史記 / 東越列伝
餘善刻「武帝」璽自立,詐其民,為妄言。天子遣橫海將軍韓說出句章,浮海從東方往;樓船將軍楊仆出武林;中尉王溫舒出梅嶺;越侯為戈船、下瀨將軍,出若邪、白沙。元封元年冬,咸入東越。東越素發兵距險,使徇北將軍守武林,敗樓船軍數校尉,殺長吏。樓船將軍率錢唐轅終古斬徇北將軍,為御兒侯。自兵未往。故越衍侯吳陽前在漢,漢使歸諭餘善,餘善弗聽。及橫海將軍先至,越衍侯吳陽以其邑七百人反,攻越軍於漢陽。從建成侯敖,與其率,從繇王居股謀曰:「餘善首惡,劫守吾屬。
新字:余善刻「武帝」璽自立,詐其民,為妄言。天子遣横海将軍韓説出句章,浮海従東方往;楼船将軍楊仆出武林;中尉王温舒出梅嶺;越侯為戈船、下瀨将軍,出若邪、白沙。元封元年冬,咸入東越。東越素発兵距険,使徇北将軍守武林,敗楼船軍数校尉,殺長吏。楼船将軍率銭唐轅終古斬徇北将軍,為御児侯。自兵未往。故越衍侯呉陽前在漢,漢使帰諭余善,余善弗聴。及横海将軍先至,越衍侯呉陽以其邑七百人反,攻越軍於漢陽。従建成侯敖,与其率,従繇王居股謀曰:「余善首悪,劫守吾属。
書き下し
余善「武帝」の璽を刻して自立し、其の民を詐り、妄言を為す。天子横海将軍韓説を遣はし句章に出で、海に浮かびて東方より往かしむ。楼船将軍楊僕は武林に出で、中尉王温舒は梅嶺に出で、越侯は戈船・下瀬将軍と為り、若邪・白沙に出づ。元封元年冬、咸東越に入る。東越素より兵を発して険を距ぎ、徇北将軍をして武林を守らしめ、楼船軍の数校尉を敗り、長吏を殺す。楼船将軍の率ゐる銭唐の轅終古徇北将軍を斬り、御児侯と為る。自ら兵未だ往かず。故の越衍侯呉陽前に漢に在り、漢帰りて余善を諭さしむるも、余善聴かず。横海将軍先づ至るに及び、越衍侯呉陽其の邑の七百人を以て反し、越軍を漢陽に攻む。建成侯敖に従ひ、其の率と与に、繇王居股に従ひて謀りて曰く、「余善は首悪なり、吾が属を劫守す。
現代語訳
余善は「武帝」の璽を刻んで自ら帝を名のり、民を欺いてでたらめなことを言いふらした。天子は横海将軍の韓説を遣わして句章から出陣させ、海路で東方から攻めさせた。楼船将軍の楊僕は武林から、中尉の王温舒は梅嶺から出陣し、帰順した越の侯たちは戈船将軍・下瀬将軍となって若邪・白沙から出陣した。元封元年(前110年)冬、全軍が東越に入った。東越はかねてから兵を出して険しい地で防ぎ、徇北将軍に武林を守らせ、楼船将軍の部隊の校尉数人を破り、長吏(高級官吏)を殺した。楼船将軍の配下である銭唐の轅終古が徇北将軍を斬り、御児侯となった。(楼船将軍は)自らの本隊はまだ進んでいなかった。もとの越衍侯の呉陽は以前から漢にいたが、漢は彼を帰らせて余善を諭させた。余善は聞き入れなかった。横海将軍が先に到着すると、越衍侯の呉陽は自分の邑の七百人を率いて寝返り、漢陽で越軍を攻撃した。そして建成侯の敖に従い、その配下とともに、繇王の居股のもとで謀って言った。「余善こそ首謀者であり、われわれを脅して守らせている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 東越列伝是の時楼船将軍楊僕使ひをして上書せしめ、便ち兵を引きて東越を撃たんことを願ふ。上士卒労倦すと曰ひ、許さず、兵を罷め、諸校をして豫章の梅領に屯して命を待たしむ。元鼎六年秋、余善楼船の之を誅せんことを請ひ、漢兵境に臨み、且に往かんとするを聞き、乃ち遂に反し、兵を発して漢の道を距ぐ。将軍騶力等を号して「呑漢将軍」と為し、白沙・武林・梅嶺に入り、漢の三校尉を殺す。是の時漢大農張成・故の山州侯歯をして将として屯せしむるも、敢て撃たず、却きて便処に就く、皆畏懦に坐して誅せらる。
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史記 東越列伝今漢兵至り、衆彊し、計るに余善を殺し、自ら諸将に帰せば、儻いは幸ひに脱るるを得ん」と。乃ち遂に倶に余善を殺し、其の衆を以て横海将軍に降る、故に繇王居股を封じて東成侯と為し、万戸。建成侯敖を封じて開陵侯と為す。越衍侯呉陽を封じて北石侯と為す。横海将軍説を封じて案道侯と為す。横海校尉福を封じて繚嫈侯と為す。福は、成陽共王の子にして、故海常侯為り、法に坐して侯を失ふ。旧軍に従ひて功無きも、宗室を以ての故に侯たり。諸将皆成功無く、封ぜらるる莫し。東越の将多軍、漢兵至るや、其の軍を棄てて降り、封じて無錫侯と為る。是に於て天子曰く、東越は狭くして阻多く、閩越は悍にして、数々反覆すと、軍吏に詔して皆其の民を将ゐて江淮の間に徙り処らしむ。東越の地遂に虚し。
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史記 東越列伝餘善已に郢を殺し、威国に行はれ、国民多く属し、竊かに自立して王と為る。繇王其の衆を矯めて正を持する能はず。天子聞きて、餘善を復た師を興すに足らずと為し、因りて餘善を立てて東越王と為し、繇王と并び処らしむ。元鼎五年に至り、南越反す、東越王餘善上書し、卒八千人を以て楼船将軍に従ひて呂嘉等を撃たんことを請ふ。兵揭揚に至り、海の風波を以て解と為し、行かず、両端を持し、陰かに南越に使ひす。漢の番禺を破るに及び、至らず。
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史記 東越列伝建元六年に至り、閩越南越を撃つ。南越天子の約を守り、敢て擅に兵を発して撃たずして以て聞す。上大行王恢を遣り豫章より出で、大農韓安国会稽より出で、皆将軍と為す。兵未だ嶺を踰えざるに、閩越王郢兵を発して険を距つ。其の弟餘善乃ち相・宗族と謀りて曰く、「王擅に兵を発して南越を撃ち、請はず、故に天子の兵来たりて誅す。今漢兵衆彊なり。今王を殺して以て天子に謝せん。天子聴かば、兵を罷め、固より一国完し」と。皆「善し」と曰ふ。即ち王を鏦殺し、使をして其の頭を奉じて大行に致さしむ。大行曰く、「来たる所以の者は王を誅するなり。今王の頭至り、謝罪す、戦はずして耘る、利焉より大なるは莫し」と。
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史記 東越列伝乃ち便宜を以て兵を案じて大農の軍に告げ、而して使ひをして王の頭を奉じて馳せて天子に報ぜしむ。詔して両将の兵を罷め、曰く、「郢等は首悪なり、独り無諸の孫繇君丑は謀に与らず」と。乃ち郎中将をして丑を立てて越繇王と為し、閩越の先の祭祀を奉ぜしむ。
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史記 南越列伝人をして蒼梧の秦王及び其の諸郡県に告げしめ、明王の長男越の妻の子術陽侯建徳を立てて王と為す。而して韓千秋の兵入り、数小邑を破る。其の後越直ちに道を開き食を給す、未だ番禺に至らざること四十里、越兵を以て千秋等を撃ち、遂に之を滅ぼす。人をして漢の使者の節を函封して塞上に置かしめ、好んで謾辞を為して罪を謝し、兵を発して要害の処を守る。是に於て天子曰く、「韓千秋成功無しと雖も、亦軍鋒の冠なり」と。其の子延年を封じて成安侯と為す。樛楽は、其の姊王太后為り、首として漢に属せんことを願ふ、其の子広徳を封じて龍亢侯と為す。乃ち赦を下して曰く、「天子微にして、諸侯力政す、臣の賊を討たざるを譏る。今呂嘉・建徳等反し、自立して晏如たり、罪人及び江淮以南の楼船十万の師をして往きて之を討たしめよ」と。元鼎五年秋、衛尉路博徳伏波将軍と為り、桂陽に出で、匯水を下る。主爵都尉楊僕楼船将軍と為り、豫章に出で、横浦を下る。故の帰義越侯二人戈船・下厲将軍と為り、零陵に出で、或いは離水を下り、或いは蒼梧に柢る。馳義侯をして巴蜀の罪人に因り、夜郎の兵を発し、牂柯江を下らしむ。咸番禺に会す。元鼎六年冬、楼船将軍精卒を将ゐて先づ尋陝を陥れ、石門を破り、越の船粟を得、因りて推して前み、越の鋒を挫き、数万人を以て伏波を待つ。伏波将軍罪人を将ゐ、道遠く、期に後るるに会ひ、楼船と会するに乃ち千余人有るのみ、遂に倶に進む。楼船前に居り、番禺に至る。建徳・嘉皆城守す。楼船自ら便処を択びて、東南面に居る。伏波は西北面に居る。暮に会ひ、楼船越人を攻め敗り、火を縦ちて城を焼く。越素より伏波の名を聞く、日暮れ、其の兵の多少を知らず。伏波乃ち営を為り、使者を遣はして降る者を招き、印を賜ひ、復た縦ちて相招かしむ。
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