史記 / 韓信盧綰列伝
今反為寇將兵,與將軍爭一旦之命,此三罪也。夫種、蠡無一罪,身死亡;今仆有三罪於陛下,而欲求活於世,此伍子胥所以僨於吳也。今仆亡匿山谷閒,旦暮乞貸蠻夷,仆之思歸,如痿人不忘起,盲者不忘視也,勢不可耳。」遂戰。柴將軍屠參合,斬韓王信。信之入匈奴,與太子俱;及至穨當城,生子,因名曰穨當。韓太子亦生子,命曰嬰。至孝文十四年,穨當及嬰率其眾降漢。漢封穨當為弓高侯,嬰為襄城侯。吳楚軍時,弓高侯功冠諸將。傳子至孫,孫無子,失侯。嬰孫以不敬失侯。穨當孽孫韓嫣,貴幸,名富顯於當世。其弟說,再封,數稱將軍,卒為案道侯。子代,歲餘坐法死。後歲餘,說孫曾拜為龍頟侯,續說後。盧綰者,豐人也,與高祖同里。盧綰親與高祖太上皇相愛,及生男,高祖、盧綰同日生,里中持羊酒賀兩家。及高祖、盧綰壯,俱學書,又相愛也。里中嘉兩家親相愛,生子同日,壯又相愛,復賀兩家羊酒。高祖為布衣時,有吏事辟匿,盧綰常隨出入上下。及高祖初起沛,盧綰以客從,入漢中為將軍,常侍中。從東擊項籍,以太尉常從,出入臥內,衣被飲食賞賜,群臣莫敢望,雖蕭曹等,特以事見禮,至其親幸,莫及盧綰。綰封為長安侯。長安,故咸陽也。
新字:今反為寇将兵,与将軍争一旦之命,此三罪也。夫種、蠡無一罪,身死亡;今仆有三罪於陛下,而欲求活於世,此伍子胥所以僨於呉也。今仆亡匿山谷閒,旦暮乞貸蠻夷,仆之思帰,如痿人不忘起,盲者不忘視也,勢不可耳。」遂戦。柴将軍屠参合,斬韓王信。信之入匈奴,与太子倶;及至穨当城,生子,因名曰穨当。韓太子亦生子,命曰嬰。至孝文十四年,穨当及嬰率其衆降漢。漢封穨当為弓高侯,嬰為襄城侯。呉楚軍時,弓高侯功冠諸将。伝子至孫,孫無子,失侯。嬰孫以不敬失侯。穨当孽孫韓嫣,貴幸,名富顕於当世。其弟説,再封,数称将軍,卒為案道侯。子代,歳余坐法死。後歳余,説孫曽拝為竜頟侯,続説後。盧綰者,豊人也,与高祖同里。盧綰親与高祖太上皇相愛,及生男,高祖、盧綰同日生,里中持羊酒賀両家。及高祖、盧綰壮,倶学書,又相愛也。里中嘉両家親相愛,生子同日,壮又相愛,復賀両家羊酒。高祖為布衣時,有吏事辟匿,盧綰常随出入上下。及高祖初起沛,盧綰以客従,入漢中為将軍,常侍中。従東撃項籍,以太尉常従,出入臥内,衣被飲食賞賜,群臣莫敢望,雖蕭曹等,特以事見礼,至其親幸,莫及盧綰。綰封為長安侯。長安,故咸陽也。
書き下し
今反りて寇の為に兵を将ゐ、将軍と一旦の命を争ふ、此れ三の罪なり。夫れ種・蠡は一罪無くして、身死亡す。今僕は陛下に三罪有りて、而も活を世に求めんと欲す、此れ伍子胥の呉に僨れし所以なり。今僕は山谷の間に亡匿し、旦暮に蛮夷に乞貸す。僕の帰らんことを思ふは、痿人の起つを忘れず、盲者の視るを忘れざるが如きなり。勢ひ不可なるのみ」と。遂に戦ふ。柴将軍参合を屠り、韓王信を斬る。信の匈奴に入るや、太子と倶にす。穨当城に至るに及び、子を生み、因りて名づけて穨当(たいとう)と曰ふ。韓の太子も亦子を生み、命じて嬰と曰ふ。孝文の十四年に至り、穨当及び嬰其の衆を率ゐて漢に降る。漢穨当を封じて弓高侯と為し、嬰を襄城侯と為す。呉楚の軍の時、弓高侯の功諸将に冠たり。子に伝へて孫に至り、孫に子無く、侯を失ふ。嬰の孫は不敬を以て侯を失ふ。穨当の孽孫韓嫣は、貴幸せられ、名富当世に顕る。其の弟説は、再び封ぜられ、数将軍と称し、卒に案道侯と為る。子代はり、歳余にして法に坐して死す。後歳余にして、説の孫曾拝せられて龍頟侯と為り、説の後を続ぐ。盧綰は、豊の人なり、高祖と里を同じくす。盧綰の親は高祖の太上皇と相ひ愛し、男を生むに及び、高祖・盧綰同日に生まる。里中羊酒を持して両家を賀す。高祖・盧綰壮なるに及び、倶に書を学び、又相ひ愛す。里中両家の親の相ひ愛し、子を生むこと日を同じくし、壮にして又相ひ愛するを嘉し、復た両家を羊酒もて賀す。高祖布衣たりし時、吏事有りて辟匿するに、盧綰常に随ひて出入上下す。高祖初めて沛に起つに及び、盧綰客を以て従ひ、漢中に入りて将軍と為り、常に侍中す。従ひて東のかた項籍を撃つに、太尉を以て常に従ひ、臥内に出入し、衣被飲食の賞賜、群臣敢へて望むもの莫し。蕭・曹等と雖も、特に事を以て礼せらるるのみにして、其の親幸に至りては、盧綰に及ぶもの莫し。綰封ぜられて長安侯と為る。長安は、故の咸陽なり。
現代語訳
いまでは逆に敵の側に立って兵を率い、将軍と一朝の命を争っている。これが三つ目の罪だ。そもそも文種(ぶんしょう)・范蠡(はんれい)は一つの罪もなかったのに、(文種は)身を滅ぼし(范蠡は)逃げ去った。いま私は陛下に対して三つの罪がありながら、世に生き延びようとしている。これこそ伍子胥が呉で倒されたのと同じ道だ。いま私は山や谷の間に逃げ隠れ、朝な夕な蛮夷に施しを乞うて暮らしている。私が帰りたいと思う気持ちは、足の萎えた人が立つことを忘れず、目の見えない人が見ることを忘れないのと同じだ。ただ、情勢がそれを許さないだけなのだ。」こうして戦いとなった。柴将軍は参合を攻め落として住民を皆殺しにし、韓王信を斬った。信が匈奴に入ったとき、太子を連れていた。穨当城に着いたところで子が生まれたので、穨当と名づけた。韓の太子にも子が生まれ、嬰と名づけた。孝文帝の十四年に、穨当と嬰はその配下を率いて漢に降った。漢は穨当を弓高侯に、嬰を襄城侯に封じた。呉楚七国の乱の戦いでは、弓高侯の手柄が諸将の中で第一であった。侯位は子に伝わり孫に至ったが、孫に子がなく侯位を失った。嬰の孫は不敬の罪で侯位を失った。穨当の庶出の孫の韓嫣(かんえん)は(武帝に)寵愛されて高い地位につき、名声と富は当時の世に知れわたった。その弟の韓説(かんえつ)は二度にわたって封ぜられ、たびたび将軍の号を称し、最後には案道侯となった。子が跡を継いだが、一年余りで法に触れて死んだ。その後一年余りして、説の孫の曾が龍頟侯に任ぜられ、説の家を継いだ。盧綰は豊邑の人で、高祖と同じ村の出身である。盧綰の父は高祖の父の太上皇と仲がよく、男の子が生まれたとき、高祖と盧綰は同じ日に生まれたので、村の人々は羊と酒を持って両家を祝った。高祖と盧綰は成長すると、ともに字を学び、やはり仲がよかった。村の人々は、両家の父親同士が仲よく、子が同じ日に生まれ、大きくなってもまた仲がよいことを喜び、再び羊と酒で両家を祝った。高祖がまだ無位無官だったころ、役人沙汰があって身を隠したときも、盧綰はいつもつき従ってどこへでも行動をともにした。高祖が沛で初めて挙兵すると、盧綰は客分として従い、漢中に入って将軍となり、常に側近として仕えた。高祖に従って東へ項籍を攻めたときは、太尉としていつも付き従い、寝所にまで出入りし、衣服・寝具・飲食の下賜は、群臣の誰も望めないほどであった。蕭何・曹参らでさえ、職務の功によって礼遇されるにとどまり、親しさと寵愛においては盧綰に及ぶ者はいなかった。盧綰は長安侯に封ぜられた。長安とはもとの咸陽である。
解説
関連する章句
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史記 韓信盧綰列伝韓王信は、故の韓の襄王の孽孫なり。長八尺五寸。項梁の楚の後の懐王を立つるに及び、燕・斉・趙・魏は皆已に前に王たり、唯だ韓のみ後有ること無し。故に韓の諸公子横陽君成を立てて韓王と為し、以て韓の故地を撫定せんと欲す。項梁定陶に敗死し、成は懐王に奔る。沛公兵を引ゐて陽城を撃ち、張良をして韓の司徒を以て韓の故地を降下せしめ、信を得て、以て韓の将と為し、其の兵を将ゐて沛公に従ひ武関に入る。沛公立ちて漢王と為るや、韓信従ひて漢中に入り、乃ち漢王に説きて曰く、「項王は諸将を近地に王とし、而して王独り遠く此に居る、此れ左遷なり。士卒は皆山東の人にして、跂ちて帰らんことを望む。其の鋒の東に郷ふに及ばば、以て天下を争ふべし」と。漢王還りて三秦を定め、乃ち信を許して韓王と為し、先づ信を拝して韓の太尉と為し、兵を将ゐて韓の地を略せしむ。項籍の諸王を封ずるや皆国に就くも、韓王成は従はずして功無きを以て、遣はして国に就かしめず、更めて以て列侯と為す。漢の韓信を遣はして韓の地を略せしむと聞くに及び、乃ち故の項籍の呉に游びし時の呉の令鄭昌をして韓王と為し以て漢を距がしむ。漢の二年、韓信韓の十余城を略定す。漢王河南に至り、韓信急に韓王昌を陽城に撃つ。昌降る。漢王乃ち韓信を立てて韓王と為し、常に韓の兵を将ゐて従ふ。三年、漢王滎陽を出で、韓王信・周苛等滎陽を守る。楚の滎陽を敗るに及び、信楚に降り、已にして亡ぐるを得て、復た漢に帰す。漢復た立てて以て韓王と為し、竟に従ひて項籍を撃破し、天下定まる。五年の春、遂に与に符を剖きて韓王と為し、潁川に王たらしむ。
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史記 韓信盧綰列伝漢樊噲をして豨を撃ちて斬らしむ。其の裨将降り、燕王綰の范斉をして計謀を豨の所に通ぜしむと言ふ。高祖使を使はして盧綰を召すも、綰病と称す。上又辟陽侯審食其(しんいき)・御史大夫趙堯をして往きて燕王を迎へしめ、因りて左右を験問せしむ。綰愈恐れ、閉匿し、其の幸臣に謂ひて曰く、「劉氏に非ずして王たるは、独り我と長沙とのみ。往年の春、漢淮陰を族し、夏、彭越を誅す、皆呂后の計なり。今上病み、呂后に属任す。呂后は婦人にして、専ら事を以て異姓の王者及び大功臣を誅せんと欲す」と。乃ち遂に病と称して行かず。其の左右皆亡匿す。語頗る泄れ、辟陽侯之を聞き、帰りて具に上に報ず。上益怒る。又匈奴の降者を得、降者張勝の亡げて匈奴に在り、燕の使と為ると言ふ。是に於て上曰く、「盧綰果して反せり」と。樊噲をして燕を撃たしむ。燕王綰悉く其の宮人・家属・騎数千を将ゐて長城の下に居り、侯伺し、上の病愈えなば、自ら入りて謝せんことを幸ふ。四月、高祖崩じ、盧綰遂に其の衆を将ゐて亡げて匈奴に入る。匈奴以て東胡の盧王と為す。綰蛮夷の侵奪する所と為り、常に復た帰らんことを思ふ。居ること歳余にして、胡中に死す。
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史記 韓信盧綰列伝漢の五年の冬、項籍を破るを以て、乃ち盧綰をして別将たらしめ、劉賈と臨江王共尉を撃たしめ、之を破る。七月還り、従ひて燕王臧荼(ぞうと)を撃ち、臧荼降る。高祖已に天下を定むるに、諸侯の劉氏に非ずして王たる者七人。盧綰を王とせんと欲するも、群臣の觖望(けつぼう)を為す。臧荼を虜にするに及び、乃ち詔を諸将相・列侯に下し、群臣の功有る者を択びて以て燕王と為さしむ。群臣上の盧綰を王とせんと欲するを知り、皆言ひて曰く、「太尉長安侯盧綰は常に従ひて天下を平定し、功最も多し。燕に王たるべし」と。詔して之を許す。漢の五年八月、乃ち虜綰を立てて燕王と為す。諸侯王の幸を得ること燕王に如くは莫し。漢の十一年の秋、陳豨代の地に反す。高祖邯鄲に如きて豨の兵を撃ち、燕王綰も亦其の東北を撃つ。是の時に当たり、陳豨王黄をして救ひを匈奴に求めしむ。燕王綰も亦其の臣張勝を匈奴に使はし、豨等の軍破れたりと言はしむ。張勝胡に至るに、故の燕王臧茶の子衍出亡して胡に在り、張勝に見えて曰く、「公の燕に重んぜらるる所以の者は、胡の事に習ふを以てなり。燕の久しく存する所以の者は、諸侯数反し、兵連なりて決せざるを以てなり。今公燕の為に急に豨等を滅ぼさんと欲するも、豨等已に尽くれば、次は亦燕に至り、公等も亦且に虜と為らんとす。公何ぞ燕をして且く陳豨を緩めて胡と和せしめざる。事寛なれば、長く燕に王たるを得。即し漢の急有らば、以て国を安んずべし」と。張勝以て然りと為し、豨私かに匈奴をして豨等を助けて燕を撃たしむ。燕王綰張勝の胡と反するを疑ひ、上書して張勝を族せんことを請ふ。勝還り、具に為す所以の者を道ふ。燕王寤り、乃ち詐りて它人を論じ、勝の家属を脱し、匈奴の間と為るを得しめ、而して陰かに范斉をして陳豨の所に之かしめ、久しく亡げしめ、兵を連ねて決すること勿からしめんと欲す。漢の十二年、東のかた黥布を撃つ。豨常に兵を将ゐて代に居り、
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史記 韓信盧綰列伝高后の時、盧綰の妻子亡げて漢に降る。会ま高后病み、見ること能はず、燕邸に舎せしめ、為に酒を置きて之に見えんと欲す。高祖竟に崩じ、見ることを得ず。盧綰の妻も亦病みて死す。孝景の中六年、盧綰の孫他之、東胡王を以て降り、封ぜられて亜谷侯と為る。
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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