長短経 / 覇図
髙祖在位十二年、崩、年六十二。恵帝立、吕后臨政。〔吕后時、陳平燕居深念。陸生曰、「何念之深也?」平曰、「生揣吾何念?」陸生曰、「足下位為上相、食三萬户侯、可謂極富貴無欲矣。然有憂念、不過患諸吕、少主耳。」平曰、「然。為之奈何?」陸生曰、「天下安、注意於相、天下危、注意於將將相和、則士豫附、士豫附、天下雖有變、則權不分、權不分、則社稷計在兩君掌握耳。何不交歡太尉、深相交結?」平用其計、竟誅諸吕。初、吕后之崩也、大臣誅諸吕。吕禄為將北軍、太尉勃不得入北軍。時酈商子寄與吕禄善。於是乃使人刼酈商、其子紿吕禄信之、故與出遊、而太尉乃得入北軍誅吕氏也。〕
新字:高祖在位十二年、崩、年六十二。恵帝立、呂后臨政。〔呂后時、陳平燕居深念。陸生曰、「何念之深也?」平曰、「生揣吾何念?」陸生曰、「足下位為上相、食三万戸侯、可謂極富貴無欲矣。然有憂念、不過患諸呂、少主耳。」平曰、「然。為之奈何?」陸生曰、「天下安、注意於相、天下危、注意於将将相和、則士予附、士予附、天下雖有変、則権不分、権不分、則社稷計在両君掌握耳。何不交歓太尉、深相交結?」平用其計、竟誅諸呂。初、呂后之崩也、大臣誅諸呂。呂禄為将北軍、太尉勃不得入北軍。時酈商子寄与呂禄善。於是乃使人劫酈商、其子紿呂禄信之、故与出遊、而太尉乃得入北軍誅呂氏也。〕
書き下し
高祖、位に在ること十二年、崩ず。年六十二。恵帝立ち、呂后政に臨む。〈呂后の時、陳平、燕居して深く念う。陸生曰く「何ぞ念うことの深きや」と。平曰く「生、吾が何を念うかを揣らんか」と。陸生曰く「足下、位は上相と為り、三万戸侯を食む。極富貴にして欲無しと謂う可し。然れども憂念有るは、諸呂・少主を患うるに過ぎざるのみ」と。平曰く「然り。之を為すこと奈何」と。陸生曰く「天下安ければ、意を相に注ぎ、天下危うければ、意を将に注ぐ。将相和すれば、則ち士は予め附き、士予め附けば、天下に変有りと雖も、則ち権は分かれず。権分かれざれば、則ち社稷の計は両君の掌握に在るのみ。何ぞ太尉と交歓して、深く相い交結せざる」と。平、其の計を用い、竟に諸呂を誅す。初め、呂后の崩ずるや、大臣、諸呂を誅す。呂禄、将と為りて北軍たり。太尉勃、北軍に入るを得ず。時に酈商の子寄、呂禄と善し。是に於て乃ち人をして酈商を刼かさしめ、其の子、呂禄を紿きて之を信ぜしめ、故に与に出遊す。而して太尉、乃ち北軍に入りて呂氏を誅するを得たるなり。〉
現代語訳
高祖は在位十二年で崩じた。享年六十二。恵帝が立ち、呂后が政を執った。〈呂后のとき、陳平は家に引きこもって深く考え込んでいた。陸賈が言った。「どうしてそんなに考え込んでいるのか」。陳平は言った。「あなたは私が何を考えているか当てられるか」。陸賈は言った。「あなたは位は宰相、三万戸の俸禄を食む。この上ない富貴で望むものはないと言ってよい。それでも憂えているのは、呂氏一族と幼い主君のことに過ぎない」。陳平は言った。「そのとおりだ。どうすればよいか」。陸賈は言った。「天下が安らかなら宰相に注意が集まり、天下が危うければ将軍に注意が集まる。将と相が和合すれば士はあらかじめ従い、士が従えば天下に変事があっても権が分かれない。権が分かれなければ、国家の計はお二人の掌中にある。どうして太尉と親しく交わり、深く結ばないのか」。陳平はその計を用い、ついに呂氏一族を誅した。はじめ、呂后が崩じたとき、大臣たちは呂氏を誅した。呂禄は将として北軍を握っていた。太尉周勃は北軍に入れなかった。当時、酈商の子の酈寄が呂禄と親しかった。そこで人をやって酈商を脅し、その子が呂禄を騙して信じ込ませ、一緒に出遊した。それで太尉は北軍に入り、呂氏を誅することができた。〉
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
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『墨子』七患故に食に備粟無ければ、以て凶饑を待つ可からず。庫に備兵無ければ、義有りと雖も、無義を征する能わず。城郭、備え全からざれば、以て自ら守る可からず。心に備慮無ければ、以て卒に應ずる可からず。是の故に慶忌は之を去るの心無くんば、輕々しく出づる能わず。夫れ桀に湯を待つの備無し、故に放たる。紂に武王を待つの備無し、故に殺さる。桀紂は貴きこと天子と為り、富は天下を有つ。然れども皆な百里の君に滅亡せらるるは、何ぞや。富貴有りて備えを為さざればなり。故に備えなる者は、國の重んずる所なり。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを惡んで不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下きに居るがごときなり。如し之を惡まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、國家閒暇なりとせん。是の時に及びて其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之を畏れん。詩に云う、『天の未だ陰雨せざるに迨(およぶ)んで、彼の桑土を徹(とる)り、牖(ユウ)戶を綢繆す。今此の下民、敢て予を侮どること或らんや。』孔子曰く、『此の詩を為りし者は、其れ道を知れるか。』能く其の國家を治めば、誰か敢て之を侮らん。今國家閒暇なりとせん。是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍ᐻは己自り之を求めざる者無し。詩に云う『永く言、命を配し、自ら多ᐻを求む。』太甲に曰く、『天の作せる孼は猶ほ違く可し。自ら作せる孼は活く可からず。』此を之れ謂うなり。」
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尚書・說命中惟れ事を事とするに、乃ち其れ備え有り、備え有れば患い無し。
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葉隠・聞書第一覺りの士というのは、事に逢って仕(し)たるように、前方に、それぞれの仕様(しよう)を吟味し置いて、その時に出合い、仕果(しはた)す者である。不覺の士というのは、その時に至って前方に穿鑿せぬのは、不覺の士と申す。
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『墨子』公孟子墨子、公孟子に謂いて曰く、「喪禮は、君と父母と妻と後子と死すれば、三年の喪服、伯父・叔父・兄弟は期、族人は五月、姑・姊・甥は皆な數月の喪有り。或いは喪せざるの間を以て、詩三百を誦し、詩三百を歌い、詩三百を舞う。若し子の言を用いば、則ち君子は何れの日を以て聴治せん。庶人は何れの日を以て事に従わん」と。公孟子曰く、「國亂るれば則ち之を治め、治まれば則ち禮樂を為す。國治まれば則ち事に従い、國富めば則ち禮樂を為す」と。子墨子曰く、「國の治まるは、之を治むればなり。治むること廢すれば、則ち國の治まるも亦た廢す。國の富むや、事に従えばなり。事に従うこと廢すれば、則ち國の富むも亦た廢す。故に國を治むと雖も、之を勸めて饜くこと無く、然る後に可なり。今、子曰く、『國治まれば則ち禮樂を為し、亂るれば則ち之を治む』と。是れ譬うれば猶お噎して井を穿ち、死して醫を求むるがごときなり。古者、三代の暴王、桀・紂・幽・厲は、薾に聲樂を為して、其の民を顧みず。是を以て身は刑僇と為り、國は戾虚と為る者は、皆な此の道に従えばなり」と。