史記 / 衛将軍驃騎列伝
驃騎將軍為人少言不泄,有氣敢任。天子嘗欲教之孫吳兵法,對曰:「顧方略何如耳,不至學古兵法。」天子為治第,令驃騎視之,對曰:「匈奴未滅,無以家為也。」由此上益重愛之。
新字:驃騎将軍為人少言不泄,有気敢任。天子嘗欲教之孫呉兵法,対曰:「顧方略何如耳,不至学古兵法。」天子為治第,令驃騎視之,対曰:「匈奴未滅,無以家為也。」由此上益重愛之。
書き下し
驃騎将軍人と為り少言にして泄さず、気有りて敢へて任ず。天子嘗て之に孫吳の兵法を教へんと欲するに、対へて曰く、「顧だ方略の何如なるのみ、古の兵法を学ぶに至らず」と。天子為に第を治め、驃騎をして之を視しむるに、対へて曰く、「匈奴未だ滅びず、以て家を為す無きなり」と。由此上益ます之を重愛す。
現代語訳
驃騎将軍(霍去病)は人柄が寡黙で、秘密を漏らさず、気概があってすすんで責任を引き受けた。天子がかつて彼に孫子・呉子の兵法を教えようとしたとき、彼は答えた。「大事なのは、その時々の方策がどうであるかです。いにしえの兵法を学ぶには及びません」。天子が彼のために屋敷を建て、驃騎に見に行かせたところ、彼は答えた。「匈奴がまだ滅びておりません。家を構えるどころではありません」。これによって帝はますます彼を重んじ、愛した。
解説
「使命の達成を第一に置き、私的な安楽を後回しにする——その一点集中の気概」——若き名将・霍去病の、使命に懸ける姿勢を描いた一段です。驃騎将軍・霍去病は、口数が少なく、秘密を漏らさず、気概にあふれて事にあたる人物でした。あるとき皇帝が、彼に『孫子』『呉子』といった古の兵法書を教えようとすると、霍去病はこう答えます。「大切なのは、その時々の状況にどう戦略を立てるか(方略)だけです。古い兵法書を学ぶまでのことはありません」と。過去の型を丸暗記するより、目の前の現実に即して考えることを重んじたのです。また皇帝が、彼のために立派な屋敷を建てて見せようとしたときには、こう言って辞退しました。「匈奴をまだ滅ぼしていないのに、家のことなど考えている場合ではありません(匈奴未滅、無以家為也)」と。私的な安楽よりも、果たすべき使命を第一に置いたのです。この気概に、皇帝はますます彼を重んじ、寵愛しました。ここに、使命への集中についての教訓があります。第一に、果たすべき使命を第一に置き、私的な安楽や報酬を後回しにする気概。「匈奴未滅、無以家為也」——霍去病は、地位や屋敷といった個人的な果実に目もくれず、目標の達成に一点集中した。大きな志を持つ者は、目先の安楽に流されない。第二に、過去の型や理論の丸暗記より、目の前の状況に即して考える実践性(顧方略何如耳)。霍去病は、古典の権威に頼るのではなく、その場その場の現実に応じて戦略を組み立てた。学んだ型を活かすのは大切だが、型に縛られて現実を見失ってはならない。第三に、こうした使命への純粋な集中が、周囲の信頼と評価を集めるということ。組織や仕事で、使命の達成を第一に置き私的な安楽を後回しにすること、過去の型の暗記より目の前の現実に即して考えること、そして使命への純粋な集中が信頼を生むこと——霍去病の気概は、目標に懸ける者の一点集中を教えます。ただし、この使命への集中が、次に見るように「部下への配慮を欠く」という影を伴っていたことも、あわせて心に留めるべきです。
この章句が説くこと
霍去病匈奴未滅無以家為使命を第一に置く私的な安楽を後回し顧方略何如型より現実に即す
関連する章句
-
史記 衛将軍驃騎列伝然れども少くして侍中たり、貴くして、士を省みず。其の軍に従ふや、天子為に太官をして数十乗を齎らしむ。既に還るに、重車に粱肉を余し棄つ。而して士に饑うる者有り。其の塞外に在るや、卒糧に乏しく、或いは自ら振るふ能はず。而るに驃騎は尚ほ域を穿ちて蹋鞠す。事此の類多し。大将軍の人と為りは仁善退譲にして、和柔を以て自ら上に媚ぶ。然れども天下未だ称する有らざるなり。驃騎将軍は四年の軍より後三年、
-
史記 衛将軍驃騎列伝騎射を善くし、再び大将軍に従ふ。詔を受けて壮士を与へられ、剽姚校尉と為り、軽勇の騎八百と直ちに大軍を棄つること数百里にして利に赴き、首虜を斬捕すること当に過ぐ。是に於て天子曰く、「剽姚校尉去病、首虜を斬ること二千二十八級、及び相国・当戸、単于の大父行籍若侯産を斬り、季父羅姑比を生け捕り、再び軍に冠たり。千六百戸を以て去病を封じて冠軍侯と為す。上谷の太守郝賢四たび大将軍に従ひ、首虜を捕斬すること二千余人。千一百戸を以て賢を封じて衆利侯と為す」と。是の歳、両将軍の軍を失ひ、翕侯を亡ひ、軍功多からず。故に大将軍益封せず。右将軍建至る。天子誅せず、其の罪を赦し、贖ひて庶人と為す。
-
史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
-
史記 衛将軍驃騎列伝而して卒す。天子之を悼み、属国の玄甲軍を発し、陳ぬること長安より茂陵に至り、冢を為りて祁連山に象る。之を諡し、武と広地とを并せて景桓侯と曰ふ。子嬗侯に代はる。嬗少く、字は子侯、上之を愛し、其の壮なるを幸ひて之を将たらしめんとす。居ること六歳、元封元年、嬗卒し、諡して哀侯と曰ふ。子無く、絶え、国除かる。驃騎将軍の死せしより後、大将軍の長子宜春侯伉法に坐して侯を失ふ。後五歳、伉の弟二人、陰安侯不疑及び発干侯登皆酎金に坐して侯を失ふ。侯を失ひて後二歳、冠軍侯の国除かる。其の後四年、大将軍青卒し、諡して烈侯と為す。子伉代はりて長平侯と為る。大将軍の単于を囲みしより後、十四年にして卒す。竟に復た匈奴を撃たざる者は、漢の馬少なく、而して方に南のかた両越を誅し、東のかた朝鮮を伐ち、羌・西南夷を撃つを以て、故を以て久しく胡を伐たず。大将軍其の平陽長公主を尚るを得たるの故を以て、長平侯伉侯に代はる。六歳にして、法に坐して侯を失ふ。左方は両大将軍及び諸裨将の名なり。最れ大将軍青、凡そ七たび出でて匈奴を撃ち、首虜を斬捕すること五万余級。一たび単于と戦ひ、河南の地を収め、遂に朔方郡を置く。再び益封せられ、凡そ万一千八百戸。三子を封じて侯と為し、侯は千三百戸。之を并せて、万五千七百戸。其の校尉裨将の大将軍に従ひて侯たる者九人。其の裨将及び校尉の已に将と為る者十四人。裨将為る者を李広と曰ふ。自ら伝有り。伝無き者を曰ふ、将軍公孫賀。賀は、義渠の人にして、其の先は胡種なり。賀の父渾邪、景帝の時平曲侯と為り、法に坐して侯を失ふ。賀は、武帝の太子為りし時の舎人なり。武帝立ちて八歳、太僕を以て軽車将軍と為り、馬邑に軍す。後四歳、軽車将軍を以て雲中より出づ。
-
史記 衛将軍驃騎列伝張騫大将軍に従ふ。嘗て大夏に使ひし、匈奴の中に留まること久しきを以て、軍を導き、善き水草の処を知り、軍以て饑渇無きを得たり。前に絶国に使ひせし功に因りて、騫を封じて博望侯と為す。冠軍侯去病既に侯たること三歳、春、冠軍侯去病を以て驃騎将軍と為し、万騎を将ゐて隴西より出で、功有り。天子曰く、「驃騎将軍戎士を率ゐて烏盭を踰え、遬濮を討ち、狐奴を渉り、五王国を歴、輜重人衆の懾慴する者は取らず、単于の子を獲んことを冀ふ。転戦すること六日、焉支山を過ぐること千有余里、短兵を合はせ、折蘭王を殺し、盧胡王を斬り、全甲を誅し、渾邪王の子及び相国・都尉を執へ、首虜八千余級、休屠の祭天の金人を収む。去病に二千戸を益封す」と。其の夏、驃騎将軍合騎侯敖と倶に北地より出で、道を異にす。博望侯張騫・郎中令李広倶に右北平より出で、道を異にす。皆匈奴を撃つ。郎中令は四千騎を将ゐて先に至り、博望侯は万騎を将ゐて後に在りて至る。匈奴の左賢王数万騎を将ゐて郎中令を囲む。郎中令与に戦ふこと二日、死する者半ばを過ぐ。殺す所も亦当に過ぐ。博望侯至り、匈奴の兵引き去る。博望侯行留に坐し、斬に当たり、贖ひて庶人と為る。而して驃騎将軍北地より出で、已に遂に深く入り、合騎侯と道を失ひ、相得ず。驃騎将軍居延を踰えて祁連山に至り、首虜を捕ふること甚だ多し。天子曰く、「驃騎将軍居延を踰え、遂に小月氏を過ぎ、祁連山を攻め、酋涂王を得たり。衆を以て降る者二千五百人、首虜を斬ること三万二百級、五王、五王の母、単于の閼氏、王子五十九人、相国・将軍・当戸・都尉六十三人を獲たり。師大率減ずること什に三。去病に五千戸を益封す。校尉の従ひて小月氏に至る者に爵左庶長を賜ふ。
-
史記 衛将軍驃騎列伝太史公曰く、蘇建余に語りて曰く、「吾嘗て大将軍の至って尊重にして、天下の賢大夫の称する毋きを責め、願はくは将軍古の名将の招選する所の賢者を観て、之を勉めよと(言へり)。大将軍謝して曰く、『魏其・武安の賓客を厚くせしより、天子常に歯を切す。彼の士大夫に親附し、賢を招き不肖を絀くるは、人主の柄なり。人臣は法を奉じ職を遵ふのみ、何ぞ士を招くに与らんや』と」と。驃騎も亦た此の意に放ふ、其の将たること此くのごとし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る