史記 / 扁鵲倉公列伝
臣意嘗診安陽武都里成開方,開方自言以為不病,臣意謂之病苦沓風,三歲四支不能自用,使人瘖,瘖即死。今聞其四支不能用,瘖而未死也。病得之數飲酒以見大風氣。所以知成開方病者,診之,其脈法奇咳言曰「藏氣相反者死」。切之,得腎反肺,法曰「三歲死」也。安陵阪裏公乘項處病,臣意診脈,曰:「牡疝。」牡疝在鬲下,上連肺。病得之內。臣意謂之:「慎毋為勞力事,為勞力事則必嘔血死。」處後蹴踘,要蹷寒,汗出多,即嘔血。臣意復診之,曰:「當旦日日夕死。」即死。病得之內。所以知項處病者,切其脈得番陽。番陽入虛裏,處旦日死。一番一絡者,牡疝也。臣意曰:他所診期決死生及所治已病眾多,久頗忘之,不能盡識,不敢以對。問臣意:「所診治病,病名多同而診異,或死或不死,何也?」對曰:「病名多相類,不可知,故古聖人為之脈法,以起度量,立規矩,縣權衡,案繩墨,調陰陽,別人之脈各名之,與天地相應,參合於人,故乃別百病以異之,有數者能異之,無數者同之。然脈法不可勝驗,診疾人以度異之,乃可別同名,命病主在所居。今臣意所診者,皆有診籍。
新字:臣意嘗診安陽武都里成開方,開方自言以為不病,臣意謂之病苦沓風,三歳四支不能自用,使人瘖,瘖即死。今聞其四支不能用,瘖而未死也。病得之数飲酒以見大風気。所以知成開方病者,診之,其脈法奇咳言曰「蔵気相反者死」。切之,得腎反肺,法曰「三歳死」也。安陵阪裏公乗項処病,臣意診脈,曰:「牡疝。」牡疝在鬲下,上連肺。病得之内。臣意謂之:「慎毋為労力事,為労力事則必嘔血死。」処後蹴踘,要蹷寒,汗出多,即嘔血。臣意復診之,曰:「当旦日日夕死。」即死。病得之内。所以知項処病者,切其脈得番陽。番陽入虚裏,処旦日死。一番一絡者,牡疝也。臣意曰:他所診期決死生及所治已病衆多,久頗忘之,不能尽識,不敢以対。問臣意:「所診治病,病名多同而診異,或死或不死,何也?」対曰:「病名多相類,不可知,故古聖人為之脈法,以起度量,立規矩,県権衡,案縄墨,調陰陽,別人之脈各名之,与天地相応,参合於人,故乃別百病以異之,有数者能異之,無数者同之。然脈法不可勝験,診疾人以度異之,乃可別同名,命病主在所居。今臣意所診者,皆有診籍。
書き下し
臣意嘗て安陽の武都里の成開方を診す。開方自ら言ひて以て病まずと為す。臣意之に謂ふ、病みて沓風に苦しみ、三歳にして四支自ら用ふる能はず、人をして瘖ならしむ。瘖なれば即ち死せんと。今其の四支用ふる能はず、瘖にして未だ死せざるを聞くなり。病は之を数々酒を飲みて以て大風の気に見ゆるに得たり。成開方の病を知る所以の者は、之を診するに、其の脈法奇咳に言ひて曰く、「蔵気相反する者は死す」と。之を切するに、腎の肺に反するを得たり。法に曰く、「三歳にして死す」と。安陵の阪里の公乗項処病む。臣意脈を診して曰く、「牡疝なり」と。牡疝は鬲の下に在りて、上は肺に連なる。病は之を内に得たり。臣意之に謂ふ、「慎みて労力の事を為す毋れ。労力の事を為せば則ち必ず血を嘔きて死せん」と。処後に蹴踘し、要蹷寒し、汗出づること多く、即ち血を嘔く。臣意復た之を診して曰く、「当に旦日の日夕に死すべし」と。即ち死す。病は之を内に得たり。項処の病を知る所以の者は、其の脈を切するに番陽を得たり。番陽虚里に入れば、処は旦日に死す。一たびは番し一たびは絡する者は、牡疝なり。臣意曰く、他の診する所の期もて死生を決し、及び治して病を已やす所の者衆多なり。久しくして頗る之を忘れ、尽くは識す能はず、敢へて以て対へず。臣意に問ふ、「診治する所の病、病名多く同じくして診異なり、或いは死し或いは死せざるは、何ぞや」と。対へて曰く、「病名多く相類し、知るべからず。故に古の聖人之が為に脈法を為り、以て度量を起こし、規矩を立て、権衡を県け、縄墨を案じ、陰陽を調へ、人の脈を別ちて各々之に名づけ、天地と相応じ、人に参合す。故に乃ち百病を別ちて以て之を異にす。数有る者は能く之を異にし、数無き者は之を同じくす。然れども脈法は験を勝ふべからず。疾人を診するに度を以て之を異にし、乃ち名を同じくするを別ち、病の主の居る所に在るを命くべし。今臣意の診する所の者は、皆診籍有り。
現代語訳
わたくしはかつて安陽の武都里の成開方を診察したことがある。開方は自分では病気ではないと言っていた。わたくしは彼に言った。あなたは沓風(風の邪が重なる病)に苦しんでおり、三年後には手足が自分で動かせなくなり、口もきけなくなる。口がきけなくなれば死ぬであろう、と。今、その手足が動かせず、口がきけなくなったが、まだ死んではいないと聞いている。この病は、しばしば酒を飲んでから強い風に当たったことで得たものである。成開方の病がわかった理由は、診察すると、脈法の奇咳の書に「臓の気が互いに逆らう者は死ぬ」とあり、脈を取ると腎の気が肺に逆らっていたからである。法には「三年で死ぬ」とある。安陵の阪里に住む公乗の項処が病気になった。わたくしは脈を診て言った。「牡疝である」。牡疝は横隔膜の下にあり、上は肺につながっている。この病は房事によって得たものであった。わたくしは項処に言った。「くれぐれも力仕事をしてはならない。力仕事をすれば必ず血を吐いて死ぬ」。項処はその後、蹴鞠(けまり)をして、腰が冷えて気が逆上し、汗を大量にかいて、血を吐いた。わたくしが再び診察して、「明日の夕方に死ぬであろう」と言うと、そのとおり死んだ。この病は房事によって得たものであった。項処の病がわかった理由は、脈を取ると番陽の脈を得たからである。番陽の脈が虚里(心臓の拍動部)に入れば、項処は翌日に死ぬ。一度は番陽となり一度は絡脈に現れるのが、牡疝である。わたくし意は申し上げる。このほかにも診察して死期を定め生死を見立てた例や、治療して病を治した例は非常に多いが、年月がたってかなり忘れてしまい、すべてを記憶しているわけではないので、あえてお答えしない。(詔は)わたくしに問うた。「診察し治療した病で、病名は同じものが多いのに診断が異なり、死ぬ者もいれば死なない者もいるのはなぜか」。わたくしは答えた。「病名は似通っているものが多く、(名だけでは)見分けられない。だから古の聖人はそのために脈法を作り、尺度を立て、規準を定め、はかりを掛け、墨縄を当て、陰陽を調え、人の脈を区別してそれぞれに名をつけ、天地と対応させ、人の体に照らし合わせた。こうして多くの病を区別して違いをつけたのである。医術の技に通じた者はこれを区別できるが、通じていない者は同じものと見てしまう。しかし脈法はすべてを効験で確かめきれるものではない。病人を診察するときは尺度によって区別し、そうして初めて同じ名の病を見分け、病の主がどこにあるかを名づけることができる。今、わたくしが診察した者には、すべて診籍(診療記録)がある。
解説
関連する章句
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史記 扁鵲倉公列伝之を別つ所以の者は、臣意の受くる所の師の方適々成りて、師死す。故を以て診する所を表籍し、期もて死生を決し、失ふ所得る所の者を観て脈法に合はす。故を以て今に至るまで之を知る」と。臣意に問ひて曰く、「期する所の病、死生を決して、或いは期に応ぜざるは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「此れ皆飲食喜怒節あらず、或いは当に薬を飲むべからざるに、或いは当に鍼灸すべからざるに、故を以て期に中らずして死するなり」と。臣意に問ふ、「意の方能く病の死生を知り、薬の用ふる所の宜しきを論ず。諸侯王大臣嘗て意に問ふ者有りや不や。文王の病む時に及びて、意に診治を求めざりしは、何の故ぞ」と。対へて曰く、「趙王・膠西王・済南王・呉王皆人をして来りて臣意を召さしむるも、臣意敢へて往かず。文王の病む時、臣意家貧しく、人の為に病を治せんと欲するも、誠に吏以て臣意を除拘せんことを恐る。故に名数を移し、左右して家生を修めず、出でて国中を行游し、善く方数を為す者を問ひて之に事ふること久し。事ふる数師に見え、悉く其の要事を受け、其の方書の意を尽くし、及び之を解論す。身は陽虚侯の国に居り、因りて侯に事ふ。侯入朝し、臣意之に従ひて長安に之く。故を以て安陵の項処等の病を診するを得たるなり」と。臣意に問ふ、「文王の病を得て起たざる所以の状を知るか」と。臣意対へて曰く、「文王の病を見ず。然れども竊かに文王喘を病み、頭痛み、目明らかならずと聞く。臣意心に之を論じ、以て病に非ずと為す。以為へらく、肥えて精を蓄へ、身体揺るぐを得ず、骨肉相任へず、故に喘す。当に医治すべからずと。脈法に曰く、『年二十にして脈気当に趨るべく、年三十にして当に疾歩すべく、年四十にして当に安坐すべく、年五十にして当に安臥すべく、年六十已上にして気当に大いに董むべし』と。文王年未だ二十に満たず、方に脈気の趨るべきに之を徐にす。天道四時に応ぜず。後に医之に灸して即ち篤しと聞く。此れ病を論ずるの過なり。
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史記 扁鵲倉公列伝脈法に曰く、「脈長くして弦、四時に代はるを得ざる者は、其の病は主として肝に在り。和すれば即ち経主として病み、代はれば則ち絡脈に過有り」と。経主として病みて和する者は、其の病は之を筋髄の裏に得たり。其の代絶して脈賁なる者は、病は之を酒と内とに得たり。其の後五日にして擁腫し、八日にして膿を嘔きて死するを知る所以の者は、其の脈を切する時、少陽初めて代はる。代はる者は経の病にして、病去りて人を過ぐれば、人則ち去る。絡脈主として病み、其の時に当たりて、少陽初めて関すること一分、故に中熱して膿未だ発せざるなり。五分に及べば、則ち少陽の界に至り、八日に及べば、則ち膿を嘔きて死す。故に上ること二分にして膿発し、界に至りて擁腫し、尽く泄れて死す。熱上れば則ち陽明を熏し、流絡を爛らす。流絡動けば則ち脈結発し、脈結発すれば則ち爛解す。故に絡交はる。熱気已に上行し、頭に至りて動く。故に頭痛す。斉王の中子の諸嬰児の小子病む。臣意を召して診して其の脈を切せしむ。告げて曰く、「気鬲の病なり。病人をして煩懣し、食下らず、時に沫を嘔かしむ。病は之を心憂に得、数々食飲を忔む」と。臣意即ち之が為に下気湯を作りて以て之に飲ましむ。一日にして気下り、二日にして能く食ひ、三日にして即ち病愈ゆ。小子の病を知る所以の者は、其の脈を診するに、心気なり。濁躁にして経なり。此れ絡陽の病なり。脈法に曰く、「脈来ること数疾にして去ること難く、一ならざる者は、病は主として心に在り」と。周身熱し、脈盛んなる者を、重陽と為す。重陽なる者は、心主を逿す。故に煩懣して食下らざれば則ち絡脈に過有り。絡脈に過有れば則ち血上り出づ。血上り出づる者は死す。此れ悲心の生ずる所なり。病は之を憂に得たり。斉の郎中令循病む。衆医皆以て蹷して中に入ると為し、之を刺す。臣意之を診して曰く、「湧疝なり。人をして前後に溲するを得ざらしむ」と。循曰く、「前後に溲するを得ざること三日なり」と。
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史記 扁鵲倉公列伝潘満如の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに深く小さく弱く、其の卒然として合合するなり。是れ脾気なり。右の脈口の気至ること緊小にして、瘕気を見るなり。次を以て相乗ず。故に三十日にして死す。三陰倶に摶つ者は、法の如し。倶には摶たざる者は、決は急期に在り。一たび摶ち一たび代はる者は、近し。故に其の三陰摶ち、血を溲すること前の如くして止む。陽虚侯の相趙章病み、臣意を召す。衆医皆以て寒中と為す。臣意其の脈を診して曰く、「迵風なり」と。迵風なる者は、飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらず。法に曰く、「五日にして死す」と。而るに後十日にして乃ち死す。病は之を酒に得たり。趙章の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに、脈来ること滑なり。是れ内風の気なり。飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらざる者は、法として五日にして死す。皆前の分界の法なり。後十日にして乃ち死し、期を過ぐる所以の者は、其の人粥を嗜む。故に中蔵実す。中蔵実す、故に期を過ぐ。師言ひて曰く、「穀に安んずる者は期を過ぎ、穀に安んぜざる者は期に及ばず」と。済北王病み、臣意を召して其の脈を診せしむ。曰く、「風蹶して胸満つ」と。即ち為に薬酒を為る。三石を尽くして、病已ゆ。之を汗出でて地に伏すに得たり。済北王の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切する時、風気なり、心脈濁る。病法に「過ぎて其の陽に入り、陽気尽きて陰気入る」と。陰気入りて張れば、則ち寒気上りて熱気下る。故に胸満つ。汗出でて地に伏す者は、其の脈を切するに、気陰なり。陰気なる者は、病必ず中に入り、出づること瀺水に及ぶなり。斉の北宮司空の命婦出於病む。衆医皆以て風中に入り、病は主として肺に在りと為し、其の足の少陽の脈を刺す。臣意其の脈を診して曰く、「病は気疝にして、膀胱に客たり。前後に溲するに難くして、溺赤し。病寒気を見れば則ち遺溺し、人をして腹腫れしむ」と。出於の病は之を溺せんと欲して得ず、因りて以て接内するに得たり。
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史記 扁鵲倉公列伝臣意の薄吾の病を知る所以の者は、其の脈を切し、其の尺を循づるに、其の尺索刺麤にして、毛美にして奉発す。是れ虫気なり。其の色沢ある者は、中蔵に邪気の重病無し。斉の淳于司馬病む。臣意其の脈を切し、告げて曰く、「当に迵風を病むべし。迵風の状は、飲食嗌を下りて輒ち之を後にす。病は之を飽食して疾走するに得たり」と。淳于司馬曰く、「我王の家に之きて馬肝を食ひ、食飽くこと甚だし。酒の来るを見て、即ち走り去り、駆けて疾く舎に至り、即ち泄らすこと数十出なり」と。臣意告げて曰く、「火斉の米汁を為りて之を飲めば、七八日にして当に愈ゆべし」と。時に医秦信旁に在り。臣意去る。信左右の閣都尉に謂ひて曰く、「意は淳于司馬の病を以て何と為す」と。曰く、「以て迵風と為し、治すべしとす」と。信即ち笑ひて曰く、「是れ知らざるなり。淳于司馬の病は、法として当に後九日にして死すべし」と。即ち後九日にして死せず。其の家復た臣意を召す。臣意往きて之に問ふに、尽く意の診の如し。臣即ち為に一たび火斉の米汁を為り、之を服せしむ。七八日にして病已ゆ。之を知る所以の者は、其の脈を診する時、之を切するに、尽く法の如し。其の病順なり。故に死せず。斉の中郎破石病む。臣意其の脈を診し、告げて曰く、「肺傷る。治せず。当に後十日の丁亥に血を溲して死すべし」と。即ち後十一日、血を溲して死す。破石の病は、之を馬より墮ちて石上に僵るるに得たり。破石の病を知る所以の者は、其の脈を切するに、肺陰の気を得たり。其の来ること散じ、数道至りて一ならざるなり。色又之に乗ず。其の馬より墮つるを知る所以の者は、之を切するに番陰の脈を得たり。番陰の脈は虚里に入り、肺脈に乗ず。肺脈散ずる者は、固より色変じて乗ずるなり。期に中らずして死する所以の者は、師言ひて曰く、「病者穀に安んずれば即ち期を過ぎ、穀に安んぜざれば則ち期に及ばず」と。其の人黍を嗜む。黍は肺を主る。故に期を過ぐ。血を溲する所以の者は、診脈法に曰く、「病みて養ふに陰処を喜む者は順死し、養ふに陽処を喜む者は逆死す」と。
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史記 扁鵲倉公列伝意家居す。詔して召して、為に病を治して死生の験ある所の者幾何人なるか、主名は誰と為すかを問ふ。故の太倉長臣意に詔問す、「方伎の長ずる所、及び能く治する所の病は。其の書有りや無しや。皆安くにか学を受けたる。学を受くること幾何歳ぞ。嘗て験ある所有らば、何れの県里の人ぞ。何の病ぞ。医薬已みて、其の病の状は皆何如。具に悉くして対へよ」と。臣意対へて曰く、意少き時より、医薬を喜む。医薬の方之を試みるに験あらざる者多し。高后八年に至り、師臨菑元里の公乗陽慶に見ゆるを得たり。慶年七十余、意見えて之に事ふるを得たり。意に謂ひて曰く、「尽く而の方書を去れ。是に非ざるなり。慶に古先の道の遺伝せる黄帝・扁鵲の脈書有り。五色もて病を診し、人の生死を知り、嫌疑を決し、治すべきを定め、及び薬論の書あり、甚だ精し。我が家は給富なり。心に公を愛す。尽く我が禁方の書を以て悉く公に教へんと欲す」と。臣意即ち曰く、「幸甚なり。意の敢へて望む所に非ざるなり」と。臣意即ち席を避けて再拝して謁し、其の脈書上下経・五色診・奇咳術・揆度陰陽外変・薬論・石神・接陰陽禁書を受け、受読して之を解験すること、一年所可りなり。明歳即ち之を験するに、験有り。然れども尚ほ未だ精しからざるなり。要ず之に事ふること三年所、即ち嘗て已に人の為に治し、病を診し死生を決するに、験有りて、精良なり。今慶已に死すること十年所、臣意年尽三年、年三十九歳なり。斉の侍御史成、自ら頭痛を病むと言ふ。臣意其の脈を診し、告げて曰く、「君の病は悪し。言ふべからざるなり」と。即ち出でて、独り成の弟昌に告げて曰く、「此の病は疽なり。内は腸胃の間に発す。後五日にして当に擁腫すべし。後八日にして膿を嘔きて死せん」と。成の病は之を酒を飲みて且つ内するに得たり。成即ち期の如く死す。成の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切して、肝気を得たり。肝気濁りて静かなり。此れ内関の病なり。
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史記 扁鵲倉公列伝出於の病を知る所以の者は、其の脈を切するに大にして実、其の来ること難し。是れ蹶陰の動なり。脈来ること難き者は、疝気の膀胱に客たるなり。腹の腫るる所以の者は、蹶陰の絡の小肮に結ぶを言ふなり。蹶陰に過有れば則ち脈結びて動き、動けば則ち腹腫る。臣意即ち其の足の蹶陰の脈に灸すること、左右各々一所、即ち遺溺せずして溲清み、小肮の痛止む。即ち更に火斉湯を為りて以て之に飲ましむ。三日にして疝気散じ、即ち愈ゆ。故の済北王の阿母自ら足熱して懣ゆと言ふ。臣意告げて曰く、「熱蹶なり」と。則ち其の足心を刺すこと各々三所、之を案じて血を出だすこと無く、病旋ち已ゆ。病は之を酒を飲みて大いに酔ふに得たり。済北王臣意を召して諸々の女子侍者の脈を診せしむ。女子豎に至る。豎は病無し。臣意永巷の長に告げて曰く、「豎は脾を傷る。労すべからず。法として当に春に血を嘔きて死すべし」と。臣意王に言ひて曰く、「才人の女子豎は何をか能くする」と。王曰く、「是れ好んで方を為し、伎能多く、為す所は是れ法を案じて新たなり。往年之を民の所に市ひ、四百七十万、曹偶四人なり」と。王曰く、「病有ること毋きを得んや」と。臣意対へて曰く、「豎の病重く、死法の中に在り」と。王召して之を視るに、其の顔色変ぜず。以て然らずと為し、諸侯の所に売らず。春に至り、豎剣を奉じて王に従ひて廁に之く。王去るも、豎後る。王人をして之を召さしむるに、即ち廁に仆れ、血を嘔きて死す。病は之を流汗に得たり。流汗なる者は、法として病内に重く、毛髪にして色沢あり、脈衰へず。此れ亦内関の病なり。斉の中大夫齲歯を病む。臣意其の左の大陽明の脈に灸し、即ち苦参湯を為りて、日に三升を嗽がしむ。出入五六日にして、病已ゆ。之を風に得、及び臥して口を開き、食ひて嗽がざるに得たり。菑川王の美人子を懐きて乳せず。来りて臣意を召す。臣意往きて、飲ましむるに莨碭の薬一撮を以てし、酒を以て之を飲ましむ。旋ち乳す。臣意復た其の脈を診するに、脈躁なり。
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