史記 / 万石張叔列伝
不疑卒,子相如代。孫望,坐酎金失侯。郎中令周文者,名仁,其先故任城人也。以醫見。景帝爲太子時,拜爲舍人,積功稍遷,孝文帝時至太中大夫。景帝初即位,拜仁爲郎中令。仁爲人陰重不泄,常衣敝補衣溺袴,期爲不絜淸,以是得幸。景帝入臥内,於後宮祕戲,仁常在旁。至景帝崩,仁尚爲郎中令,終無所言。上時問人,仁曰:「上自察之。」然亦無所毀。以此景帝再自幸其家。家徙陽陵。上所賜甚多,然常讓,不敢受也。諸侯群臣賂遺,終無所受。武帝立,以爲先帝臣,重之。仁乃病免,以二千石祿歸老,子孫咸至大官矣。
新字:不疑卒,子相如代。孫望,坐酎金失侯。郎中令周文者,名仁,其先故任城人也。以医見。景帝為太子時,拝為舎人,積功稍遷,孝文帝時至太中大夫。景帝初即位,拝仁為郎中令。仁為人陰重不泄,常衣敝補衣溺袴,期為不絜清,以是得幸。景帝入臥内,於後宮秘戯,仁常在旁。至景帝崩,仁尚為郎中令,終無所言。上時問人,仁曰:「上自察之。」然亦無所毀。以此景帝再自幸其家。家徙陽陵。上所賜甚多,然常譲,不敢受也。諸侯群臣賂遺,終無所受。武帝立,以為先帝臣,重之。仁乃病免,以二千石禄帰老,子孫咸至大官矣。
書き下し
不疑卒し、子相如代はる。孫望、酎金に坐して侯を失ふ。郎中令周文は、名は仁、其の先は故の任城の人なり。医を以て見ゆ。景帝太子為りし時、拝して舎人と為し、功を積みて稍く遷り、孝文帝の時太中大夫に至る。景帝初めて即位し、仁を拝して郎中令と為す。仁の人と為りは陰重にして泄らさず、常に敝れ補へる衣と溺袴とを衣、期して不潔清を為し、是を以て幸せらる。景帝臥内に入り、後宮に於て秘戯するに、仁常に旁に在り。景帝崩ずるに至るまで、仁尚ほ郎中令為るも、終に言ふ所無し。上時に人を問へば、仁曰く、「上自ら之を察せよ」と。然れども亦毀る所無し。此を以て景帝再び自ら其の家に幸す。家は陽陵に徙る。上の賜ふ所甚だ多きも、然れども常に譲りて、敢へて受けざるなり。諸侯群臣の賂遺、終に受くる所無し。武帝立ち、先帝の臣なるを以て、之を重んず。仁乃ち病みて免ぜられ、二千石の禄を以て老を帰す。子孫咸大官に至る。
現代語訳
不疑が亡くなると、子の相如が跡を継いだ。孫の望は酎金(宗廟祭祀の献金)の不備に問われて侯位を失った。郎中令の周文は、名を仁といい、祖先はかつての任城の人である。医術によって謁見を得た。景帝が皇太子だった時、舎人(側近の家臣)に任じられ、功を積んで次第に昇進し、孝文帝の時代に太中大夫に至った。景帝が即位すると、仁を郎中令に任じた。仁の人柄は奥深く口が堅くて秘密を漏らさず、いつも破れて継ぎはぎのある衣と小便で汚れた袴を身につけ、わざと清潔でないふうを装っており、それで寵愛された。景帝が寝所に入り後宮で密かな戯れをするときも、仁はいつもそばにいた。景帝が崩御するまで、仁はずっと郎中令であったが、最後まで何も口外しなかった。景帝が時に人物について尋ねると、仁は「陛下ご自身でお確かめください」と答えた。しかし誰かをけなすこともなかった。こうしたことから景帝は二度も自ら仁の家に行幸した。仁の家は陽陵に移った。景帝からの下賜品は非常に多かったが、いつも辞退して受け取ろうとしなかった。諸侯や群臣からの贈り物も、ついに一切受け取らなかった。武帝が即位すると、先帝の臣であるとして仁を重んじた。仁はやがて病気のため職を辞し、二千石の俸禄を受けたまま引退した。子や孫は皆高官に至った。
解説
関連する章句
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史記 万石張叔列伝其の官は孝文の時に至り、功労を積みて大中大夫に至る。文学無きも、恭謹なること与に比ぶる無し。文帝の時、東陽侯張相如太子太傅と為り、免ぜらる。傅と為るべき者を選ぶに、皆奮を推し、奮太子太傅と為る。孝景即位するに及び、以て九卿と為す。迫近して之を憚り、奮を徙して諸侯の相と為す。奮の長子は建、次子は甲、次子は乙、次子は慶、皆馴行孝謹を以て、官皆二千石に至る。是に於て景帝曰く、「石君及び四子皆二千石、人臣の尊寵乃ち其の門に集まる」と。奮を号して万石君と為す。孝景帝の季年、万石君は上大夫の禄を以て老を家に帰し、歳時を以て朝臣と為る。宮門の闕を過ぐれば、万石君必ず車を下りて趨り、路馬を見れば必ず式す。子孫小吏と為り、来り帰りて謁すれば、万石君必ず朝服して之に見え、名いはず。子孫過失有れば、譙譲せず、便坐を為し、案に対して食はず。然る後に諸子相責め、長老に因りて肉袒して固く罪を謝し、之を改むれば、乃ち許す。子孫の冠に勝ふる者側に在れば、燕居と雖も必ず冠し、申申如たり。僮僕も訢訢如として、唯謹む。上時に食を家に賜へば、必ず稽首俯伏して之を食ふこと、上の前に在るが如し。其の喪を執るや、哀戚甚だ悼む。子孫教へに遵ひ、亦之の如くす。万石君の家は孝謹を以て郡国に聞こえ、斉魯の諸儒の質行と雖も、皆自ら以て及ばずと為す。建元二年、郎中令王臧文学を以て罪を獲。皇太后以為へらく、儒者は文多く質少なし、今万石君の家は言はずして躬ら行ふと。乃ち長子建を以て郎中令と為し、少子慶を内史と為す。
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史記 万石張叔列伝塞侯直不疑は、南陽の人なり。郎と為り、文帝に事ふ。其の同舎に告帰する有り、誤りて同舎の郎の金を持ちて去る。已にして金の主覚り、妄りに不疑を意ふ。不疑謝して之有りとし、金を買ひて償ふ。而して告帰する者来りて金を帰す。而して前の郎の金を亡ひし者大いに慚づ。此を以て称して長者と為す。文帝称挙し、稍く遷りて太中大夫に至る。朝廷に見ゆるに、人或いは毀りて曰く、「不疑は状貌甚だ美なり。然れども独り其の善く嫂を盗むを奈んともする無きなり」と。不疑聞きて、曰く、「我乃ち兄無し」と。然れども終に自ら明らかにせざるなり。呉楚反する時、不疑二千石を以て兵を将ゐて之を撃つ。景帝の後元年、拝して御史大夫と為す。天子呉楚の時の功を修め、乃ち不疑を封じて塞侯と為す。武帝の建元年中、丞相綰と倶に過を以て免ぜらる。不疑は老子の言を学ぶ。其の臨む所、官を為すこと故の如く、唯人の其の吏たりし跡を知らんことを恐るるなり。名称を立つるを好まず、称して長者と為す。
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史記 万石張叔列伝建老いて白首なるも、万石君尚ほ恙無し。建郎中令と為り、五日毎に洗沐して帰りて親に謁し、子舎に入り、竊かに侍者に問ひ、親の中帬廁牏を取りて、身自ら浣滌し、復た侍者に与へ、敢へて万石君をして知らしめず、以て常と為す。建郎中令と為り、事の言ふべき有れば、人を屏けて恣に言ひ、極めて切なり。廷見するに至りては、言ふ能はざる者の如し。是を以て上乃ち親しく之を尊礼す。
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史記 万石張叔列伝三歳にして、軍功を以て、孝景前六年中に綰を封じて建陵侯と為す。其の明年、上太子を廃し、栗卿の属を誅す。上以為へらく、綰は長者なりと。忍びず、乃ち綰に告帰を賜ひ、而して郅都をして栗氏を治捕せしむ。既已にして、上膠東王を立てて太子と為し、綰を召して、拝して太子太傅と為す。之を久しくして、遷りて御史大夫と為る。五歳にして、桃侯舎に代はりて丞相と為り、朝に事を奏すること職の奏する所の如し。然れども初めて官たりしより以て丞相に至るまで、終に言ふべき無し。天子以て敦厚にして、少主に相たるべしと為し、之を尊寵し、賞賜甚だ多し。丞相と為ること三歳にして、景帝崩じ、武帝立つ。建元年中、丞相景帝の疾の時の諸官の囚多く不辜に坐する者あるを以て、而して君職に任へずとし、之を免ず。其の後綰卒し、子信代はる。酎金に坐して侯を失ふ。
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史記 万石張叔列伝御史大夫張叔は、名は欧、安丘侯説の庶子なり。孝文の時、刑名を治むるを以て太子に言事す。然れども欧は刑名家を治むと雖も、其の人は長者なり。景帝の時尊重せられ、常に九卿為り。武帝の元朔四年に至り、韓安国免ぜられ、詔して欧を拝して御史大夫と為す。欧の吏と為りしより、未だ嘗て人を案ずるを言はず、専ら誠長者を以て官に処る。官属以て長者と為し、亦敢へて大いに欺かず。上獄事を具ふるに、卻くべき有れば、之を卻け、不可なる者は、已むを得ず、為に涕泣し面対して之を封ず。其の人を愛すること此の如し。老いて病篤く、免ぜられんことを請ふ。是に於て天子も亦策して罷め、上大夫の禄を以て老を家に帰す。陽陵に家す。子孫咸大官に至る。太史公曰く、仲尼言へる有りて曰く、「君子は言に訥にして行ひに敏ならんと欲す」と。其れ万石・建陵・張叔の謂か。是を以て其の教へ粛ならずして成り、厳ならずして治まる。塞侯は微巧にして、周文は讇に処りて君子之を譏る。其の佞に近きが為なり。然れども斯れ篤行の君子と謂ふべし。
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史記 傅靳蒯成列伝孝文の五年に至り、緤寿を以て終はり、謚して貞侯と為す。子昌代はりて侯たり、罪有りて、国除かる。孝景の中二年に至り、緤の子居を封じて侯に代ふ。元鼎三年に至り、居太常と為り、罪有りて、国除かる。
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