩せしむ。滇王は、其の衆数万人、其の旁の東北に労寖・靡莫有り、皆同姓にして相扶く、未だ聴くを肯ぜず。労寖・靡莫数々使者の吏卒を侵犯す。元封二年、天子巴蜀の兵を発して労寖・靡莫を撃滅し、兵を以て滇に臨む。滇王始め首として善し、故を以て誅せず。滇王西南夷を離難し、国を挙げて降り、吏を置き入朝せんことを請ふ。是に於て以て益州郡と為し、滇王に王印を賜ひ、復た其の民に長たらしむ。西南夷の君長は百を以て数ふ、独り夜郎・滇のみ王印を受く。滇は小邑なるも、最も寵せらる。
現代語訳
南越が反乱を起こすと、主上は馳義侯に命じ、犍為郡を拠点に南夷の兵を徴発させた。且蘭(しょらん)の君は、遠征に出れば隣国が自国の老人や弱者をさらっていくのではと恐れ、民衆とともに反乱を起こし、使者と犍為太守を殺した。漢はそこで、かつて南越を攻めたことのある巴・蜀の罪人からなる八校尉の兵を送り、これを撃破した。ちょうど南越がすでに破れたので、漢の八校尉は南下せず、兵を引き返し、その途中で頭蘭を誅した。頭蘭は、いつも滇への道を遮っていた者である。頭蘭を平定すると、そのまま南夷を平定して牂柯郡とした。夜郎侯ははじめ南越を頼みにしていたが、南越が滅び、漢軍が戻って反逆者を誅するのを見て、ついに入朝した。主上は彼を夜郎王とした。南越が破れた後、漢が且蘭と邛の君を誅し、あわせて筰の侯を殺すと、冄駹はみな震え恐れ、臣下となって役人を置いてほしいと願い出た。そこで邛都を越巂郡、筰都を沈犁郡、冄駹を汶山郡、広漢の西の白馬を武都郡とした。主上は王然于を遣わし、南越を破り南夷を誅した兵威を背景に、滇王に入朝をそれとなく勧めさせた。滇王は数万の民を擁し、その東北の傍らには労寖(ろうしん)・靡莫があって、みな同姓で互いに助け合っていたので、聞き入れようとしなかった。労寖・靡莫はたびたび使者の役人や兵卒に危害を加えた。元封二年(前109年)、天子は巴・蜀の兵を発して労寖・靡莫を撃滅し、兵をもって滇に迫った。滇王ははじめから友好的であったので、誅さなかった。滇王は西南夷の仲間から離れ、国を挙げて降伏し、役人を置いて入朝したいと願い出た。そこで益州郡とし、滇王に王の印を賜い、引き続きその民の長とさせた。西南夷の君長は百を数えるが、王の印を受けたのは夜郎と滇だけである。滇は小さな国であったが、最も寵遇された。
解説
関連する章句
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史記 西南夷列伝秦の時常頞略ぼ五尺道を通じ、諸々の此の国に頗る吏を置く。十余歳にして、秦滅ぶ。漢興るに及び、皆此の国を棄てて蜀の故の徼を開く。巴蜀の民或いは窃かに出でて商賈し、其の筰馬・僰僮・髦牛を取る、此を以て巴蜀殷富なり。大行王恢東越を撃つ、東越王郢を殺して以て報ず。恢兵威に因りて番陽の令唐蒙をして指を風して南越に暁さしむ。南越蒙に蜀の枸醤を食はしむ、蒙従りて来たる所を問ふ、曰く「道は西北の牂柯よりす、牂柯江は広さ数里、番禺城下に出づ」と。蒙帰りて長安に至り、蜀の賈人に問ふ、賈人曰く、「独り蜀のみ枸醤を出だす、多く持して窃かに出でて夜郎に市る。夜郎は、牂柯江に臨み、江広さ百余歩、以て船を行るに足る。南越財物を以て夜郎を役属し、西は同師に至る、然れども亦臣使すること能はざるなり」と。蒙乃ち上書して上に説きて曰く、「南越王は黄屋左纛、地は東西万余里、名は外臣為るも、実は一州の主なり。今長沙・豫章を以て往かば、水道多く絶え、行き難し。窃かに聞く夜郎の有する所の精兵、十余万を得べし、船を牂柯江に浮かべ、其の不意に出づ、此れ越を制するの一奇なり。誠に漢の彊、巴蜀の饒を以て、夜郎の道を通じ、為に吏を置かば、易きこと甚だし」と。上之を許す。乃ち蒙を拝して郎中将と為し、千人を将ゐ、食重万余人、巴蜀の筰関より入り、遂に夜郎侯多同に見ゆ。蒙厚く賜ひ、喩すに威徳を以てし、約して為に吏を置き、其の子をして令と為さしむ。夜郎の旁の小邑皆漢の繒帛を貪り、以為へらく漢の道険しく、終に有すること能はずと、乃ち且く蒙の約を聴く。還りて報じ、乃ち以て犍為郡と為す。巴蜀の卒を発して道を治め、僰道より牂柯江を指す。蜀人司馬相如も亦西夷の邛・筰は郡を置くべしと言ふ。相如をして郎中将を以て往きて喩さしむ、皆南夷の如くし、為に一都尉、十余県を置き、蜀に属せしむ。
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史記 西南夷列伝西南夷の君長は什を以て数ふ、夜郎最も大なり。其の西の靡莫の属は什を以て数ふ、滇最も大なり。滇より以北の君長は什を以て数ふ、邛都最も大なり。此れ皆魋結し、田を耕し、邑聚有り。其の外西は同師より以東、北は楪楡に至るまで、名づけて巂・昆明と為す、皆編髪し、畜に随ひて遷徙し、常処毋く、君長毋し、地方数千里なるべし。冄より以東北、君長は什を以て数ふ、徙・筰都最も大なり。筰より以東北、君長は什を以て数ふ、冄駹最も大なり。其の俗或いは土著し、或いは移徙す、蜀の西に在り。冄駹より以東北、君長は什を以て数ふ、白馬最も大なり、皆氐の類なり。此れ皆巴蜀の西南外の蛮夷なり。
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史記 西南夷列伝邛竹とにあり。西夷後に揃られ、剽して二方に分かたれ、卒に七郡と為る。
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史記 平準書是に於て天子、山東の贍らざるが為に、天下の囚を赦し、南方の楼船の卒二十余万人に因りて南越を撃ち、数万人は三河以西の騎を発して西羌を撃ち、又数万人は河を度りて令居を築く。初めて張掖・酒泉郡を置き、而して上郡・朔方・西河・河西に田官を開き、斥塞の卒六十万人をして戍りて之に田せしむ。中国は道を繕ひ糧を餽ること、遠き者は三千、近き者は千余里、皆大農に仰ぎ給す。辺兵足らず、乃ち武庫・工官の兵器を発して以て之を贍す。車騎の馬乏絶し、県官銭少なく、馬を買ふも得難し。乃ち令を著し、封君以下三百石以上の吏に至るまで、差を以て牝馬を天下の亭に出さしむ。亭に畜牸馬有り、歳ごとに息を課す。斉の相卜式上書して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣辱めらると。南越反す。臣願はくは父子、斉の船に習ふ者と往きて之に死せん」と。天子詔を下して曰く、「卜式は躬ら耕牧すと雖も、以て利と為さず、余り有れば輒ち県官の用を助く。今天下不幸にして急有り、而して式奮ひて父子之に死せんことを願ふ。未だ戦はずと雖も、義内に形はると謂ふ可し。爵関内侯、金六十斤、田十頃を賜へ」と。天下に布告するも、天下応ずる莫し。列侯百を以て数ふるも、皆軍に従ひて羌・越を撃たんことを求むる莫し。酎に至りて、少府金を省し、而して列侯の酎金に坐して侯を失ふ者百余人。乃ち式を拝して御史大夫と為す。式既に位に在り、郡国の多く県官の塩鉄を作るを便とせず、鉄器苦悪にして、賈貴く、或いは彊ひて民をして之を売買せしむるを見る。而して船に算有り、商ふ者少なく、物貴し。乃ち孔僅に因りて船算の事を言ふ。上是に由りて卜式を悦ばず。漢、兵を連ぬること三歳、羌を誅し、南越を滅す。番禺以西、蜀の南に至るまで、初郡十七を置き、且つ其の故俗を以て治め、賦税する毋し。南陽・漢中以往の郡は、各々地の比するを以て初郡の吏卒の奉食・幣物、伝車馬の被具を給す。
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