史記 / 李斯列伝
始皇崩於沙丘。趙高謂丞相斯曰、上崩、賜長子扶蘇書、與喪會咸陽而立為嗣。書未行、今上崩、未有知者也。所賜長子書及符璽皆在胡亥所、定太子在君侯與高之口耳。事將何如。斯曰、安得亡國之言、此非人臣所當議也。高曰、君侯自料能孰與蒙恬、功高孰與蒙恬、謀遠不失孰與蒙恬、長子舊而信之孰與蒙恬。斯曰、此五者皆不及蒙恬、而君責之何深也。高曰、長子即位必用蒙恬為丞相、君侯終不懷通侯之印歸於鄉里、明矣。斯乃仰天而嘆、垂淚太息曰、嗟乎、獨遭亂世、既以不能死、安託命哉。於是斯乃聽高。
新字:始皇崩於沙丘。趙高謂丞相斯曰、上崩、賜長子扶蘇書、与喪会咸陽而立為嗣。書未行、今上崩、未有知者也。所賜長子書及符璽皆在胡亥所、定太子在君侯与高之口耳。事将何如。斯曰、安得亡国之言、此非人臣所当議也。高曰、君侯自料能孰与蒙恬、功高孰与蒙恬、謀遠不失孰与蒙恬、長子旧而信之孰与蒙恬。斯曰、此五者皆不及蒙恬、而君責之何深也。高曰、長子即位必用蒙恬為丞相、君侯終不懐通侯之印歸於鄉里、明矣。斯乃仰天而嘆、垂涙太息曰、嗟乎、独遭乱世、既以不能死、安託命哉。於是斯乃聴高。
書き下し
始皇沙丘に崩ず。趙高丞相斯に謂ひて曰く、「上崩じ、長子扶蘇に書を賜ひ、喪と咸陽に会して嗣と立たしむ。書未だ行かず、今上崩ずるも、未だ知る者有らざるなり。長子に賜ふ所の書及び符璽皆胡亥の所に在り、太子を定むるは君侯と高との口に在るのみ。事将に何如せん」と。斯曰く、「安ぞ亡国の言を得ん、此れ人臣の当に議すべき所に非ざるなり」と。高曰く、「君侯自ら料るに能は蒙恬と孰れぞ、功高きは蒙恬と孰れぞ、謀遠くして失はざるは蒙恬と孰れぞ、長子の旧くして之を信ずるは蒙恬と孰れぞ」と。斯曰く、「此の五者皆蒙恬に及ばず、而して君の之を責むる何ぞ深きや」と。高曰く、「長子即位せば必ず蒙恬を用ひて丞相と為し、君侯終に通侯の印を懐きて郷里に帰らざること、明らかなり」と。斯乃ち天を仰ぎて嘆じ、涙を垂れ太息して曰く、「嗟乎、独り乱世に遭ひ、既に以て死する能はず、安くにか命を託せんや」と。是に於いて斯乃ち高に聴く。
現代語訳
「保身と地位への執着につけ込まれ、正しいと分かっていながら大義を売ってしまう」——李斯の運命と、秦帝国の崩壊を決定づけた、沙丘の陰謀における致命的な妥協の一段です。始皇帝が巡幸の途中、沙丘で急死します。宦官の趙高は、始皇帝が正統な後継者に指名した長子・扶蘇への詔書を握りつぶし、暗愚な末子・胡亥を擁立する陰謀を企てます。そして、その成功に不可欠な宰相・李斯を、巧みに引き込みにかかります。李斯は当初、「亡国につながる話だ、臣下の議すべきことではない」と、正論で拒みました。ここで趙高は、李斯の弱点——「地位と保身」——を的確に突きます。「あなたは、能力・功績・信望など、あらゆる点で(扶蘇の側近の)蒙恬に及ぶか」と問い、李斯が「及ばない」と認めると、こうたたみかけます。「扶蘇が即位すれば、必ず蒙恬が宰相になる。あなたは宰相の地位を失い、故郷に帰ることになるのは明らかだ」と。つまり、「正義を貫けば、お前は地位を失うぞ」と、李斯の保身の恐怖を煽ったのです。李斯は、天を仰いで涙し、「ああ、乱世に生まれ、(節を守って)死ぬこともできず、どこに我が身を託せばよいのか」と嘆いた末、ついに趙高の陰謀に加担してしまいました。正しい道が分かっていながら、自分の地位を失う恐怖に負けて、大義を売ったのです。ここに、痛切な教訓があります。第一に、「保身と地位への執着」が、人を最大の過ちに導くということ。李斯は、能力も功績もある人物でしたが、その最大の弱点は、苦労して手にした地位を失うことへの恐怖でした。趙高は、まさにその弱点につけ込んだ。目先の地位・保身を守ろうとする心が、正義や大局を見失わせる。第二に、悪への加担は、多くの場合、明白な悪意からではなく、「保身」「恐怖」「弱さ」から始まるということ。李斯は、悪人になろうとしたのではなく、地位を失う恐怖に負けただけでした。しかし、その一度の妥協が、扶蘇の死、暴君・胡亥の即位、そして秦帝国の崩壊、最後には李斯自身の破滅を招いた。第三に、正しいと分かっていることを貫くには、地位や利益を手放す覚悟が要るということ。組織や人生で、保身や地位への執着につけ込まれて、正しいと分かっていることを曲げていないか、そして大義と自分の地位が対立したとき、地位を手放してでも大義を守れるか——李斯の致命的な妥協は、保身が人を破滅させる恐ろしさを、その後の悲惨な結末をもって教えています。