史記 / 西南夷列伝
於是天子乃令王然于、柏始昌、呂越人等,使閒出西夷西,指求身毒國。至滇,滇王嘗羌乃留,為求道西十餘輩。歲餘,皆閉昆明,莫能通身毒國。
新字:於是天子乃令王然于、柏始昌、呂越人等,使閒出西夷西,指求身毒国。至滇,滇王嘗羌乃留,為求道西十余輩。歳余,皆閉昆明,莫能通身毒国。
書き下し
是に於て天子乃ち王然于・柏始昌・呂越人等をして、間に西夷の西に出で、身毒国を指して求めしむ。滇に至る、滇王嘗羌乃ち留め、為に道を西に求むる者十余輩。歳余にして、皆昆明に閉ざされ、能く身毒国に通ずる莫し。
現代語訳
そこで天子は王然于・柏始昌・呂越人らを遣わし、間道を通って西夷のさらに西に出て、身毒国を目指して道を探させた。一行が滇に着くと、滇王の嘗羌は彼らを引き留め、代わりに西への道を探す者を十余組送り出した。一年余りたったが、みな昆明に阻まれて、身毒国へ通じることはできなかった。
解説
張騫の進言を受けて、武帝がインドへの南の道を探らせた結果を記す段です。使者たちは滇国に至り、滇王は彼らを留めて自国から十余組の探索隊を出しましたが、一年余りたっても昆明の人々に阻まれて通れませんでした。昆明は前の段にあるとおり、君長を持たず家畜とともに移動する人々で、交渉する相手がいないため道を開くのが難しかったのです。唐蒙の夜郎経営がうまくいったのは、話をまとめられる首長がいたからでした。この失敗を契機に、漢は後に昆明を討つことになります。交渉相手の顔が見えない市場や組織では、いくら人を送っても道が開けないことがあります。誰と話せば物事が決まるのかをまず見極めることの大切さを教えてくれる段です。
関連する章句
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史記 大宛列伝今、身毒国又大夏の東南数千里に居りて蜀の物有り。此れ其の蜀を去ること遠からざるなり。今、大夏に使ひするに、羌中よりすれば険にして、羌人之を悪む。少しく北すれば、則ち匈奴の得る所と為る。蜀よりすれば宜しく径なるべく、又寇無し」と。天子既に大宛及び大夏・安息の属は皆大国にして奇物多く、土著にして頗る中国と業を同じくし、而して兵弱く、漢の財物を貴ぶを聞く。其の北には大月氏・康居の属有り、兵彊く、賂遺を以て利を設けて朝せしむ可し。且つ誠に得て義を以て之を属せしめば、則ち地を広むること万里、九訳を重ね、殊俗を致し、威徳四海に遍からん。天子欣然として、騫の言を以て然りと為し、乃ち騫をして蜀の犍為に因りて間使を発せしめ、四道並び出づ。駹より出で、冉より出で、徙より出で、邛・僰より出で、皆各々行くこと一二千里。其の北方は氐・筰に閉ざされ、南方は巂・昆明に閉ざさる。昆明の属は君長無く、寇盗を善くし、輒ち漢の使ひを殺略し、終に通ずるを得る莫し。然れども其の西千余里可りに乗象国有り、名づけて滇越と曰ふと聞く。而して蜀の賈の姦に物を出す者或いは焉に至る。是に於いて漢、大夏の道を求むるを以て始めて滇国に通ず。初め、漢、西南夷に通ぜんと欲するも、費多く道通ぜず、之を罷む。張騫の大夏に通ず可しと言ふに及び、乃ち復た西南夷を事とす。騫、校尉を以て大将軍に従ひて匈奴を撃ち、水草の処を知り、軍以て乏しからざるを得たり。乃ち騫を封じて博望侯と為す。是の歳は元朔六年なり。其の明年、騫、衛尉と為り、李将軍と俱に右北平に出でて匈奴を撃つ。匈奴、李将軍を囲み、軍の失亡多し。而して騫、期に後れて斬に当たり、贖ひて庶人と為る。是の歳、漢、驃騎を遣はして匈奴の西域の数万人を破り、祁連山に至る。其の明年、渾邪王其の民を率ゐて漢に降り、而して金城・河西の西、南山に並びて塩沢に至るまで、空しくして匈奴無し。匈奴時に候者の到る有るも、希なり。
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史記 西南夷列伝及び、博望侯張騫大夏に使ひして来たり、言ふ大夏に居りし時蜀布・邛竹・杖を見る、使ひして従りて来たる所を問はしむるに、曰く「東南の身毒国より、数千里なるべし、蜀の賈人の市より得」と。或いは聞く邛の西二千里可りに身毒国有りと。騫因りて盛んに言ふ、大夏は漢の西南に在り、中国を慕ひ、匈奴の其の道を隔つるを患ふ、誠に蜀に通ぜば、身毒国の道便にして近く、利有りて害無しと。
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史記 西南夷列伝楚の先豈に天禄有らんや。周に在りては文王の師為り、楚に封ぜらる。周の衰ふるに及び、地は五千里と称す。秦諸侯を滅ぼすも、唯だ楚の苗裔のみ尚ほ滇王有り。漢西南夷を誅し、国多く滅ぶ、唯だ滇のみ復た寵王と為る。然れども南夷の端は、枸醤を番禺に見、大夏の杖・
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史記 西南夷列伝是の時に当たり、巴蜀四郡西南夷の道を通ず、戍転相ひ馕す。数歳、道通ぜず、士罷れ餓ゑ溼に離りて死する者甚だ衆く、西南夷又数しば反し、兵を発し興撃するも、秏費して功無し。上之を患へ、公孫弘をして往きて視問せしむ。還り対へて、其の不便を言ふ。弘御史大夫と為るに及び、是の時方に朔方を筑きて河に拠り胡を逐ふ、弘因りて数しば西南夷の害を言ひ、「且く罷めて、力を匈奴に事とするに専らにす可し」と。上西夷を罷め、独り南夷夜郎の両県一都尉を置く。
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史記 西南夷列伝南越反するに至るに及び、上馳義侯をして犍為に因りて南夷の兵を発せしむ。且蘭の君遠く行かば、旁国其の老弱を虜にせんことを恐れ、乃ち其の衆と反し、使者及び犍為太守を殺す。漢乃ち巴蜀の罪人の嘗て南越を撃ちし者八校尉を発して之を撃破す。越已に破るるに会ひ、漢の八校尉下らず、即ち兵を引きて還り、行くゆく頭蘭を誅す。頭蘭は、常に滇の道を隔つる者なり。已に頭蘭を平らげ、遂に南夷を平らげて牂柯郡と為す。夜郎侯始め南越に倚る、南越已に滅び、還りて反く者を誅するに会ひ、夜郎遂に入朝す。上以て夜郎王と為す。南越破れし後、漢の且蘭・邛君を誅し、并せて筰侯を殺すに及び、冄駹皆振ひ恐れ、臣として吏を置かんことを請ふ。乃ち邛都を以て越巂郡と為し、筰都を沈犁郡と為し、冄駹を汶山郡と為し、広漢の西の白馬を武都郡と為す。上王然于をして越を破り及び南夷を誅するの兵威を以て滇王に入朝を風喩せしむ。滇王は、其の衆数万人、其の旁の東北に労寖・靡莫有り、皆同姓にして相扶く、未だ聴くを肯ぜず。労寖・靡莫数々使者の吏卒を侵犯す。元封二年、天子巴蜀の兵を発して労寖・靡莫を撃滅し、兵を以て滇に臨む。滇王始め首として善し、故を以て誅せず。滇王西南夷を離難し、国を挙げて降り、吏を置き入朝せんことを請ふ。是に於て以て益州郡と為し、滇王に王印を賜ひ、復た其の民に長たらしむ。西南夷の君長は百を以て数ふ、独り夜郎・滇のみ王印を受く。滇は小邑なるも、最も寵せらる。
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