史記 / 司馬相如列伝
奏之天子,天子大說。其辭曰:賦奏,天子以為郎。無是公言天子上林廣大,山谷水泉萬物,乃子虛言楚雲夢所有甚眾,侈靡過其實,且非義理所尚,故刪取其要,歸正道而論之。相如為郎數歲,會唐蒙使略通夜郎西僰中,發巴蜀吏卒千人,郡又多為發轉漕萬餘人,用興法誅其渠帥,巴蜀民大驚恐。上聞之,乃使相如責唐蒙,因喻告巴蜀民以非上意。檄曰:相如還報。唐蒙已略通夜郎,因通西南夷道,發巴、蜀、廣漢卒,作者數萬人。治道二歲,道不成,士卒多物故,費以巨萬計。蜀民及漢用事者多言其不便。是時邛筰之君長聞南夷與漢通,得賞賜多,多欲原為內臣妾,請吏,比南夷。天子問相如,相如曰:「邛、筰、厓、駹者近蜀,道亦易通,秦時嘗通為郡縣,至漢興而罷。今誠複通,為置郡縣,愈於南夷。」天子以為然,乃拜相如為中郎將,建節往使。副使王然於、壺充國、呂越人馳四乘之傳,因巴蜀吏幣物以賂西夷。至蜀,蜀太守以下郊迎,縣令負弩矢先驅,蜀人以為寵。於是卓王孫、臨邛諸公皆因門下獻牛酒以交驩。卓王孫喟然而歎,自以得使女尚司馬長卿晚,而厚分與其女財,與男等同。司馬長卿便略定西夷,邛、筰、厓、駹、斯榆之君皆請為內臣。
新字:奏之天子,天子大説。其辞曰:賦奏,天子以為郎。無是公言天子上林広大,山谷水泉万物,乃子虚言楚雲夢所有甚衆,侈靡過其実,且非義理所尚,故刪取其要,帰正道而論之。相如為郎数歳,会唐蒙使略通夜郎西僰中,発巴蜀吏卒千人,郡又多為発転漕万余人,用興法誅其渠帥,巴蜀民大驚恐。上聞之,乃使相如責唐蒙,因喩告巴蜀民以非上意。檄曰:相如還報。唐蒙已略通夜郎,因通西南夷道,発巴、蜀、広漢卒,作者数万人。治道二歳,道不成,士卒多物故,費以巨万計。蜀民及漢用事者多言其不便。是時邛筰之君長聞南夷与漢通,得賞賜多,多欲原為内臣妾,請吏,比南夷。天子問相如,相如曰:「邛、筰、厓、駹者近蜀,道亦易通,秦時嘗通為郡県,至漢興而罷。今誠複通,為置郡県,愈於南夷。」天子以為然,乃拝相如為中郎将,建節往使。副使王然於、壺充国、呂越人馳四乗之伝,因巴蜀吏幣物以賂西夷。至蜀,蜀太守以下郊迎,県令負弩矢先駆,蜀人以為寵。於是卓王孫、臨邛諸公皆因門下献牛酒以交驩。卓王孫喟然而嘆,自以得使女尚司馬長卿晩,而厚分与其女財,与男等同。司馬長卿便略定西夷,邛、筰、厓、駹、斯榆之君皆請為内臣。
書き下し
之を天子に奏す、天子大いに説ぶ。其の辞に曰く。賦奏せられ、天子以て郎と為す。無是公天子の上林の広大、山谷水泉万物を言ひ、及び子虚楚の雲夢の有する所甚だ衆きを言ふ、侈靡其の実に過ぎ、且つ義理の尚ぶ所に非ず、故に其の要を刪り取り、正道に帰して之を論ず。相如郎為ること数歳、会々唐蒙使ひして夜郎・西僰中を略通し、巴蜀の吏卒千人を発し、郡又多く為に転漕万余人を発し、興法を用ひて其の渠帥を誅す、巴蜀の民大いに驚恐す。上之を聞き、乃ち相如をして唐蒙を責めしめ、因りて巴蜀の民に喩告するに上の意に非ざるを以てす。檄に曰く。相如還りて報ず。唐蒙已に夜郎を略通し、因りて西南夷の道を通ぜんとし、巴・蜀・広漢の卒を発し、作る者数万人。道を治むること二歳、道成らず、士卒多く物故し、費は巨万を以て計ふ。蜀の民及び漢の事を用ふる者多く其の便ならざるを言ふ。是の時邛筰の君長南夷の漢と通じ、賞賜を得ること多きを聞き、多く内臣妾と為り、吏を請ひ、南夷に比せんことを願はんと欲す。天子相如に問ふ、相如曰く、「邛・筰・厓・駹は蜀に近く、道も亦通じ易し、秦の時嘗て通じて郡県と為し、漢興るに至りて罷む。今誠に複た通じ、為に郡県を置かば、南夷に愈らん」と。天子以て然りと為し、乃ち相如を拝して中郎将と為し、節を建てて往きて使ひせしむ。副使王然于・壺充国・呂越人四乗の伝を馳せ、巴蜀の吏の幣物に因りて以て西夷に賂ふ。蜀に至る、蜀の太守以下郊迎し、県令弩矢を負ひて先駆す、蜀人以て寵と為す。是に於て卓王孫・臨邛の諸公皆門下に因りて牛酒を献じて以て驩を交ふ。卓王孫喟然として歎じ、自ら以へらく女をして司馬長卿に尚せしむるを得ること晩しと、而して厚く其の女に財を分与し、男と等同にす。司馬長卿便ち西夷を略定し、邛・筰・厓・駹・斯楡の君皆内臣と為らんことを請ふ。
現代語訳
(相如が上林の賦を)天子に奉ると、天子は大いに喜んだ。その辞は次のとおりである。賦が奉られると、天子は相如を郎とした。無是公が天子の上林苑の広大さや山谷・水泉・万物を語り、子虚が楚の雲夢沢の産物の多さを語る内容は、贅沢さが事実を上回り、しかも道義の尊ぶところでもなかったので、その要点だけを削り取り、正しい道に帰着させて論じた。相如が郎となって数年たったころ、唐蒙が使者として夜郎や西の僰の地を攻略して通じるために、巴・蜀の役人と兵卒千人を徴発し、郡はさらにそのために物資を運ぶ人夫一万余人を徴発し、軍興の法(戦時の法)を用いてその首領を処刑したので、巴・蜀の民はひどく驚き恐れた。主上はこれを聞くと、相如を遣わして唐蒙を責めさせ、あわせて巴・蜀の民に、これは主上の本意ではないと諭し告げさせた。その檄文にいう。相如は帰って報告した。唐蒙はすでに夜郎を攻略して通じ、それに乗じて西南夷への道を通そうとし、巴・蜀・広漢の兵卒を徴発して、工事に従う者は数万人に及んだ。道を造ること二年、道は完成せず、士卒の多くが死に、費用は巨万で数えるほどになった。蜀の民や漢の政務を担う者の多くが、その不都合を訴えた。このころ邛・筰の君長たちは、南夷が漢と通じて多くの賞賜を得ていると聞き、多くの者が漢の内臣となって役人を置いてもらい、南夷並みになりたいと願った。天子が相如に問うと、相如は言った。「邛・筰・厓・駹は蜀に近く、道も通じやすい。秦の時代にはかつて通じて郡県としていたが、漢が興ってからやめた。今、本当にまた通じて郡県を置けば、南夷よりもまさるだろう」。天子はもっともだと考え、相如を中郎将に任じ、使者の節を立てて行かせた。副使の王然于・壺充国・呂越人は四頭立ての駅伝車を走らせ、巴・蜀の役所の財物を使って西夷に贈り物をした。蜀に着くと、蜀の太守以下が郊外まで出迎え、県令は弩と矢を背負って先導し、蜀の人々はこれを栄誉とした。そこで卓王孫や臨邛の有力者たちはみな、相如の門下を通して牛と酒を献じて親しみを結んだ。卓王孫は深くため息をつき、娘を司馬長卿に嫁がせるのが遅すぎたと思い、娘に手厚く財産を分け与え、息子と同等にした。司馬長卿はたちまち西夷を攻略して平定し、邛・筰・厓・駹・斯楡の君長はみな漢の内臣となりたいと願い出た。
解説
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