史記 / 黥布列伝
其八月,布使將擊義帝,追殺之郴縣。漢二年,齊王田榮畔楚,項王往擊齊,徵兵九江,九江王布稱病不往,遣將將數千人行。漢之敗楚彭城,布又稱病不佐楚。項王由此怨布,數使使者誚讓召布,布愈恐,不敢往。項王方北憂齊、趙,西患漢,所與者獨九江王,又多布材,欲親用之,以故未擊。漢三年,漢王擊楚,大戰彭城,不利,出梁地,至虞,謂左右曰:「如彼等者,無足與計天下事。」謁者隨何進曰:「不審陛下所謂。」漢王曰:「孰能為我使淮南,令之發兵倍楚,留項王於齊數月,我之取天下可以百全。」隨何曰:「臣請使之。」乃與二十人俱,使淮南。至,因太宰主之,三日不得見。隨何因說太宰曰:「王之不見何,必以楚為彊,以漢為弱,此臣之所以為使。使何得見,言之而是邪,是大王所欲聞也;言之而非邪,使何等二十人伏斧質淮南市,以明王倍漢而與楚也。」太宰乃言之王,王見之。隨何曰:「漢王使臣敬進書大王御者,竊怪大王與楚何親也。」淮南王曰:「寡人北鄉而臣事之。」隨何曰:「大王與項王俱列為諸侯,北鄉而臣事之,必以楚為彊,可以託國也。項王伐齊,身負板筑,以為士卒先,大王宜悉淮南之眾,身自將之,為楚軍前鋒,今乃發四千人以助楚。
新字:其八月,布使将撃義帝,追殺之郴県。漢二年,斉王田栄畔楚,項王往撃斉,徴兵九江,九江王布称病不往,遣将将数千人行。漢之敗楚彭城,布又称病不佐楚。項王由此怨布,数使使者誚譲召布,布愈恐,不敢往。項王方北憂斉、趙,西患漢,所与者独九江王,又多布材,欲親用之,以故未撃。漢三年,漢王撃楚,大戦彭城,不利,出梁地,至虞,謂左右曰:「如彼等者,無足与計天下事。」謁者随何進曰:「不審陛下所謂。」漢王曰:「孰能為我使淮南,令之発兵倍楚,留項王於斉数月,我之取天下可以百全。」随何曰:「臣請使之。」乃与二十人倶,使淮南。至,因太宰主之,三日不得見。随何因説太宰曰:「王之不見何,必以楚為彊,以漢為弱,此臣之所以為使。使何得見,言之而是邪,是大王所欲聞也;言之而非邪,使何等二十人伏斧質淮南市,以明王倍漢而与楚也。」太宰乃言之王,王見之。随何曰:「漢王使臣敬進書大王御者,窃怪大王与楚何親也。」淮南王曰:「寡人北郷而臣事之。」随何曰:「大王与項王倶列為諸侯,北郷而臣事之,必以楚為彊,可以託国也。項王伐斉,身負板筑,以為士卒先,大王宜悉淮南之衆,身自将之,為楚軍前鋒,今乃発四千人以助楚。
書き下し
其の八月、布将をして義帝を撃たしめ、追ひて之を郴県に殺す。漢の二年、斉王田栄楚に畔く。項王往きて斉を撃ち、兵を九江に徴す。九江王布病と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。漢の楚を彭城に敗るや、布又病と称して楚を佐けず。項王此に由りて布を怨み、数々使者をして誚譲して布を召さしむ。布愈々恐れ、敢て往かず。項王方に北は斉・趙を憂へ、西は漢を患ふ。与する所の者は独り九江王のみ。又布の材を多とし、親しみて之を用ひんと欲す。故を以て未だ撃たず。漢の三年、漢王楚を撃ち、大いに彭城に戦ひて、利あらず。梁の地に出でて、虞に至り、左右に謂ひて曰く、「彼等の如き者は、与に天下の事を計るに足る無し」と。謁者隨何進みて曰く、「陛下の謂ふ所を審らかにせず」と。漢王曰く、「孰か能く我が為に淮南に使ひし、之をして兵を発して楚に倍かしめ、項王を斉に留むること数月ならしめん。我の天下を取ること以て百全なるべし」と。隨何曰く、「臣請ふ之に使ひせん」と。乃ち二十人と倶に、淮南に使ひす。至る。太宰に因りて之を主とせしむるも、三日見ゆるを得ず。隨何因りて太宰に説きて曰く、「王の何に見えざるは、必ず楚を以て彊と為し、漢を以て弱と為すならん。此れ臣の使ひを為す所以なり。何をして見ゆるを得しめ、之を言ひて是ならば、是れ大王の聞かんと欲する所なり。之を言ひて非ならば、何等二十人をして斧質に淮南の市に伏せしめ、以て王の漢に倍きて楚に与するを明らかにせよ」と。太宰乃ち之を王に言ふ。王之に見ゆ。隨何曰く、「漢王臣をして敬んで書を大王の御者に進めしむ。竊かに大王の楚と何ぞ親しきを怪しむ」と。淮南王曰く、「寡人北郷して之に臣事す」と。隨何曰く、「大王と項王と倶に列して諸侯と為る。北郷して之に臣事するは、必ず楚を以て彊と為し、以て国を託すべしとすればなり。項王斉を伐つに、身づから板築を負ひ、以て士卒の先と為る。大王宜しく淮南の衆を悉くし、身づから自ら之に将として、楚軍の前鋒と為るべし。今乃ち四千人を発して以て楚を助く。
現代語訳
その年の八月、英布は部下の将に義帝を襲わせ、郴県まで追って殺した。漢の二年、斉王田栄が楚に背いた。項王は斉を討ちに向かい、九江に兵を出すよう求めた。九江王英布は病気と称して自らは行かず、部下の将に数千人を率いて行かせた。漢が彭城で楚を破ったときも、英布はまた病気と称して楚を助けなかった。項王はこれによって英布を恨み、たびたび使者を送って責め、英布を呼び出そうとした。英布はますます恐れて、行こうとしなかった。項王は北では斉・趙のことを憂え、西では漢に悩まされていて、味方と頼めるのは九江王だけであった。また英布の才能を高く買っていて、親しんで用いたいと思っていたので、まだ攻めなかった。漢の三年、漢王は楚を攻めて彭城で大いに戦ったが、敗れた。梁の地に出て虞まで来ると、左右の者に言った。「おまえたちのような者とは、ともに天下のことを計ることはできない」。謁者の隨何が進み出て言った。「陛下のおっしゃる意味がよくわからない」。漢王は言った。「誰か私のために淮南へ使いして、英布に兵を挙げさせて楚に背かせ、項王を数か月でも斉に引き留められる者はいないか。そうすれば私が天下を取ることは万に一つの失敗もない」。隨何は言った。「私にその使いをさせていただきたい」。そこで隨何は二十人とともに淮南へ使いした。着くと太宰(膳部の長官)に接待役を頼んだが、三日たっても英布に会えなかった。隨何はそこで太宰に説いた。「王が私に会わないのは、きっと楚を強いと思い、漢を弱いと思っているからだろう。だからこそ私は使いに来たのだ。私に会わせてくれて、私の言うことが正しければ、それは大王が聞きたいと思っておられることだ。私の言うことが間違っていれば、私たち二十人を淮南の市場で斧と首切り台の上に伏させて処刑し、王が漢に背いて楚につくことを明らかにすればよい」。太宰はそこで王にこのことを伝え、王は隨何に会った。隨何は言った。「漢王は私に謹んで書を大王の側近に差し上げさせた。ひそかに、大王が楚とどうしてそれほど親しいのか不思議に思っている」。淮南王は「私は北を向いて楚に臣下として仕えているのだ」と言った。隨何は言った。「大王と項王はともに並んで諸侯となった身だ。それでも北を向いて臣下として仕えているのは、楚は強く、国を託せると思っておられるからだろう。項王は斉を討つとき、自ら土壁を築く板と杵を背負って、兵士の先頭に立った。大王は本来なら淮南の軍勢をすべて動員し、自ら率いて楚軍の先鋒となるべきであった。それなのにわずか四千人を出して楚を助けただけだ。
解説
関連する章句
-
史記 黥布列伝夫れ北面して人に臣事する者は、固より是の若きか。夫れ漢王彭城に戦ひ、項王未だ斉を出でざるに、大王宜しく淮南の兵を騒して淮を渡り、日夜彭城の下に会戦すべし。大王万人の衆を撫しながら、一人の淮を渡る者無く、垂拱して其の孰れか勝つを観る。夫れ国を人に託する者は、固より是の若きか。大王空名を提げて以て楚に郷ひ、而して厚く自ら託せんと欲す。臣竊かに大王の為に取らざるなり。然り而して大王楚に背かざる者は、漢を以て弱と為せばなり。夫れ楚の兵彊しと雖も、天下之に負はすに不義の名を以てす。其の盟約に背きて義帝を殺すを以てなり。然り而して楚王戦勝を恃みて自ら彊しとす。漢王は諸侯を収め、還りて成皋・滎陽を守り、蜀・漢の粟を下し、溝を深くし壁を塁ね、卒を分かちて徼を守り塞に乗る。楚人兵を還すに、間つるに梁の地を以てし、深く敵国に入ること八九百里、戦はんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能はず、老弱糧を千里の外に転ず。楚の兵滎陽・成皋に至るも、漢堅く守りて動かず、進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くるを得ず。故に曰く、楚の兵は恃むに足らざるなりと。楚をして漢に勝たしむれば、則ち諸侯自ら危懼して相救はん。夫れ楚の彊は、適々以て天下の兵を致すに足るのみ。故に楚の漢に如かざること、其の勢見易し。今大王万全の漢に与せずして自ら危亡の楚に託す。臣竊かに大王の為に之を惑ふ。臣は淮南の兵を以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ざるなり。夫れ大王兵を発して楚に倍かば、項王必ず留まらん。留まること数月、漢の天下を取ること以て万全なるべし。臣請ふ大王と剣を提げて漢に帰せん。漢王必ず地を裂きて大王を封ぜん。又況んや淮南をや。淮南は必ず大王の有たん。故に漢王敬んで使臣をして愚計を進めしむ。願はくは大王の意を留めよ」と。淮南王曰く、「請ふ命を奉ぜん」と。陰かに楚に畔きて漢に与するを許すも、未だ敢て泄らさず。楚の使者在り、方に急に英布に兵を発することを責め、伝舎に舎る。
-
史記 黥布列伝楚、項声・竜且をして淮南を攻めしめ、項王留まりて下邑を攻む。数月、竜且淮南を撃ち、布の軍を破る。布兵を引きて漢に走らんと欲するも、楚王の之を殺さんことを恐る。故に間行して何と倶に漢に帰す。淮南王至る。上方に床に踞して洗ひ、布を召して入り見えしむ。布大いに怒り、来たりしを悔い、自殺せんと欲す。出でて舎に就く。帳御飲食従官漢王の居の如し。布又大いに喜び望みに過ぐ。是に於て乃ち人をして九江に入らしむ。楚已に項伯をして九江の兵を収めしめ、尽く布の妻子を殺す。布の使者頗る故人幸臣を得、衆数千人を将ゐて漢に帰す。漢益々布に兵を分かちて与に倶に北し、兵を収めて成皋に至る。四年七月、布を立てて淮南王と為し、与に項籍を撃つ。漢の五年、布人をして九江に入らしめ、数県を得。六年、布劉賈と九江に入り、大司馬周殷を誘ふ。周殷楚に反き、遂に九江の兵を挙げて漢と楚を撃ち、之を垓下に破る。項籍死し、天下定まる。上置酒す。上隨何の功を折き、何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんと。隨何跪きて曰く、「夫れ陛下兵を引きて彭城を攻むるに、楚王未だ斉を去らず。陛下歩卒五万人、騎五千を発して、能く以て淮南を取らんか」と。上曰く、「能はず」と。隨何曰く、「陛下何と二十人とをして淮南に使ひせしめ、至りて陛下の意の如くならしむ。是れ何の功は歩卒五万人騎五千より賢れるなり。然り而して陛下何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんとするは、何ぞや」と。上曰く、「吾方に子の功を図らんとす」と。乃ち隨何を以て護軍中尉と為す。布遂に符を剖きて淮南王と為り、六に都す。九江・廬江・衡山・豫章の郡皆布に属す。七年、陳に朝す。八年、雒陽に朝す。九年、長安に朝す。
-
史記 高祖本紀新城の三老董公遮りて漢王に説くに義帝の死せし故を以てす。漢王之を聞き、袒して大いに哭す。遂に義帝の為に喪を発し、臨すること三日。使者を発して諸侯に告げて曰く、「天下共に義帝を立て、北面して之に事ふ。今項羽義帝を江南に放殺す、大逆無道なり。寡人親ら為に喪を発す、諸侯皆縞素せよ。悉く関内の兵を発し、三河の士を収め、南のかた江漢に浮かびて以て下り、願はくは諸侯王に従ひて楚の義帝を殺せし者を撃たん。」と。是の時項王北のかた斉を撃つ、田栄与に城陽に戦ふ。田栄敗れ、平原に走る、平原の民之を殺す。斉皆楚に降る。楚因りて其の城郭を焚焼し、其の子女を系虜す。斉人之に叛く。田栄の弟横栄の子広を立てて斉王と為す、斉王楚に城陽に反す。項羽漢の東すと聞くと雖も、既已に斉の兵と連なる、遂に之を破りて漢を撃たんと欲す。漢王故を以て五諸侯の兵を劫かすを得て、遂に彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち兵を引きて斉を去り、魯より胡陵に出で、蕭に至り、漢と彭城の霊壁の東睢水の上に大いに戦ひ、大いに漢の軍を破り、多く士卒を殺す、睢水之が為に流れず。乃ち漢王の父母妻子を沛に取り、之を軍中に置きて以て質と為す。是の時に当たりて、諸侯楚の彊く漢の敗るるを見て、還りて皆漢を去りて復た楚と為る。塞王欣亡げて楚に入る。呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐ、下邑に居る。漢王之に従ひ、稍々士卒を収め、碭に軍す。漢王乃ち西のかた梁の地を過ぎ、虞に至る。謁者随何をして九江王布の所に之かしめて、曰く、「公能く布をして兵を挙げて楚に叛かしめば、項羽必ず留まりて之を撃たん。留まること数月を得ば、吾天下を取ること必せり。」と。随何往きて九江王布に説く、布果たして楚に背く。楚龍且をして往きて之を撃たしむ。漢王の彭城に敗れて西するや、行くゆく人をして家室を求めしむ、家室も亦亡げ、相得ず。
-
史記 黥布列伝陳勝の起こるや、布乃ち番君に見え、其の衆と秦に叛き、兵数千人を聚む。番君其の女を以て之に妻す。章邯の陳勝を滅ぼし、呂臣の軍を破るや、布乃ち兵を引きて北のかた秦の左右の校を撃ち、之を清波に破り、兵を引きて東す。項梁江東会稽を定め、江を渉りて西すと聞く。陳嬰、項氏世々楚の将為るを以て、乃ち兵を以て項梁に属し、淮南を渡る。英布・蒲将軍も亦兵を以て項梁に属す。項梁淮を渉りて西し、景駒・秦嘉等を撃つ。布常に軍に冠たり。項梁薛に至り、陳王の定めて死するを聞き、迺ち楚の懐王を立つ。項梁号して武信君と為り、英布は当陽君と為る。項梁定陶に敗死す。懐王都を彭城に徙す。諸将英布も亦皆彭城に保聚す。是の時に当り、秦急に趙を囲む。趙数々人をして救ひを請はしむ。懐王宋義をして上将と為し、范曾を末将と為し、項籍を次将と為し、英布・蒲将軍皆将軍と為り、悉く宋義に属せしめ、北のかた趙を救はしむ。項籍の宋義を河上に殺すに及び、懐王因りて籍を立てて上将軍と為す。諸将皆項籍に属す。項籍布をして先づ河を渡りて秦を撃たしむ。布数々利有り。籍迺ち悉く兵を引きて河を渉りて之に従ひ、遂に秦軍を破り、章邯等を降す。楚の兵常に勝ち、功諸侯に冠たり。諸侯の兵皆以て楚に服属する者は、布の数々少を以て衆を敗るを以てなり。項籍の兵を引きて西のかた新安に至るや、又布等をして夜撃ちて章邯の秦卒二十余万人を阬にせしむ。関に至り、入るを得ず。又布等をして先づ間道より関下の軍を破らしめ、遂に入るを得て、咸陽に至る。布常に軍鋒と為る。項王諸将を封じ、布を立てて九江王と為し、六に都せしむ。漢の元年四月、諸侯皆戯下を罷め、各々国に就く。項氏懐王を立てて義帝と為し、都を長沙に徙す。乃ち陰かに九江王布等をして行きて之を撃たしむ。
-
『長短経』覇図今、大王、万全の漢に与せずして、自ら危亡の楚に託す。臣、竊かに大王の為に之を惑う。臣は淮南の兵を以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ざるなり。大王、兵を発して楚に倍けば、項王必ず斉に留まること数月ならん。漢の天下を取ること、以て万全なる可し。臣請う、大王、剣を提げて漢に帰せば、漢は必ず土地を裂きて大王に分かたん。又た況んや淮南をや。必ず大王之を有せん。故に臣をして愚計を進めしむ。願わくは大王、意を留めよ」と。淮南王曰く「請う、命を奉ぜん」と。陰かに楚に叛きて漢に与せんことを許すも、未だ敢えて泄らさず。楚の使者、淮南に在り、方に急に英布に兵を発せしめんとし、伝舎に舎る。随何、直ちに入り、楚の使者の上座に坐して曰く「九江王已に漢に帰す。楚、何を以て兵を発せしむるを得んや」と。布、愕然たり。楚の使者起つ。何、因りて布に説きて曰く「事已に構われり。独り楚の使者を殺し、帰らしむる無くして、疾く漢に走りて力を并せよ」と。乃ち漢の使者の教えの如くす。是に於て楚の使者を殺し、因りて兵を起こして楚を攻むるなり。〉
-
史記 黥布列伝東のかた荊を撃つ。荊王劉賈走りて富陵に死す。尽く其の兵を劫かし、淮を渡りて楚を撃つ。楚兵を発して与に徐・僮の間に戦ひ、三軍と為し、以て相救ひて奇を為さんと欲す。或ひと楚の将に説きて曰く、「布は善く兵を用ふ。民素より之を畏る。且つ兵法に、諸侯其の地に戦ふを散地と為す。今別れて三と為る。彼吾が一軍を敗らば、余は皆走らん。安くんぞ能く相救はん」と。聴かず。布果して其の一軍を破り、其の二軍散走す。遂に西し、上の兵と蘄の西の会甀に遇ふ。布の兵精甚だし。上乃ち庸城に壁し、布の軍の陳を置くこと項籍の軍の如きを望み、上之を悪む。布と相望見し、遙かに布に謂ひて曰く、「何を苦しみて反するや」と。布曰く、「帝為らんと欲するのみ」と。上怒りて之を罵り、遂に大いに戦ふ。布の軍敗走し、淮を渡り、数々止まりて戦ふも、利あらず。百余人と江南に走る。布故より番君と婚す。故を以て長沙の哀王人をして布を紿かしめ、偽りて与に亡げんとし、誘ひて越に走らしむ。故に信じて之に随ひて番陽に之く。番陽の人布を茲郷の民の田舎に殺し、遂に黥布を滅ぼす。皇子長を立てて淮南王と為し、賁赫を封じて期思侯と為す。諸将率ね多く功を以て封ぜらるる者あり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る