戦国策 / 楚考烈王無子
楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者進之,甚眾,卒無子。趙人李園,持其女弟,欲進之楚王,聞其不宜子,恐又無寵。李園求事春申君為舍人。已而謁歸,故失期。還謁,春申君問狀。對曰:「齊王遣使求臣女弟,與其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」對曰:「未也。」春申君曰:「可得見乎?」曰:「可。」於是園乃進其女弟,即幸於春申君。知其有身,園乃與其女弟謀。園女弟承間說春申君曰:「楚王之貴幸君,雖兄弟不如。今君相楚王二十餘年,而王無子,即百歲後將更立兄弟。即楚王更立,彼亦各貴其故所親,君又安得長有寵乎?非徒然也?君用事久,多失禮於王兄弟,兄弟誠立,禍且及身,奈何以保相印、江東之封乎?今妾自知有身矣,而人莫知。妾之幸君未久,誠以君之重而進妾於楚王,王必幸妾。妾賴天而有男,則是君之子為王也,楚國封盡可得,孰與其臨不測之罪乎?」春申君大然之。乃出園女弟謹舍,而言之楚王。楚王召入,幸之。遂生子男,立為太子,以李園女弟立為王后。楚王貴李園,李園用事。李園既入其女弟為王后,子為太子,恐春申君語泄而益驕,陰養死士,欲殺春申君以滅口,而國人頗有知之者。春申君相楚二十五年,考烈王病。朱英謂春申君曰:「世有無妄之福,又有無妄之禍。今君處無妄之世,以事無妄之主,安不有無妄之人乎?」春申君曰:「何謂無妄之福?」曰:「君相楚二十餘年矣,雖名為相國,實楚王也。五子皆相諸侯。今王疾甚,旦暮且崩,太子衰弱,疾而不起,而君相少主,因而代立當國,如伊尹、周公。王長而反政,不,即遂南面稱孤,因而有楚國。此所謂無妄之福也。」春申君曰:「何謂無妄之禍?」曰:「李園不治國,王之舅也。不為兵將,而陰養死士之日久矣。楚王崩,李園必先入,據本議制斷君命,秉權而殺君以滅口。此所謂無妄之禍也。」春申君曰:「何謂無妄之人?」曰:「君先仕臣為郎中,君王崩,李園先入,臣請為君𠟍其胸殺之。此所謂無妄之人也。」春申君曰:「先生置之,勿復言已。李園,軟弱人也,僕又善之,又何至此?」朱英恐,乃亡去。後十七日,楚考烈王崩,李園果先入,置死士,止於棘門之內。春申君後入,止棘門。園死士夾刺春申君,斬其頭,投之棘門外。於是使吏盡滅春申君之家。而李園女弟,初幸春申君有身,而入之王所生子者,遂立為楚幽王也。是歲,秦始皇立九年矣。嫪毐亦為亂於秦。覺,夷三族,而呂不韋廢。:續:越絕書,隋經籍志稱為子貢作。今雜記秦、漢事,疑後人所羼,不敢盡信。史記、戰國策、列女傳,不載女環之名,止見於此。其畫策終始,信如此,皆出於女環,尤為異也。至言烈王死後,李園相春申君,方封於吳,又立其子為假君,皆與史記、國策不合。聊記于此,以廣異聞。
新字:楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者進之,甚眾,卒無子。趙人李園,持其女弟,欲進之楚王,聞其不宜子,恐又無寵。李園求事春申君為舎人。已而謁帰,故失期。還謁,春申君問状。対曰:「斉王遣使求臣女弟,与其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」対曰:「未也。」春申君曰:「可得見乎?」曰:「可。」於是園乃進其女弟,即幸於春申君。知其有身,園乃与其女弟謀。園女弟承間説春申君曰:「楚王之貴幸君,雖兄弟不如。今君相楚王二十余年,而王無子,即百歳後将更立兄弟。即楚王更立,彼亦各貴其故所親,君又安得長有寵乎?非徒然也?君用事久,多失礼於王兄弟,兄弟誠立,禍且及身,奈何以保相印、江東之封乎?今妾自知有身矣,而人莫知。妾之幸君未久,誠以君之重而進妾於楚王,王必幸妾。妾頼天而有男,則是君之子為王也,楚国封尽可得,孰与其臨不測之罪乎?」春申君大然之。乃出園女弟謹舎,而言之楚王。楚王召入,幸之。遂生子男,立為太子,以李園女弟立為王后。楚王貴李園,李園用事。李園既入其女弟為王后,子為太子,恐春申君語泄而益驕,陰養死士,欲殺春申君以滅口,而国人頗有知之者。春申君相楚二十五年,考烈王病。朱英謂春申君曰:「世有無妄之福,又有無妄之禍。今君処無妄之世,以事無妄之主,安不有無妄之人乎?」春申君曰:「何謂無妄之福?」曰:「君相楚二十余年矣,雖名為相国,実楚王也。五子皆相諸侯。今王疾甚,旦暮且崩,太子衰弱,疾而不起,而君相少主,因而代立当国,如伊尹、周公。王長而反政,不,即遂南面称孤,因而有楚国。此所謂無妄之福也。」春申君曰:「何謂無妄之禍?」曰:「李園不治国,王之舅也。不為兵将,而陰養死士之日久矣。楚王崩,李園必先入,拠本議制断君命,秉権而殺君以滅口。此所謂無妄之禍也。」春申君曰:「何謂無妄之人?」曰:「君先仕臣為郎中,君王崩,李園先入,臣請為君𠟍其胸殺之。此所謂無妄之人也。」春申君曰:「先生置之,勿復言已。李園,軟弱人也,僕又善之,又何至此?」朱英恐,乃亡去。後十七日,楚考烈王崩,李園果先入,置死士,止於棘門之内。春申君後入,止棘門。園死士夾刺春申君,斬其頭,投之棘門外。於是使吏尽滅春申君之家。而李園女弟,初幸春申君有身,而入之王所生子者,遂立為楚幽王也。是歳,秦始皇立九年矣。嫪毐亦為乱於秦。覚,夷三族,而呂不韋廃。:続:越絶書,隋経籍志称為子貢作。今雑記秦、漢事,疑後人所羼,不敢尽信。史記、戦国策、列女伝,不載女環之名,止見於此。其画策終始,信如此,皆出於女環,尤為異也。至言烈王死後,李園相春申君,方封於吳,又立其子為仮君,皆与史記、国策不合。聊記于此,以広異聞。
書き下し
楚の考烈王子無し、春申君之を患い、婦人の子に宜しき者を求めて之を進むること甚だ衆きも、卒に子無し。趙人李園、其の女弟を持し、之を楚王に進めんと欲するも、其の子に宜しからざるを聞き、恐らくは又寵無からんとす。李園、春申君に事えんことを求めて舎人と為る。已にして帰るを謁し、故らに期を失う。還りて謁す、春申君状を問う。対えて曰く、「斉王使いを遣わして臣が女弟を求む、其の使者と飲む、故に期を失えり。」春申君曰く、「聘入りしか。」対えて曰く、「未だなり。」春申君曰く、「見ゆるを得べきか。」曰く、「可なり。」是に於て園乃ち其の女弟を進め、即ち春申君に幸せらる。其の身有るを知り、園乃ち其の女弟と謀る。園の女弟間に承じて春申君に説きて曰く、「楚王の君を貴幸するは、兄弟と雖も如かず。今、君楚王に相たること二十余年、而して王子無し、即ち百歳の後将に更に兄弟を立てんとす。即ち楚王更に立たば、彼も亦各々其の故の親しむ所を貴ばん、君又安んぞ長く寵を有つを得んや。徒だ然るのみに非ざるなり。君事を用うること久しく、多く王の兄弟に礼を失えり、兄弟誠に立たば、禍且に身に及ばんとす、奈何ぞ以て相印・江東の封を保たんや。今、妾自ら身有るを知る、而して人未だ知る莫し。妾の君に幸せらるること未だ久しからず、誠に君の重きを以て妾を楚王に進めば、王必ず妾を幸せん。妾天に頼りて男有らば、則ち是れ君の子王為るなり、楚国封尽く得べし、其の不測の罪に臨むと孰与れぞ。」春申君大いに之を然りとす。乃ち園の女弟を出だして謹んで舎し、而して之を楚王に言う。楚王入れしめ、之を幸す。遂に子男を生み、立てて太子と為し、李園の女弟を以て王后と為す。楚王李園を貴び、李園事を用う。李園既に其の女弟を入れて王后と為し、子太子と為るや、春申君の語泄れて益々驕らんことを恐れ、陰かに死士を養い、春申君を殺して以て口を滅せんと欲す、而して国人頗る之を知る者有り。春申君楚に相たること二十五年、考烈王病む。朱英、春申君に謂いて曰く、「世に無妄の福有り、又無妄の禍有り。今、君無妄の世に処り、無妄の主に事う、安んぞ無妄の人有らざらんや。」春申君曰く、「何をか無妄の福と謂う。」曰く、「君楚に相たること二十余年、名を相国と為すと雖も、実は楚王なり。五子皆諸侯に相たり。今、王疾甚だしく、旦暮に且に崩ぜんとし、太子衰弱にして、疾みて起たず、而して君少主に相たり、因りて代わりて立ちて国に当たること、伊尹・周公の如し。王長じて政を反さば、然らずんば、即ち遂に南面して孤と称し、因りて楚国を有たん。此れ所謂無妄の福なり。」春申君曰く、「何をか無妄の禍と謂う。」曰く、「李園国を治めずして、王の舅なり。兵将為らずして、陰かに死士を養うの日久し。楚王崩ぜば、李園必ず先ず入り、本議に拠りて君命を制断し、権を秉りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂無妄の禍なり。」春申君曰く、「何をか無妄の人と謂う。」曰く、「君先に臣を仕えしめて郎中と為せ、君王崩ぜば、李園先ず入らん、臣請う君の為に其の胸を椓きて之を殺さん。此れ所謂無妄の人なり。」春申君曰く、「先生之を置け、復た言うこと勿かれ已。李園は軟弱の人なり、僕又之に善し、又何ぞ此に至らんや。」朱英恐れ、乃ち亡げ去る。後十七日、楚の考烈王崩じ、李園果たして先ず入り、死士を置き、棘門の内に止まる。春申君後れて入り、棘門に止まる。園の死士、春申君を夾みて刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於て吏をして尽く春申君の家を滅せしむ。而して李園の女弟、初め春申君に幸せられて身有り、王の所に入りて生む所の子は、遂に立ちて楚の幽王と為るなり。是の歳、秦の始皇立ちて九年なり。嫪毐も亦秦に於て乱を為す。覚れ、三族を夷し、而して呂不韋廃せらる。續(つづき):越絶書は、隋経籍志に子貢の作と称せらる。今秦漢の事を雑記す、疑うらくは後人の羼(まじ)うる所ならん、敢えて尽くは信ぜず。史記・戦国策・列女伝は、女環の名を載せず、止だ此に見ゆるのみ。其の画策の終始、信に此くの如くんば、皆女環より出づ、尤も異と為すなり。烈王死するの後、李園春申君に相たり、方に呉に封ぜられ、又其の子を立てて仮君と為すに至りて言えば、皆史記・国策と合わず。聊か此に記して、以て異聞を広む。
現代語訳
楚の考烈王には子がなく、春申君はこれを憂え、子を宿しやすい体質の女性を探して数多く王に差し出したが、それでも子はできなかった。趙の人・李園は自分の妹を連れており、これを楚王に差し出そうとしたが、妹が子を授かりにくい体質だと聞いて、そうなればいずれ寵愛を失うだろうと恐れた。そこで李園は春申君に仕えることを求め、その家臣となった。しばらくして帰郷の暇を願い出て、わざと期限に遅れて戻った。戻って挨拶に出ると、春申君はその事情を尋ねた。李園は答えた。「斉王が使者を遣わして私の妹を(后として)求めてまいりました。その使者と酒を酌み交わしていたため、期限に遅れてしまいました。」春申君は「(斉への)輿入れはもう決まったのか」と尋ねた。李園は「まだです」と答えた。春申君は「(その妹に)会うことはできるか」と尋ねた。李園は「よろしいです」と答えた。そこで李園は妹を差し出し、彼女はすぐに春申君の寵愛を受けた。妹が身ごもったと知ると、李園は妹と謀った。李園の妹は機会をうかがって春申君に説いた。「楚王があなたを重んじ寵愛することは、王の実の兄弟でさえ及びません。今、あなたは楚の宰相となって二十年余り、それなのに王には子がなく、王が亡くなれば兄弟の誰かが新たに立てられることになるでしょう。そうして新しい楚王が立てば、その王もまたそれぞれ自分の元からの側近を重んじるはずです。あなたはどうして長くこの寵愛を保つことができましょうか。それだけではありません。あなたは長く政務を執ってこられた中で、王の兄弟たちに対して礼を失う場面も多かったはずです。もし本当に兄弟の誰かが王位に立てば、災いはあなたの身に及ぶでしょう。そうなれば、どうして宰相の印や江東の封地を保つことができましょうか。今、私は自分が身ごもったことを知っておりますが、まだ誰も知りません。私があなたの寵愛を受けてまだ日が浅いうちに、あなたの重い立場をもって私を楚王に差し出していただければ、王は必ず私を寵愛なさるでしょう。私が天の助けを得て男の子を産めば、それはあなたの子が王になるということです。楚国はすべてあなたのものとなるでしょう。それは、いつ身に降りかかるか分からない罪に怯えながら暮らすのとでは、比べものにならないほど良いことです。」春申君はこれを大いにもっともだと思った。そこで李園の妹を(自分の屋敷から)出して丁重に別の場所に住まわせ、楚王にこの女性のことを話した。楚王は召し入れ、彼女を寵愛した。やがて彼女は男児を産み、その子は太子に立てられ、李園の妹は王后に立てられた。楚王は李園を重んじ、李園は実権を握るようになった。李園はすでに妹を王后とし、その子を太子としたので、春申君がこの秘密を漏らしてますます驕るのではないかと恐れ、ひそかに命知らずの死士を養い、春申君を殺してその口を封じようとした。国の人々の中にはこのことにかなり気づいている者もいた。春申君が楚の宰相となって二十五年、考烈王が病に倒れた。朱英が春申君に言った。「世の中には予期せぬ幸運もあれば、予期せぬ災いもあります。今、あなたは予期せぬことの起こりやすい時世に身を置き、予期せぬことの起こりやすい主君にお仕えしています。であれば、予期せぬ事態に対応してくれる人がいなくてよいはずがありません。」春申君は「予期せぬ幸運とは何か」と尋ねた。朱英は言った。「あなたは楚の宰相となって二十年余り、名目上は宰相ですが、実質は楚王も同然です。あなたの五人の子はみな諸侯の宰相となっています。今、王の病は重く、いつ崩御してもおかしくない状況で、太子はまだ幼く弱い身です。もし太子が病弱で立てないような事態になれば、あなたが幼い主君を補佐し、そのまま代わって国政に当たることになりましょう、まるで伊尹や周公のように。王が成長すれば政権をお返しになればよいですし、そうでなければ、そのまま南面して自ら王となり、楚国を丸ごと手にすることもできましょう。これがいわゆる予期せぬ幸運です。」春申君は「予期せぬ災いとは何か」と尋ねた。朱英は言った。「李園は国政には関わっておりませんが、王の外戚(舅)です。軍を率いる将でもないのに、ひそかに死士を養う日々が長く続いています。楚王が崩御すれば、李園は必ず真っ先に宮中に入り、事前の相談内容をたてに王命を勝手に取り仕切り、権力を握ってあなたを殺し、口を封じようとするでしょう。これがいわゆる予期せぬ災いです。」春申君は「予期せぬ災いに備える人とは何か」と尋ねた。朱英は言った。「あなたが先に私を郎中(側近の官)に任じてください。王が崩御すれば、李園が真っ先に入ってくるでしょうから、私があなたのために、その胸を突いて彼を殺しましょう。これがいわゆる予期せぬ事態に備える人です。」春申君は言った。「先生、その話はもうそれきりにして、二度と言わないでほしい。李園は気の弱い人物だ、私も彼とは仲が良い、どうしてそこまでのことになろうか。」朱英は恐れをなし、そのまま出奔して姿を消した。それから十七日後、楚の考烈王が崩御し、李園ははたして真っ先に宮中に入り、死士を配置して棘門の内側に控えさせた。春申君は遅れて入り、棘門で足を止めた。李園の死士たちは春申君を左右から挟んで刺し殺し、その首を斬って棘門の外に投げ捨てた。そして役人に命じて春申君の一族をことごとく滅ぼさせた。李園の妹は、もともと春申君の寵愛を受けて身ごもり、そのまま楚王のもとに入って産んだ子が、そのまま即位して楚の幽王となったのである。この年、秦の始皇帝が即位して九年目であった。嫪毐もまた秦で反乱を起こした。それが発覚し、三族皆殺しとなり、呂不韋も罷免された。〈続けて言う〉『越絶書』は、隋書経籍志によれば子貢の作とされる。だが実際には秦・漢の事柄が雑然と記されており、後世の人による混入ではないかと疑われ、全てをそのまま信じるわけにはいかない。『史記』『戦国策』『列女伝』には(この妹の名として)「女環」という名は記載がなく、この書にのみ見える。もしその策略の一部始終が本当にこの通りであったなら、すべては女環という一人の女性の企てから出たことになり、これは実に異例のことである。さらに、考烈王が死んだ後、李園が春申君に代わって宰相となり、呉の地に封じられ、その子を仮の君主に立てたと言うに至っては、いずれも『史記』『戦国策』の記述とは食い違っている。ここに参考として記し、異なる伝承を広く伝えておく。
解説
この章句が説くこと
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史記 春申君列伝楚の考烈王子無く、春申君之を患ひ、婦人の子に宜しき者を求めて之を進むるも、卒に子無し。趙人李園其の女弟を持し、之を楚王に進めんと欲するも、其の子に宜しからざるを聞き、久しくして寵無きを恐る。李園春申君に事へて舍人と為らんことを求め、乃ち其の女弟を進め、即ち春申君に幸せらる。其の身有るを知り、李園乃ち其の女弟と謀る。園の女弟春申君に説きて曰く、「楚王の君を貴幸すること、兄弟と雖も如かざるなり。今君楚に相たること二十余年、而して王子無く、即し百歳の後将に兄弟を更立せんとせば、君又安ぞ長く寵有るを得んや。今妾自ら身有るを知る、而して人知る莫し。誠に君の重を以て妾を楚王に進めば、王必ず妾を幸せん。妾天に頼りて子男有らば、則ち是れ君の子王と為るなり、楚国尽く得可し、孰れぞ身不測の罪に臨むと」と。春申君大いに之を然りとし、乃ち李園の女弟を出だし、謹みて舍して之を楚王に言ふ。楚王召し入れて之を幸し、遂に子男を生み、立てて太子と為し、李園の女弟を以て王后と為す。楚王李園を貴び、園用事す。
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史記 春申君列伝後十七日、楚の考烈王卒し、李園果たして先づ入り、死士を棘門の内に伏す。春申君棘門に入るや、園の死士春申君を俠刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於いて遂に吏をして尽く春申君の家を滅ぼさしむ。而して李園の女弟初め春申君に幸せられ身有りて之を王に入れて生む所の子遂に立つ、是を楚の幽王と為す。
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史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、又毋望の禍有り。今君毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安ぞ以て毋望の人無かる可けんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先づ入りて権に拠り君を殺して以て口を滅せん、此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君臣を郎中に置け、楚王卒せば、李園必ず先づ入らん、臣君の為に李園を殺さん、此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下之を置け、李園は弱人なり、仆又之を善くす、且つ又何ぞ此に至らん」と。朱英言の用ゐられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
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史記 春申君列伝黄歇約を受けて楚に帰る。楚歇と太子完をして秦に入質せしめ、秦之を留むること数年。楚の頃襄王病み、太子帰るを得ず。而して楚の太子秦の相応侯と善し。是に於いて黄歇乃ち応侯に説きて曰く、「今楚王恐らくは疾に起きざらん、秦其の太子を帰すに如かず。太子立つを得ば、其の秦に事ふること必ず重くして相国に徳とすること無窮ならん。若し帰さずんば、則ち咸陽の一布衣のみ」と。応侯以て秦王に聞す。秦王曰く、「楚の太子の傅をして先づ往きて楚王の疾を問はしめ、返りて而る後に之を図れ」と。黄歇太子の為に計りて曰く、「秦の太子を留むるは、利を求めんと欲すればなり。今太子未だ以て秦を利する能はず。秦を亡げ、使者と俱に出づるに如かず、臣止まりて、死を以て之に当たらんことを請ふ」と。楚の太子因りて衣服を変じて楚の使者の御と為りて以て関を出づ。而して黄歇舍を守り、常に謝病を為す。太子已に遠きを度り、秦追ふ能はず、歇乃ち自ら秦の昭王に言ひて曰く、「楚の太子已に帰り、出でて遠し。歇当に死すべし、願はくは死を賜へ」と。昭王大いに怒り、其の自殺を聴かんと欲す。応侯曰く、「歇人臣為りて、身を出だして以て其の主に徇ふ、太子立たば必ず歇を用ゐん、罪無くして之を帰すに如かず」と。秦因りて黄歇を遣す。
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戦国策・楚王死楚王死す、太子齊に質為(た)り。蘇秦、薛公に謂ひて曰く、「君何ぞ楚の太子を留めて、以て其の下東國を市(か)はざる。」薛公曰く、「不可なり。我太子を留めば、郢中王を立てん、然らば則ち是れ我空質を抱きて天下に不義を行ふなり。」蘇秦曰く、「然らず。郢中王を立てば、君因りて其の新王に謂ひて曰はん、『我に下東國を與へよ、吾王の爲に太子を殺さん。然らずんば、吾將に三國と共に之を立てんとす。』然らば則ち下東國必ず得可きなり。」蘇秦の事、以て行くを請ふ可し。以て楚王をして亟(すみ)やかに下東國に入らしむ可し。以て楚に益割せしむ可し。以て太子に忠にして楚をして益地を入れしむ可し。以て楚王の爲に太子を走らしむ可し。以て太子に忠にして之をして亟やかに去らしむ可し。以て人をして蘇秦を薛公に惡ましむ可し。以て蘇秦の爲に楚に封を請ふ可し。以て人をして薛公に説きて以て蘇子を善くせしむ可し。以て蘇子をして自ら薛公に解かしむ可し。蘇秦、薛公に謂ひて曰く、「臣聞く、謀泄る者は事功無く、計決せざる者は名成らず、と。今君太子を留むる者は、以て下東國を市はんとするなり。亟やかに下東國を得る者に非ずんば、則ち楚の計變ぜん、變ぜば則ち是れ君空質を抱きて名を天下に負ふなり。」薛公曰く、「善し。之を爲すこと奈何。」對へて曰く、「臣請ふ君の爲に楚に之き、亟やかに下東國の地に入らしめん。楚成るを得ば、則ち君敗るる無からん。」薛公曰く、「善し。」因りて之を遣る。楚王に謂ひて曰く、「齊太子を奉じて之を立てんと欲す。臣薛公の太子を留むるを觀るに、以て下東國を市はんとするなり。今王亟やかに下東國に入れずんば、則ち太子且に王の割を倍して齊をして己を奉ぜしめん。」楚王曰く、「謹んで命を受けん。」因りて下東國を獻ず。故に曰く、楚をして亟やかに地を入れしむ可きなり、と。薛公に謂ひて曰く、「楚の勢多く割く可きなり。」薛公曰く、「奈何。」「請ふ太子に其の故を告げ、太子をして君に謁せしめ、以て太子に忠にし、楚王をして之を聞かしめば、以て益地を入れしむ可し。」故に曰く、以て楚に益割せしむ可きなり、と。太子に謂ひて曰く、「齊太子を奉じて之を立てんとす、楚王地を割きて以て太子を留めんことを請ふも、齊其の地を少しとす。太子何ぞ楚の割地に倍して齊に資(と)らざる、齊必ず太子を奉ぜん。」太子曰く、「善し。」楚の割に倍して齊に延く。楚王之を聞きて恐れ、益地を割きて之を獻じ、尚ほ事の成らざらんことを恐る。故に曰く、以て楚をして益地を入れしむ可きなり、と。楚王に謂ひて曰く、「齊の敢へて多く地を割く所以の者は、太子を挾めばなり。今已に地を得て求めて止まざる者は、太子を以て王に權すればなり。故に臣能く太子を去らしめん。太子去らば、齊辭無く、必ず王に倍かじ。王因りて強齊に馳せて交を爲さば、齊辭し、必ず王に聽かん。然らば則ち是れ王讎を去りて齊の交を得るなり。」楚王大いに悅びて曰く、「請ふ國を以て因(よ)らん。」故に曰く、以て楚王の爲に太子をして亟やかに去らしむ可きなり、と。太子に謂ひて曰く、「夫れ楚を剬(た)つ者は王なり、空名を以て巿ふ者は太子なり、齊未だ必ずしも太子の言を信ぜざるなり、而して楚の功見(あら)はる。楚の交成らば、太子必ず危からん。太子其れ之を圖れ。」太子曰く、「謹んで命を受けん。」乃ち車を約して暮に去る。故に曰く、以て太子をして急に去らしむ可きなり、と。蘇秦人をして薛公に請ひて曰はしむ、「夫れ太子を留めんことを勸めし者は蘇秦なり。蘇秦誠に君の爲にするに非ざるなり、且つ以て楚を便にするなり。蘇秦君の之を知るを恐る、故に多く楚を割きて以て跡を滅す。今太子を勸むる者又蘇秦なり、而るに君知らず、臣竊かに君の爲に之を疑ふ。」薛公大いに蘇秦を怒る。故に曰く、人をして蘇秦を薛公に惡ましむ可きなり、と。又人をして楚王に謂はしめて曰く、「夫れ薛公をして太子を留めしめし者は蘇秦なり、王を奉じて楚太子に代へて立てし者も又蘇秦なり、地を割きて約を固めし者も又蘇秦なり、王に忠にして太子を走らしめし者も又蘇秦なり。今人蘇秦を薛公に惡む、其の齊の爲に薄くして楚の爲に厚きを以てなり。願はくは王の之を知らんことを。」楚王曰く、「謹んで命を受けん。」因りて蘇秦を封じて武貞君と爲す。故に曰く、以て蘇秦の爲に楚に封を請ふ可きなり、と。又景鯉をして薛公に請はしめて曰はしむ、「君の天下に重んぜらるる所以の者は、能く天下の士を得て齊の權有るを以てなり。今蘇秦は天下の辯士なり、世與に少なく有り。君因りて蘇秦を善くせずんば、則ち是れ天下の士を圍塞して説途を利せざるなり。夫れ君を善くせざる者は且に蘇秦を奉ぜんとす、而して君の事殆(あやう)し。今蘇秦楚王に善くせられて、君蚤く親しまずんば、則ち是れ身自ら楚と讎を爲すなり。故に君因りて之に親しみ、貴びて之を重んずるに如かず、是れ君楚を有つなり。」薛公因りて蘇秦を善くす。故に曰く、以て蘇秦の爲に薛公に説きて蘇秦を善くせしむ可きなり、と。
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戦国策・客說春申君客、春申君に説きて曰く、「湯は亳を以てし、武王は鄗を以てす、皆百里を過ぎずして天下を有てり。今、孫子は天下の賢人なり、君之に籍すに百里の勢を以てす、臣竊かに以て君に便ならずと為す。何如。」春申君曰く、「善し。」是に於て人をして孫子に謝せしむ。孫子去りて趙に之き、趙以て上卿と為す。客又春申君に説きて曰く、「昔、伊尹は夏を去りて殷に入り、殷王として夏亡ぶ。管仲は魯を去りて斉に入り、魯弱くして斉強し。夫れ賢者の在る所、其の君未だ嘗て尊ばれざるなく、国未だ嘗て栄えざるなきなり。今、孫子は天下の賢人なり。君何ぞ之を辞せんや。」春申君又曰く、「善し。」是に於て人をして孫子を趙に請わしむ。孫子書を為りて謝して曰く、「癘人(れいじん)王を憐れむは、此れ不恭の語なり。然りと雖も、審察せざるべからざるなり。此れ劫弑死亡の主の為の言なり。夫れ人主年少にして材を矜り、法術以て奸を知る無ければ、則ち大臣国を主断し私して以て己に禁誅す、故に賢長を弑して幼弱を立て、正適を廃して不義を立つ。春秋に之を戒めて曰く、『楚の王子囲、鄭に聘し、未だ竟を出でざるに、王病むを聞き、反りて疾を問い、遂に冠纓を以て王を絞めて之を殺し、因りて自ら立つ。斉の崔杼の妻美にして、荘公之に通ず。崔杼其の君の党を帥いて攻む。荘公与に国を分かたんことを請うも、崔杼許さず。自ら廟に刃せんと欲するも、崔杼許さず。荘公走りて出で、外牆を踰え、股に射中つ、遂に之を殺し、其の弟景公を立つ。』近代見る所、李兌趙を用い、主父を沙丘に餓えしめ、百日にして之を殺す。淖歯斉を用い、閔王の筋を擢き、其の廟梁に県け、宿夕にして死す。夫れ厲は癕腫胞疾と雖も、上は前世に比するに、未だ纓を絞め股を射るに至らず、下は近代に比するに、未だ筋を擢きて餓死せしむるに至らざるなり。夫れ劫弑死亡の主や、心の憂労、形の困苦、必ず癘より甚だし。此に由りて之を観れば、癘は王を憐れむと雖も可なり。」因りて賦を為して曰く、「宝珍隋珠、佩ぶるを知らざるかな。褘布と糸と、異なるを知らざるかな。閭姝・子奢、媒するを知る莫きかな。嫫母之を求め、又甚だ之を喜ぶかな。瞽を以て明と為し、聾を以て聡と為し、是を以て非と為し、吉を以て凶と為す。嗚呼上天、曷ぞ其れ同じからん。」詩に曰く、「上天甚だ神なり、自ら瘵むこと無かれ。」