史記 / 季布欒布列伝
欒布者,梁人也。始梁王彭越爲家人時,嘗與布游。窮困,賃傭於齊,爲酒人保。數歳,彭越去之巨野中爲盜,而布爲人所略賣,爲奴於燕。爲其家主報仇,燕將臧荼舉以爲都尉。臧荼後爲燕王,以布爲將。及臧荼反,漢撃燕,虜布。梁王彭越聞之,乃言上,請贖布以爲梁大夫。
新字:欒布者,梁人也。始梁王彭越為家人時,嘗与布游。窮困,賃傭於斉,為酒人保。数歳,彭越去之巨野中為盗,而布為人所略売,為奴於燕。為其家主報仇,燕将臧荼舉以為都尉。臧荼後為燕王,以布為将。及臧荼反,漢撃燕,虜布。梁王彭越聞之,乃言上,請贖布以為梁大夫。
書き下し
欒布は、梁の人なり。始め梁王彭越家人為りし時、嘗て布と游ぶ。窮困し、斉に賃傭し、酒人の保と為る。数歳、彭越去りて巨野の中に之きて盗と為り、而して布人の略売する所と為り、燕に奴と為る。其の家主の為に仇を報じ、燕の将臧荼挙げて以て都尉と為す。臧荼後に燕王と為り、布を以て将と為す。臧荼反するに及び、漢燕を撃ち、布を虜にす。梁王彭越之を聞き、乃ち上に言ひ、布を贖ひて以て梁の大夫と為さんと請ふ。
現代語訳
欒布(らんふ)は梁の人である。はじめ梁王彭越(ほうえつ)がまだ庶民だったころ、欒布と付き合いがあった。貧しさに困り、斉で雇われ人となり、酒屋の使用人をしていた。数年後、彭越は去って巨野の沢に入り盗賊となり、欒布は人にかどわかされて売られ、燕で奴隷となった。主家のために仇を討ったので、燕の将臧荼(ぞうと)が取り立てて都尉とした。臧荼は後に燕王となり、欒布を将軍とした。臧荼が謀反すると、漢は燕を攻め、欒布を捕虜にした。梁王彭越はこれを聞くと、高祖に申し上げ、欒布の罪を金で贖って梁の大夫にしたいと願い出た。
解説
関連する章句
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史記 季布欒布列伝斉に使ひし、未だ還らざるに、漢彭越を召し、責むるに謀反を以てし、三族を夷す。已にして彭越の頭を雒陽の下に梟し、詔して曰く「敢へて収め視る者有らば、輒ち之を捕へよ」と。布斉より還り、事を彭越の頭の下に奏し、祠りて之を哭す。吏布を捕へて以聞す。上布を召し、罵りて曰く「若彭越と反するか。吾人を禁じて収むる勿からしむるに、若独り祠りて之を哭す、越と反すること明らかなり。趣やかに之を亨よ」と。方に提げて湯に趣くに、布顧みて曰く「願はくは一言して死せん」と。上曰く「何をか言はん」と。布曰く「方に上の彭城に困しみ、滎陽・成皋の間に敗るるに、項王の遂に西する能はざる所以は、徒だ彭王梁の地に居り、漢と合従して楚を苦しむるを以てなり。是の時に当たり、彭王一たび顧みて、楚に与せば則ち漢破れ、漢に与せば楚破れん。且つ垓下の会、彭王微かりせば、項氏亡びず。天下已に定まり、彭王符を剖き封を受く、亦た之を万世に伝へんと欲す。今陛下一たび兵を梁に徴し、彭王病みて行かず、而るに陛下疑ひて以て反と為す、反の形未だ見えざるに、苛小の案を以て之を誅滅す、臣恐らくは功臣人人自ら危ぶまん。今彭王已に死す、臣生くるは死するに如かず、請ふ亨に就かん」と。是に於て上乃ち布の罪を釈し、拝して都尉と為す。孝文の時、燕の相と為り、将軍に至る。布乃ち称して曰く「窮困して身を辱め志を下す能はざるは、人に非ず。富貴にして意を快くする能はざるは、賢に非ず」と。是に於て嘗て徳有る者には厚く之に報い、怨み有る者には必ず法を以て之を滅す。呉・楚反せし時、軍功を以て兪侯に封ぜられ、復た燕の相と為る。燕・斉の間皆欒布の為に社を立て、欒公社と号す。景帝中五年薨ず。子賁嗣ぎ、太常と為り、犠牲令の如くならず、国除かる。太史公曰く、項羽の気を以てして、季布勇を以て楚に顕はれ、身ら軍を屨みて旗を搴ること数々なり、壮士と謂ふべし。然れども刑戮を被り、人の奴と為りて死せざるに至るは、何ぞ其の下れるや。
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史記 季布欒布列伝季布は、楚の人なり。気を為し任侠たり、楚に名有り。項籍兵を将ゐしめ、数々漢王を窘む。項羽滅ぶるに及び、高祖布を千金に購求し、敢へて舎匿する有らば、罪三族に及ぶとす。季布濮陽の周氏に匿る。周氏曰く「漢将軍を購ふこと急なり、跡且に臣の家に至らんとす、将軍能く臣に聴かば、臣敢へて計を献ぜん。即し能はずんば、願はくは先づ自剄せん」と。季布之を許す。乃ち季布を髡鉗し、褐衣を衣せ、広柳車の中に置き、并びに其の家僮数十人と、魯の朱家の所に之きて之を売る。朱家心に是れ季布なるを知り、乃ち買ひて之を田に置く。其の子を誡めて曰く「田事は此の奴に聴け、必ず与に食を同じくせよ」と。朱家乃ち軺車に乗りて洛陽に之き、汝陰侯滕公に見ゆ。滕公朱家を留めて飲むこと数日。因りて滕公に謂ひて曰く「季布何の大罪ありて、上之を求むること急なるや」と。滕公曰く「布数々項羽の為に上を窘む、上之を怨む、故に必ず之を得んと欲す」と。朱家曰く「君季布を視ること何如なる人ぞ」と。曰く「賢者なり」と。朱家曰く「臣は各々其の主の為に用ひらる、季布の項籍の為に用ひらるるは、職のみ。項氏の臣尽く誅すべけんや。今上始めて天下を得て、独り己の私怨を以て一人を求む、何ぞ天下に広からざるを示すや。且つ季布の賢を以てして漢之を求むること此くの如く急なれば、此れ北のかた胡に走らずんば即ち南のかた越に走らんのみ。夫れ壮士を忌みて以て敵国に資するは、此れ伍子胥の荊の平王の墓に鞭うちし所以なり。君何ぞ従容として上の為に言はざるや」と。汝陰侯滕公心に朱家の大侠なるを知り、季布其の所に匿るると意ひ、乃ち許して曰く「諾」と。間を待ちて、果たして朱家の指の如く言ふ。上乃ち季布を赦す。是の時に当たり、諸公皆季布の能く剛を摧きて柔と為すを多とし、
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史記 季布欒布列伝彼必ず自ら其の材を負み、故に辱めを受けて羞ぢず、其の未だ足らざる所を用ふる有らんと欲するなり、故に終に漢の名将と為る。賢者は誠に其の死を重んず。夫れ婢妾賤人の感慨して自殺する者は、能く勇なるに非ず、其の計画復た之く無きのみ。欒布の彭越を哭し、湯に趣くこと帰するが如き者は、彼誠に処る所を知り、自ら其の死を重んぜず。往古の烈士と雖も、何を以て加へんや。
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史記 季布欒布列伝朱家も亦た此を以て名当世に聞こゆ。季布召されて見え、謝し、上拝して郎中と為す。孝恵の時、
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史記 季布欒布列伝季布河東の守と為る、孝文の時、人其の賢を言ふ者有り、孝文召し、以て御史大夫と為さんと欲す。復た其の勇にして、酒を使ひて近づき難きを言ふ有り。至り、邸に留まること一月、見えて罷めらる。季布因りて進みて曰く「臣功無くして竊かに寵せられ、罪を河東に待つ。陛下故無くして臣を召す、此れ人必ず臣を以て陛下を欺く者有らん。今臣至るに、事を受くる所無くして、罷め去らしむ、此れ人必ず以て臣を毀る者有らん。夫れ陛下一人の誉を以て臣を召し、一人の毀を以て臣を去らしむ、臣恐らくは天下の識有る者之を聞き以て陛下を闚ふ有らん」と。上黙然として慚ぢ、良久しくして曰く「河東は吾が股肱の郡なり、故に特に君を召せしのみ」と。布辞して官に之く。
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史記 魏豹彭越列伝彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。六年、陳に朝す。九年・十年、皆来たりて長安に朝す。十年秋、陳豨代の地に反す。高帝自ら往きて撃ち、邯鄲に至り、兵を梁王に徴す。梁王病と称し、将をして兵を将ゐて邯鄲に詣らしむ。高帝怒り、人をして梁王を譲めしむ。梁王恐れ、自ら往きて謝せんと欲す。其の将扈輒曰く、「王始め往かず、譲められて往かば、往けば則ち禽と為らん。遂に兵を発して反するに如かず」と。梁王聴かず、病と称す。梁王其の太僕を怒り、之を斬らんと欲す。太僕亡げて漢に走り、梁王と扈輒と反を謀ると告ぐ。是に於て上使をして梁王を掩はしむ。梁王覚らず、梁王を捕へ、之を雒陽に囚ふ。有司治めて反形己に具はるとし、論ずること法の如くせんと請ふ。上赦して以て庶人と為し、伝へて蜀の青衣に処らしむ。西のかた鄭に至り、呂后の長安より来たりて雒陽に之かんと欲するに逢ふ。道に彭王を見る。彭王呂后の為に泣涕し、自ら罪無きを言ひ、故の昌邑に処らんことを願ふ。呂后許諾し、与に倶に東して雒陽に至る。呂后上に白して曰く、「彭王は壮士なり。今之を蜀に徙すは、此れ自ら患ひを遺すなり。遂に之を誅するに如かず。妾謹んで与に倶に来たれり」と。是に於て呂后乃ち其の舎人をして彭越の復た反を謀ると告げしむ。廷尉王恬開、之を族せんことを奏請す。上乃ち可とし、遂に越の宗族を夷し、国除かる。
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