戦国策 / 楚考烈王無子
楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者進之,甚眾,卒無子。趙人李園,持其女弟,欲進之楚王,聞其不宜子,恐又無寵。李園求事春申君為舍人。已而謁歸,故失期。還謁,春申君問狀。對曰:「齊王遣使求臣女弟,與其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」對曰:「未也。」春申君曰:「可得見乎?」曰:「可。」於是園乃進其女弟,即幸於春申君。知其有身,園乃與其女弟謀。園女弟承間說春申君曰:「楚王之貴幸君,雖兄弟不如。今君相楚王二十餘年,而王無子,即百歲後將更立兄弟。即楚王更立,彼亦各貴其故所親,君又安得長有寵乎?非徒然也?君用事久,多失禮於王兄弟,兄弟誠立,禍且及身,奈何以保相印、江東之封乎?今妾自知有身矣,而人莫知。妾之幸君未久,誠以君之重而進妾於楚王,王必幸妾。妾賴天而有男,則是君之子為王也,楚國封盡可得,孰與其臨不測之罪乎?」春申君大然之。乃出園女弟謹舍,而言之楚王。楚王召入,幸之。遂生子男,立為太子,以李園女弟立為王后。楚王貴李園,李園用事。李園既入其女弟為王后,子為太子,恐春申君語泄而益驕,陰養死士,欲殺春申君以滅口,而國人頗有知之者。春申君相楚二十五年,考烈王病。朱英謂春申君曰:「世有無妄之福,又有無妄之禍。今君處無妄之世,以事無妄之主,安不有無妄之人乎?」春申君曰:「何謂無妄之福?」曰:「君相楚二十餘年矣,雖名為相國,實楚王也。五子皆相諸侯。今王疾甚,旦暮且崩,太子衰弱,疾而不起,而君相少主,因而代立當國,如伊尹、周公。王長而反政,不,即遂南面稱孤,因而有楚國。此所謂無妄之福也。」春申君曰:「何謂無妄之禍?」曰:「李園不治國,王之舅也。不為兵將,而陰養死士之日久矣。楚王崩,李園必先入,據本議制斷君命,秉權而殺君以滅口。此所謂無妄之禍也。」春申君曰:「何謂無妄之人?」曰:「君先仕臣為郎中,君王崩,李園先入,臣請為君𠟍其胸殺之。此所謂無妄之人也。」春申君曰:「先生置之,勿復言已。李園,軟弱人也,僕又善之,又何至此?」朱英恐,乃亡去。後十七日,楚考烈王崩,李園果先入,置死士,止於棘門之內。春申君後入,止棘門。園死士夾刺春申君,斬其頭,投之棘門外。於是使吏盡滅春申君之家。而李園女弟,初幸春申君有身,而入之王所生子者,遂立為楚幽王也。是歲,秦始皇立九年矣。嫪毐亦為亂於秦。覺,夷三族,而呂不韋廢。:續:越絕書,隋經籍志稱為子貢作。今雜記秦、漢事,疑後人所羼,不敢盡信。史記、戰國策、列女傳,不載女環之名,止見於此。其畫策終始,信如此,皆出於女環,尤為異也。至言烈王死後,李園相春申君,方封於吳,又立其子為假君,皆與史記、國策不合。聊記于此,以廣異聞。
新字:楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者進之,甚衆,卒無子。趙人李園,持其女弟,欲進之楚王,聞其不宜子,恐又無寵。李園求事春申君為舎人。已而謁帰,故失期。還謁,春申君問状。対曰:「斉王遣使求臣女弟,与其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」対曰:「未也。」春申君曰:「可得見乎?」曰:「可。」於是園乃進其女弟,即幸於春申君。知其有身,園乃与其女弟謀。園女弟承間説春申君曰:「楚王之貴幸君,雖兄弟不如。今君相楚王二十余年,而王無子,即百歳後将更立兄弟。即楚王更立,彼亦各貴其故所親,君又安得長有寵乎?非徒然也?君用事久,多失礼於王兄弟,兄弟誠立,禍且及身,奈何以保相印、江東之封乎?今妾自知有身矣,而人莫知。妾之幸君未久,誠以君之重而進妾於楚王,王必幸妾。妾頼天而有男,則是君之子為王也,楚国封尽可得,孰与其臨不測之罪乎?」春申君大然之。乃出園女弟謹舎,而言之楚王。楚王召入,幸之。遂生子男,立為太子,以李園女弟立為王后。楚王貴李園,李園用事。李園既入其女弟為王后,子為太子,恐春申君語泄而益驕,陰養死士,欲殺春申君以滅口,而国人頗有知之者。春申君相楚二十五年,考烈王病。朱英謂春申君曰:「世有無妄之福,又有無妄之禍。今君処無妄之世,以事無妄之主,安不有無妄之人乎?」春申君曰:「何謂無妄之福?」曰:「君相楚二十余年矣,雖名為相国,実楚王也。五子皆相諸侯。今王疾甚,旦暮且崩,太子衰弱,疾而不起,而君相少主,因而代立当国,如伊尹、周公。王長而反政,不,即遂南面称孤,因而有楚国。此所謂無妄之福也。」春申君曰:「何謂無妄之禍?」曰:「李園不治国,王之舅也。不為兵将,而陰養死士之日久矣。楚王崩,李園必先入,拠本議制断君命,秉権而殺君以滅口。此所謂無妄之禍也。」春申君曰:「何謂無妄之人?」曰:「君先仕臣為郎中,君王崩,李園先入,臣請為君𠟍其胸殺之。此所謂無妄之人也。」春申君曰:「先生置之,勿復言已。李園,軟弱人也,僕又善之,又何至此?」朱英恐,乃亡去。後十七日,楚考烈王崩,李園果先入,置死士,止於棘門之内。春申君後入,止棘門。園死士夾刺春申君,斬其頭,投之棘門外。於是使吏尽滅春申君之家。而李園女弟,初幸春申君有身,而入之王所生子者,遂立為楚幽王也。是歳,秦始皇立九年矣。嫪毐亦為乱於秦。覚,夷三族,而呂不韋廃。:続:越絶書,隋経籍志称為子貢作。今雑記秦、漢事,疑後人所羼,不敢尽信。史記、戦国策、列女伝,不載女環之名,止見於此。其画策終始,信如此,皆出於女環,尤為異也。至言烈王死後,李園相春申君,方封於呉,又立其子為仮君,皆与史記、国策不合。聊記于此,以広異聞。
書き下し
楚の考烈王子無し、春申君之を患い、婦人の子に宜しき者を求めて之を進むること甚だ衆きも、卒に子無し。趙人李園、其の女弟を持し、之を楚王に進めんと欲するも、其の子に宜しからざるを聞き、恐らくは又寵無からんとす。李園、春申君に事えんことを求めて舎人と為る。已にして帰るを謁し、故らに期を失う。還りて謁す、春申君状を問う。対えて曰く、「斉王使いを遣わして臣が女弟を求む、其の使者と飲む、故に期を失えり。」春申君曰く、「聘入りしか。」対えて曰く、「未だなり。」春申君曰く、「見ゆるを得べきか。」曰く、「可なり。」是に於て園乃ち其の女弟を進め、即ち春申君に幸せらる。其の身有るを知り、園乃ち其の女弟と謀る。園の女弟間に承じて春申君に説きて曰く、「楚王の君を貴幸するは、兄弟と雖も如かず。今、君楚王に相たること二十余年、而して王子無し、即ち百歳の後将に更に兄弟を立てんとす。即ち楚王更に立たば、彼も亦各々其の故の親しむ所を貴ばん、君又安んぞ長く寵を有つを得んや。徒だ然るのみに非ざるなり。君事を用うること久しく、多く王の兄弟に礼を失えり、兄弟誠に立たば、禍且に身に及ばんとす、奈何ぞ以て相印・江東の封を保たんや。今、妾自ら身有るを知る、而して人未だ知る莫し。妾の君に幸せらるること未だ久しからず、誠に君の重きを以て妾を楚王に進めば、王必ず妾を幸せん。妾天に頼りて男有らば、則ち是れ君の子王為るなり、楚国封尽く得べし、其の不測の罪に臨むと孰与れぞ。」春申君大いに之を然りとす。乃ち園の女弟を出だして謹んで舎し、而して之を楚王に言う。楚王入れしめ、之を幸す。遂に子男を生み、立てて太子と為し、李園の女弟を以て王后と為す。楚王李園を貴び、李園事を用う。李園既に其の女弟を入れて王后と為し、子太子と為るや、春申君の語泄れて益々驕らんことを恐れ、陰かに死士を養い、春申君を殺して以て口を滅せんと欲す、而して国人頗る之を知る者有り。春申君楚に相たること二十五年、考烈王病む。朱英、春申君に謂いて曰く、「世に無妄の福有り、又無妄の禍有り。今、君無妄の世に処り、無妄の主に事う、安んぞ無妄の人有らざらんや。」春申君曰く、「何をか無妄の福と謂う。」曰く、「君楚に相たること二十余年、名を相国と為すと雖も、実は楚王なり。五子皆諸侯に相たり。今、王疾甚だしく、旦暮に且に崩ぜんとし、太子衰弱にして、疾みて起たず、而して君少主に相たり、因りて代わりて立ちて国に当たること、伊尹・周公の如し。王長じて政を反さば、然らずんば、即ち遂に南面して孤と称し、因りて楚国を有たん。此れ所謂無妄の福なり。」春申君曰く、「何をか無妄の禍と謂う。」曰く、「李園国を治めずして、王の舅なり。兵将為らずして、陰かに死士を養うの日久し。楚王崩ぜば、李園必ず先ず入り、本議に拠りて君命を制断し、権を秉りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂無妄の禍なり。」春申君曰く、「何をか無妄の人と謂う。」曰く、「君先に臣を仕えしめて郎中と為せ、君王崩ぜば、李園先ず入らん、臣請う君の為に其の胸を椓きて之を殺さん。此れ所謂無妄の人なり。」春申君曰く、「先生之を置け、復た言うこと勿かれ已。李園は軟弱の人なり、僕又之に善し、又何ぞ此に至らんや。」朱英恐れ、乃ち亡げ去る。後十七日、楚の考烈王崩じ、李園果たして先ず入り、死士を置き、棘門の内に止まる。春申君後れて入り、棘門に止まる。園の死士、春申君を夾みて刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於て吏をして尽く春申君の家を滅せしむ。而して李園の女弟、初め春申君に幸せられて身有り、王の所に入りて生む所の子は、遂に立ちて楚の幽王と為るなり。是の歳、秦の始皇立ちて九年なり。嫪毐も亦秦に於て乱を為す。覚れ、三族を夷し、而して呂不韋廃せらる。續(つづき):越絶書は、隋経籍志に子貢の作と称せらる。今秦漢の事を雑記す、疑うらくは後人の羼(まじ)うる所ならん、敢えて尽くは信ぜず。史記・戦国策・列女伝は、女環の名を載せず、止だ此に見ゆるのみ。其の画策の終始、信に此くの如くんば、皆女環より出づ、尤も異と為すなり。烈王死するの後、李園春申君に相たり、方に呉に封ぜられ、又其の子を立てて仮君と為すに至りて言えば、皆史記・国策と合わず。聊か此に記して、以て異聞を広む。
現代語訳
楚の考烈王には子がなく、春申君はこれを憂え、子を宿しやすい体質の女性を探して数多く王に差し出したが、それでも子はできなかった。趙の人・李園は自分の妹を連れており、これを楚王に差し出そうとしたが、妹が子を授かりにくい体質だと聞いて、そうなればいずれ寵愛を失うだろうと恐れた。そこで李園は春申君に仕えることを求め、その家臣となった。しばらくして帰郷の暇を願い出て、わざと期限に遅れて戻った。戻って挨拶に出ると、春申君はその事情を尋ねた。李園は答えた。「斉王が使者を遣わして私の妹を(后として)求めてまいりました。その使者と酒を酌み交わしていたため、期限に遅れてしまいました。」春申君は「(斉への)輿入れはもう決まったのか」と尋ねた。李園は「まだです」と答えた。春申君は「(その妹に)会うことはできるか」と尋ねた。李園は「よろしいです」と答えた。そこで李園は妹を差し出し、彼女はすぐに春申君の寵愛を受けた。妹が身ごもったと知ると、李園は妹と謀った。李園の妹は機会をうかがって春申君に説いた。「楚王があなたを重んじ寵愛することは、王の実の兄弟でさえ及びません。今、あなたは楚の宰相となって二十年余り、それなのに王には子がなく、王が亡くなれば兄弟の誰かが新たに立てられることになるでしょう。そうして新しい楚王が立てば、その王もまたそれぞれ自分の元からの側近を重んじるはずです。あなたはどうして長くこの寵愛を保つことができましょうか。それだけではありません。あなたは長く政務を執ってこられた中で、王の兄弟たちに対して礼を失う場面も多かったはずです。もし本当に兄弟の誰かが王位に立てば、災いはあなたの身に及ぶでしょう。そうなれば、どうして宰相の印や江東の封地を保つことができましょうか。今、私は自分が身ごもったことを知っておりますが、まだ誰も知りません。私があなたの寵愛を受けてまだ日が浅いうちに、あなたの重い立場をもって私を楚王に差し出していただければ、王は必ず私を寵愛なさるでしょう。私が天の助けを得て男の子を産めば、それはあなたの子が王になるということです。楚国はすべてあなたのものとなるでしょう。それは、いつ身に降りかかるか分からない罪に怯えながら暮らすのとでは、比べものにならないほど良いことです。」春申君はこれを大いにもっともだと思った。そこで李園の妹を(自分の屋敷から)出して丁重に別の場所に住まわせ、楚王にこの女性のことを話した。楚王は召し入れ、彼女を寵愛した。やがて彼女は男児を産み、その子は太子に立てられ、李園の妹は王后に立てられた。楚王は李園を重んじ、李園は実権を握るようになった。李園はすでに妹を王后とし、その子を太子としたので、春申君がこの秘密を漏らしてますます驕るのではないかと恐れ、ひそかに命知らずの死士を養い、春申君を殺してその口を封じようとした。国の人々の中にはこのことにかなり気づいている者もいた。春申君が楚の宰相となって二十五年、考烈王が病に倒れた。朱英が春申君に言った。「世の中には予期せぬ幸運もあれば、予期せぬ災いもあります。今、あなたは予期せぬことの起こりやすい時世に身を置き、予期せぬことの起こりやすい主君にお仕えしています。であれば、予期せぬ事態に対応してくれる人がいなくてよいはずがありません。」春申君は「予期せぬ幸運とは何か」と尋ねた。朱英は言った。「あなたは楚の宰相となって二十年余り、名目上は宰相ですが、実質は楚王も同然です。あなたの五人の子はみな諸侯の宰相となっています。今、王の病は重く、いつ崩御してもおかしくない状況で、太子はまだ幼く弱い身です。もし太子が病弱で立てないような事態になれば、あなたが幼い主君を補佐し、そのまま代わって国政に当たることになりましょう、まるで伊尹や周公のように。王が成長すれば政権をお返しになればよいですし、そうでなければ、そのまま南面して自ら王となり、楚国を丸ごと手にすることもできましょう。これがいわゆる予期せぬ幸運です。」春申君は「予期せぬ災いとは何か」と尋ねた。朱英は言った。「李園は国政には関わっておりませんが、王の外戚(舅)です。軍を率いる将でもないのに、ひそかに死士を養う日々が長く続いています。楚王が崩御すれば、李園は必ず真っ先に宮中に入り、事前の相談内容をたてに王命を勝手に取り仕切り、権力を握ってあなたを殺し、口を封じようとするでしょう。これがいわゆる予期せぬ災いです。」春申君は「予期せぬ災いに備える人とは何か」と尋ねた。朱英は言った。「あなたが先に私を郎中(側近の官)に任じてください。王が崩御すれば、李園が真っ先に入ってくるでしょうから、私があなたのために、その胸を突いて彼を殺しましょう。これがいわゆる予期せぬ事態に備える人です。」春申君は言った。「先生、その話はもうそれきりにして、二度と言わないでほしい。李園は気の弱い人物だ、私も彼とは仲が良い、どうしてそこまでのことになろうか。」朱英は恐れをなし、そのまま出奔して姿を消した。それから十七日後、楚の考烈王が崩御し、李園ははたして真っ先に宮中に入り、死士を配置して棘門の内側に控えさせた。春申君は遅れて入り、棘門で足を止めた。李園の死士たちは春申君を左右から挟んで刺し殺し、その首を斬って棘門の外に投げ捨てた。そして役人に命じて春申君の一族をことごとく滅ぼさせた。李園の妹は、もともと春申君の寵愛を受けて身ごもり、そのまま楚王のもとに入って産んだ子が、そのまま即位して楚の幽王となったのである。この年、秦の始皇帝が即位して九年目であった。嫪毐もまた秦で反乱を起こした。それが発覚し、三族皆殺しとなり、呂不韋も罷免された。〈続けて言う〉『越絶書』は、隋書経籍志によれば子貢の作とされる。だが実際には秦・漢の事柄が雑然と記されており、後世の人による混入ではないかと疑われ、全てをそのまま信じるわけにはいかない。『史記』『戦国策』『列女伝』には(この妹の名として)「女環」という名は記載がなく、この書にのみ見える。もしその策略の一部始終が本当にこの通りであったなら、すべては女環という一人の女性の企てから出たことになり、これは実に異例のことである。さらに、考烈王が死んだ後、李園が春申君に代わって宰相となり、呉の地に封じられ、その子を仮の君主に立てたと言うに至っては、いずれも『史記』『戦国策』の記述とは食い違っている。ここに参考として記し、異なる伝承を広く伝えておく。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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史記 春申君列伝楚の考烈王子無し、春申君これを患へ、婦人の子に宜しき者を求めてこれを進むること、甚だ衆きも、卒に子無し。趙人李園、その女弟を持し、これを楚王に進めんと欲するも、その子に宜しからざるを聞き、久しくして寵毋からんことを恐る。李園、春申君に事へて舎人と為らんことを求め、已にして謁して帰り、故らに期を失ふ。還りて謁す、春申君その状を問ふ。対へて曰く、「斉王使ひをして臣の女弟を求めしむ、その使者と飲む、故に期を失へり」と。春申君曰く、「娉入れしか」と。対へて曰く、「未だし」と。春申君曰く、「見るを得べきか」と。曰く、「可なり」と。是に於いて李園乃ちその女弟を進め、即ち春申君に幸せらる。その身有るを知り、李園乃ちその女弟と謀る。園の女弟、閒を承けて以て春申君に説きて曰く、「楚王の君を貴幸すること、兄弟と雖も如かざるなり。今、君楚に相たること二十余年、而して王に子無し。即ち百歳の後、将に更に兄弟を立てんとす。則ち楚更に君を立つるの後、また各々その故より親しむ所を貴ばん、君また安んぞ長く寵有るを得んや。徒だ然るのみに非ざるなり、君貴くして事を用ふること久しく、多く礼を王の兄弟に失ふ。兄弟誠に立たば、禍且に身に及ばんとす、何を以て相印・江東の封を保たんや。今、妾自ら身有るを知る、而して人知る莫し。妾の君に幸せらるること未だ久しからず、誠に君の重きを以て妾を楚王に進めば、王必ず妾を幸せん。妾天に頼りて子男有らば、則ち是れ君の子王と為るなり。楚国尽く得べし、身の不測の罪に臨むといづれぞ」と。春申君大いにこれを然りとし、乃ち李園の女弟を出だし、謹んで舎してこれを楚王に言ふ。楚王召し入れてこれを幸し、遂に子男を生む、立てて太子と為し、李園の女弟を以て王后と為す。楚王、李園を貴び、園事を用ふ。李園既にその女弟を入れ、立ちて王后と為り、子は太子と為る。春申君の語の泄れて益々驕らんことを恐れ、陰かに死士を養ひ、春申君を殺して以て口を滅せんと欲す、而して国人頗るこれを知る者有り。
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史記 春申君列伝後十七日、楚の考烈王卒し、李園果たして先づ入り、死士を棘門の内に伏す。春申君棘門に入るや、園の死士春申君を俠刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於いて遂に吏をして尽く春申君の家を滅ぼさしむ。而して李園の女弟初め春申君に幸せられ身有りて之を王に入れて生む所の子遂に立つ、是を楚の幽王と為す。
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史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英、春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、また毋望の禍有り。今、君は毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安んぞ以て毋望の人無かるべけんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の福と謂ふ」と。曰く、「君楚に相たること二十余年、名は相国と雖も、実は楚王なり。今、楚王病み、旦暮に且に卒せんとす、而して君は少主に相たらん。因りて代はり立ちて国に当たること、伊尹・周公の如くし、王長じて政を反さん。即ち遂に南面して孤と称して楚国を有たざらんや。此れ所謂毋望の福なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園は国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先に入りて権に拠りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君、臣を郎中に置け。楚王卒せば、李園必ず先に入らん、臣君の為に李園を殺さん。此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下これを置け。李園は弱人なり、仆またこれを善くす、且つまた何ぞ此に至らん」と。朱英、言の用ひられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
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史記 春申君列伝以て楚に親しましむるに如かず」と。秦因りて黄歇を遣る。歇楚に至りて三月、楚の頃襄王卒し、太子完立つ、是れを考烈王と為す。考烈王の元年、黄歇を以て相と為し、封じて春申君と為し、淮北の地十二県を賜ふ。後十五歳、黄歇これを楚王に言ひて曰く、「淮北の地は斉に辺し、その事急なり、請ふ以て郡と為さば便ならん」と。因りて并せて淮北の十二県を献ず。封を江東に請ふ。考烈王これを許す。春申君因りて故の呉の墟に城きて、以て自ら都邑と為す。春申君既に楚に相たり、是の時、斉に孟嘗君有り、趙に平原君有り、魏に信陵君有り、方に争ひて士に下り、賓客を招致し、以て相傾奪し、国を輔け権を持す。春申君楚に相たること四年、秦、趙の長平の軍四十余万を破る。五年、邯鄲を囲む。邯鄲急を楚に告ぐ、楚、春申君をして兵を将ゐて往きてこれを救はしむ、秦の兵もまた去り、春申君帰る。春申君楚に相たること八年、楚の為に北伐して魯を滅ぼし、荀卿を以て蘭陵の令と為す。是の時に当たり、楚また彊し。趙の平原君、人を春申君に使はす、春申君これを上舎に舎す。趙の使ひ楚に夸らんと欲し、瑁の簪を為り、刀剣の室は珠玉を以てこれを飾り、春申君の客に命ぜんことを請ふ。春申君の客三千余人、その上客皆珠履を躡みて以て趙の使ひに見ゆ、趙の使ひ大いに慚づ。春申君相たること十四年、秦の荘襄王立ち、呂不韋を以て相と為し、封じて文信侯と為す。東周を取る。春申君相たること二十二年、諸侯、秦の攻伐已む時無きを患へ、乃ち相与に合従し、西のかた秦を伐つ。而して楚王従長と為り、春申君事を用ふ。函谷関に至る、秦兵を出だして攻む、諸侯の兵皆敗走す。楚の考烈王以て春申君を咎む、春申君此を以て益々疏んぜらる。客に観津の人朱英有り、春申君に謂ひて曰く、「人皆楚を以て彊しと為し、君これを用ひて弱しとす、その英に於いては然らず。
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史記 楚世家二十七年、三万人をして三晋を助けて燕を伐たしむ。復た秦と平らぎ、而して太子を入れて秦に質たらしむ。楚左徒をして太子に秦に侍せしむ。三十六年、頃襄王病む。太子亡げ帰る。秋、頃襄王卒し、太子熊元代はり立つ。是を考烈王と為す。考烈王左徒を以て令尹と為し、封ずるに呉を以てし、春申君と号す。考烈王の元年、州を秦に納れて以て平らぐ。是の時楚益々弱し。六年、秦邯鄲を囲む。趙急を楚に告ぐ。楚将軍景陽を遣りて趙を救はしむ。七年、新中に至る。秦の兵去る。十二年、秦の昭王卒す。楚王春申君をして秦に弔祠せしむ。十六年、秦の荘襄王卒し、秦王趙政立つ。二十二年、諸侯と共に秦を伐ち、利あらずして去る。楚東のかた都を寿春に徙し、命じて郢と曰ふ。二十五年、考烈王卒し、子の幽王悍立つ。李園春申君を殺す。幽王の三年、秦・魏楚を伐つ。秦の相呂不韋卒す。九年、秦韓を滅ぼす。十年、幽王卒し、同母弟の猶代はり立つ。是を哀王と為す。哀王立ちて二月余、哀王の庶兄負芻の徒哀王を襲殺して負芻を立てて王と為す。是の歳、秦趙王遷を虜にす。王負芻の元年、燕の太子丹荊軻をして秦王を刺さしむ。二年、秦将軍をして楚を伐たしめ、大いに楚の軍を破り、十余城を亡ふ。三年、秦魏を滅ぼす。四年、秦の将王翦我が軍を蘄に破り、而して将軍項燕を殺す。五年、秦の将王翦・蒙武遂に楚国を破り、楚王負芻を虜にし、楚の名を滅ぼして郡と為すと云ふ。太史公曰く、楚の霊王方に諸侯を申に会し、斉の慶封を誅し、章華台を作り、周の九鼎を求むるの時、志は天下を小とす。申亥の家に餓死するに及びて、天下の笑ひと為る。操行の得ざる、悲しいかな。勢ひの人に於けるや、慎まざるべけんや。棄疾乱を以て立ち、秦の女に嬖淫す。甚だしいかな、幾ど再び国を亡ぼさんとす。
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史記 春申君列伝是の歳や、秦の始皇帝立ちて九年なり。嫪毐(ろうあい)もまた乱を秦に為す、覚られ、その三族を夷らげ、而して呂不韋廃せらる。