史記 / 呂不韋列伝
始皇帝益壯,太后淫不止。呂不韋恐覺禍及己,乃私求大陰人嫪毐以為舍人,時縱倡樂,使毐以其陰闕桐輪而行,令太后聞之,以啗太后。太后聞,果欲私得之。呂不韋乃進嫪毐,詐令人以腐罪告之。不韋又陰謂太后曰:「可事詐腐,則得給事中。」太后乃陰厚賜主腐者吏,詐論之,拔其須眉為宦者,遂得侍太后。太后私與通,絕愛之。有身,太后恐人知之,詐卜當避時,徙宮居雍。嫪毐常從,賞賜甚厚,事皆決於嫪毐。嫪毐家僮數千人,諸客求宦為嫪毐舍人千餘人。始皇七年,莊襄王母夏太后薨。孝文王后曰華陽太后,與孝文王會葬壽陵。夏太后子莊襄王葬芷陽,故夏太后獨別葬杜東,曰「東望吾子,西望吾夫。後百年,旁當有萬家邑」。
新字:始皇帝益壮,太后淫不止。呂不韋恐覚禍及己,乃私求大陰人嫪毐以為舎人,時縦倡楽,使毐以其陰闕桐輪而行,令太后聞之,以啗太后。太后聞,果欲私得之。呂不韋乃進嫪毐,詐令人以腐罪告之。不韋又陰謂太后曰:「可事詐腐,則得給事中。」太后乃陰厚賜主腐者吏,詐論之,抜其須眉為宦者,遂得侍太后。太后私与通,絶愛之。有身,太后恐人知之,詐卜当避時,徙宮居雍。嫪毐常従,賞賜甚厚,事皆決於嫪毐。嫪毐家僮数千人,諸客求宦為嫪毐舎人千余人。始皇七年,荘襄王母夏太后薨。孝文王后曰華陽太后,与孝文王会葬寿陵。夏太后子荘襄王葬芷陽,故夏太后独別葬杜東,曰「東望吾子,西望吾夫。後百年,旁当有万家邑」。
書き下し
始皇帝益々壮なり。太后の淫止まず。呂不韋、覚られて禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち私かに大陰人嫪毐を求めて以て舎人と為す。時に倡楽を縦にし、毐をして其の陰を以て桐輪を闕けて行かしめ、太后をして之を聞かしめ、以て太后を啗はしむ。太后聞き、果して私かに之を得んと欲す。呂不韋乃ち嫪毐を進め、詐りて人をして腐罪を以て之を告げしむ。不韋又陰かに太后に謂ひて曰く、「詐りて腐を事とせしむべし。則ち給事中を得ん」と。太后乃ち陰かに厚く主腐者の吏に賜ひ、詐りて之を論じ、其の須眉を抜きて宦者と為し、遂に太后に侍するを得たり。太后私かに与に通じ、絶だ之を愛す。身有り。太后人の之を知らんことを恐れ、詐りて卜ふに時を避くべしとし、宮を徙して雍に居る。嫪毐常に従ひ、賞賜甚だ厚く、事皆嫪毐に決す。嫪毐の家僮数千人、諸客の宦を求めて嫪毐の舎人と為る者千余人。始皇の七年、荘襄王の母夏太后薨ず。孝文王の后を華陽太后と曰ひ、孝文王と寿陵に会葬す。夏太后の子荘襄王は芷陽に葬らる。故に夏太后独り別に杜の東に葬られ、曰く「東のかた吾が子を望み、西のかた吾が夫を望む。後百年、旁らに当に万家の邑有るべし」と。
現代語訳
始皇帝はますます成長して壮年に近づいたが、太后のみだらな振る舞いはやまなかった。呂不韋は、発覚して災いが自分に及ぶことを恐れ、ひそかに巨根の持ち主である嫪毐を探し出して家来にした。そしてときおり歌舞音曲の宴を好き放題に催し、嫪毐に陰茎を桐の車輪の穴に通して歩かせ、その噂を太后の耳に入れて、太后の気を引こうとした。太后はそれを聞いて、案の定ひそかに嫪毐を手に入れたいと望んだ。呂不韋はそこで嫪毐を差し出すことにし、人を使って嫪毐が宮刑にあたる罪を犯したといつわって告発させた。呂不韋はまたひそかに太后に言った。「いつわりの宮刑を受けさせれば、後宮に仕えさせることができる」。太后はそこでひそかに宮刑を担当する役人に手厚く贈り物をし、いつわって刑を言い渡させ、ひげと眉を抜いて宦官に仕立て、こうして嫪毐は太后のそば近くに仕えることになった。太后はひそかに嫪毐と通じ、ひどく寵愛して、身ごもった。太后は人に知られることを恐れ、占いで今は居所を移して災いを避けるべきだと出たといつわり、宮殿を移して雍に住んだ。嫪毐はいつも付き従い、褒美はきわめて手厚く、政事はすべて嫪毐が決めるようになった。嫪毐の家の召使いは数千人に及び、官職を求めて嫪毐の家来になった客は千人余りにのぼった。始皇帝の七年、荘襄王の実母の夏太后が亡くなった。孝文王の后は華陽太后で、孝文王とともに寿陵に葬られることになっていた。夏太后の子の荘襄王は芷陽に葬られていた。そのため夏太后だけは別に杜の東に葬られた。夏太后は生前こう言っていた。「東にわが子を望み、西にわが夫を望む。百年後には、そばに一万戸の町ができるだろう」。
解説
関連する章句
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史記 呂不韋列伝始皇の九年、嫪毐実は宦者に非ず、常に太后と私乱し、子二人を生み、皆之を匿すと告ぐる有り。太后と謀りて曰く「王即し薨ぜば、子を以て後と為さん」と。是に於て秦王吏に下して治めしめ、具に情実を得たり。事は相国呂不韋に連なる。九月、嫪毐の三族を夷し、太后の生む所の両子を殺し、而して遂に太后を雍に遷す。諸々の嫪毐の舎人は皆其の家を没して之を蜀に遷す。王相国を誅せんと欲するも、其の先王に奉ずるの功大なる為、及び賓客弁士の為に游説する者衆く、王法を致すに忍びず。秦王の十年十月、相国呂不韋を免ず。斉人茅焦の秦王に説くに及び、秦王乃ち太后を雍に迎へ、帰りて咸陽に復せしめ、而して文信侯を出だして国の河南に就かしむ。歳余、諸侯の賓客使者、道に相望み、文信侯を請ふ。秦王其の変を為さんことを恐れ、乃ち文信侯に書を賜ひて曰く、「君何の功か秦に有る。秦は君を河南に封じ、十万戸を食ましむ。君何の親か秦に有る。号して仲父と称す。其れ家属と与に徙りて蜀に処れ」と。呂不韋自ら稍く侵さるるを度り、誅せられんことを恐れ、乃ち酖を飲みて死す。
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史記 呂不韋列伝秦王の怒りを加ふる所の呂不韋・嫪毐皆已に死す。乃ち皆嫪毐の舎人の蜀に遷されし者を復帰せしむ。始皇の十九年、太后薨ず。謚して帝太后と為し、荘襄王と茝陽に会葬す。
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史記 秦始皇本紀八年、王の弟長安君成蟜将軍として趙を撃ち、反き、屯留に死す。軍吏皆斬死せられ、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死す。卒の屯留・蒲鶴反く。其の尸を戮す。河の魚大いに上り、軽車重馬東に食に就く。嫪毐封ぜられて長信侯と為る。之に山陽の地を予へ、毐をして之に居らしむ。宮室車馬衣服苑囿馳猟毐の恣にす。事小大と無く皆毐に決す。又河西の太原郡を以て更めて毐の国と為す。九年、彗星見え、或いは天を竟る。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿す。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作さんとして覚はる。王の御璽及び太后の璽を矯めて以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に令して卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦ひ、首を斬ること数百、皆爵を拝す。宦者の皆戦中に在るに及ぶまで、亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す、毐を生け得る有らば、銭百万を賜ひ、之を殺さば、五十万と。尽く毐等を得たり。衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首せらる。車裂して以て徇へ、其の宗を滅ぼす。其の舎人に及ぶまで、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪ひて蜀に遷すこと四千余家、房陵に家せしむ。是の月寒凍し、死する者有り。楊端和衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮将軍と為る。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦秦王に説きて曰く、「秦方に天下を以て事と為す。而るに大王母太后を遷すの名有り。恐らくは諸侯之を聞き、此に由りて秦に倍かん」と。秦王乃ち太后を雍に迎へて咸陽に入れ、復た甘泉宮に居らしむ。
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史記 呂不韋列伝姫自ら身有るを匿し、大期の時に至りて、子政を生む。子楚遂に姫を立てて夫人と為す。秦の昭王の五十年、王齮をして邯鄲を囲ましむ。急にして、趙子楚を殺さんと欲す。子楚、呂不韋と謀り、金六百斤を行りて守者の吏に予へ、脱るるを得て、亡げて秦軍に赴き、遂に以て帰るを得たり。趙、子楚の妻子を殺さんと欲す。子楚の夫人は趙の豪家の女なり。匿るるを得、故を以て母子竟に活くるを得たり。秦の昭王の五十六年、薨ず。太子安国君立ちて王と為り、華陽夫人を王后と為し、子楚を太子と為す。趙も亦子楚の夫人及び子政を奉じて秦に帰す。秦王立つこと一年にして薨ず。謚して孝文王と為す。太子子楚代りて立つ。是を荘襄王と為す。荘襄王の母とする所の華陽后を華陽太后と為し、真の母夏姫を尊びて以て夏太后と為す。荘襄王の元年、呂不韋を以て丞相と為し、封じて文信侯と為し、河南洛陽の十万戸を食ましむ。
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説苑・正諫秦の始皇帝、太后謹まず、郎の嫪毐に幸し、封じて長信侯と為し、為に両子を生ましむ。毐国事を専らにし、浸く益々驕奢にして、侍中左右の貴臣と俱に博飲す。酒酔いて言を争いて闘い、瞋目大叱して曰わく、「吾は乃ち皇帝の仮父なり。窶人の子、何ぞ敢えて乃ち我と亢せんや」と。与に闘う者走りて行きて皇帝に白す。皇帝大いに怒る。毐誅を懼れ、因りて乱を作し、咸陽宮に戦う。毐敗れ、始皇乃ち毐の四肢を取りて之を車裂す。其の両弟を取りて嚢撲殺す。皇太后を取りて之を萯陽宮に遷す。令を下して曰わく、「敢えて太后の事を以て諫むる者あらば、戮して之を殺さん」と。蒺藜を従えて其の脊肉に、四肢を幹して之を闕下に積む。諫めて死する者二十七人なり。斉の客茅焦乃ち往きて上謁して曰わく、「斉の客茅焦、上りて皇帝を諫めんことを願う」と。皇帝使者をして出でて客に問わしむ。太后の事を以て諫むる無きを得んかと。茅焦然りと曰う。使者還りて白して曰わく、「果たして太后の事を以て諫む」と。皇帝曰わく、走りて往きて之に告げよ、若、闕下に積める死人を見ざるかと。使者茅焦に問う。茅焦曰わく、「臣之を聞く、天に二十八宿有り、今死する者已に二十七人有り。臣の来たる所以の者は、其の数を満たさんと欲するのみ。臣人の死するを畏るるに非ざるなり」と。走りて入りて之を白す。茅焦の邑子、食を同じくする者尽く其の衣物を負いて行きて亡ぐ。使者入りて之を白す。皇帝大いに怒りて曰わく、「是の子故に来たりて吾が禁を犯す。趣ちに鑊湯を炊きて之を煮よ。是れ安んぞ闕下に積むを得んや」と。趣ちに之を召し入れしむ。皇帝剣を按じて坐す。口正に沫出づ。使者之を召し入る。茅焦疾行するを肯んぜず、足趣きて相過ぎるのみ。使者之を趣す。茅焦曰わく、「臣前に至らば則ち死せん。君独り吾が須臾を忍ぶ能わざるか」と。使者極めて之を哀れむ。茅焦前に至りて再拝謁起し、称して曰わく、「臣之を聞く、夫れ生有る者は死を諱まず、国有る者は亡を諱まず。死を諱む者は以て生を得べからず、亡を諱む者は以て存を得べからず。死生存亡は、聖主の急に聞かんと欲する所なり。審らかならず、陛下之を聞かんと欲するや不や」と。皇帝曰わく、「何の謂いぞや」と。茅焦対えて曰わく、「陛下狂悖の行有り、陛下自ら知らざるか」と。皇帝曰わく、「何等ぞや、聞かんことを願う」と。茅焦対えて曰わく、「陛下仮父を車裂す、嫉妒の心有り。両弟を嚢撲す、不慈の名有り。母を萯陽宮に遷す、不孝の行有り。蒺藜を諫士に従う、桀紂の治有り。今天下之を聞かば、尽く瓦解して秦に嚮う者無からん。臣竊かに秦の亡ぶるを恐れ、陛下の為に之を危ぶむ。言う所已に畢わる。行きて質に就かんことを乞う」と。乃ち衣を解きて質に伏す。皇帝殿を下り、左手に之を接し、右手に左右を麾りて曰わく、「之を赦せ。先生衣に就け、今事を受けんことを願う」と。乃ち焦を立てて仲父と為し、之に上卿を爵す。皇帝駕を立て、千乗万騎、左方を空しくして自ら行きて太后を萯陽宮に迎え、咸陽に帰る。太后大いに喜び、乃ち大いに酒を置きて茅焦を待つ。飲むに及び、太后曰わく、「枉を抗げて直に令め、敗を使て更に成らしめ、秦の社稷を安んず。妾が母子をして復た相会うを得しむる者は、尽く茅君の力なり」と。
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史記 春申君列伝是の歳や、秦の始皇帝立ちて九年なり。嫪毐(ろうあい)もまた乱を秦に為す、覚られ、その三族を夷らげ、而して呂不韋廃せらる。
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