史記 / 梁孝王世家
明年,漢立太子。其後梁最親,有功,又為大國,居天下膏腴地。地北界泰山,西至高陽,四十餘城,皆多大縣。孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王筑東苑,方三百餘里。廣睢陽城七十里。大治宮室,為複道,自宮連屬於平臺三十餘里。得賜天子旌旗,出從千乘萬騎。東西馳獵,擬於天子。出言蹕,入言警。招延四方豪桀,自山以東游說之士。莫不畢至,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽之屬。公孫詭多奇邪計,初見王,賜千金,官至中尉,梁號之曰公孫將軍,梁多作兵器弩弓矛數十萬,而府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。二十九年十月,梁孝王入朝。景帝使使持節乘輿駟馬,迎梁王於關下。既朝,上疏因留,以太后親故。王入則侍景帝同輦,出則同車游獵,射禽獸上林中。梁之侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。十一月,上廢栗太子,竇太后心欲以孝王為後嗣。大臣及袁盎等有所關說於景帝,竇太后義格,亦遂不復言以梁王為嗣事由此。以事秘,世莫知。乃辭歸國。其夏四月,上立膠東王為太子。梁王怨袁盎及議臣,乃與羊勝、公孫詭之屬陰使人刺殺袁盎及他議臣十餘人。逐其賊,未得也。
新字:明年,漢立太子。其後梁最親,有功,又為大国,居天下膏腴地。地北界泰山,西至高陽,四十余城,皆多大県。孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王筑東苑,方三百余里。広睢陽城七十里。大治宮室,為複道,自宮連属於平台三十余里。得賜天子旌旗,出従千乗万騎。東西馳猟,擬於天子。出言蹕,入言警。招延四方豪桀,自山以東游説之士。莫不畢至,斉人羊勝、公孫詭、鄒陽之属。公孫詭多奇邪計,初見王,賜千金,官至中尉,梁号之曰公孫将軍,梁多作兵器弩弓矛数十万,而府庫金銭且百巨万,珠玉宝器多於京師。二十九年十月,梁孝王入朝。景帝使使持節乗輿駟馬,迎梁王於関下。既朝,上疏因留,以太后親故。王入則侍景帝同輦,出則同車游猟,射禽獣上林中。梁之侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,与漢宦官無異。十一月,上廃栗太子,竇太后心欲以孝王為後嗣。大臣及袁盎等有所関説於景帝,竇太后義格,亦遂不復言以梁王為嗣事由此。以事秘,世莫知。乃辞帰国。其夏四月,上立膠東王為太子。梁王怨袁盎及議臣,乃与羊勝、公孫詭之属陰使人刺殺袁盎及他議臣十余人。逐其賊,未得也。
書き下し
明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
現代語訳
翌年、漢は太子を立てた。その後、梁は皇帝に最も近い親族であり、戦功もあり、しかも大国で、天下で最も肥沃な土地を占めていた。領地は北は泰山を境とし、西は高陽に至り、四十余りの城があり、その多くが大きな県であった。孝王は竇太后の末子で、太后に愛され、賜り物は数えきれないほどだった。そこで孝王は東苑という庭園を築き、その広さは三百余里四方に及んだ。睢陽の城を七十里にわたって広げた。宮殿を大々的に造営し、上下二層の渡り廊下を設けて、宮殿から平台まで三十余里をつないだ。天子の旗を用いることを許され、外出には千乗の車と万の騎馬を従えた。東へ西へと馬を走らせて狩猟し、天子になぞらえた。外出のときは「蹕(ひつ、道を清めよ)」と、帰るときは「警(けい、警戒せよ)」と、天子と同じ先払いの声をかけさせた。四方の豪傑を招き寄せ、崤山より東の遊説の士はことごとく集まった。斉の人の羊勝・公孫詭・鄒陽らである。公孫詭は奇抜でよこしまな策が多く、初めて王に会ったときに千金を賜り、官は中尉にまで至り、梁では公孫将軍と呼ばれた。梁は弩・弓・矛などの武器を数十万も作り、倉の金銭は百億に近く、珠玉や宝物は都よりも多かった。二十九年十月、梁の孝王が入朝した。景帝は使者に割符を持たせ、天子の四頭立ての車で梁王を函谷関で出迎えさせた。朝見が終わると、上書してそのまま都に留まった。太后が可愛がっていたからである。王は宮中に入れば景帝に付き添って同じ輦(てぐるま)に乗り、外に出れば同じ車で狩りに出て、上林苑で鳥獣を射た。梁の侍中・郎・謁者(取次役)は名簿に登録されて天子の宮殿の門を出入りし、漢の宦官と変わりがなかった。十一月、帝は栗太子を廃した。竇太后は内心、孝王を後継ぎにしたいと望んだ。大臣や袁盎(えんおう)らが景帝に意見を述べたので、竇太后の意向は阻まれ、以後再び梁王を後継ぎにする話を口にしなくなったのはこのためである。事が秘密にされたので、世間では知る者がなかった。梁王は暇乞いをして封国に帰った。その年の夏四月、帝は膠東王(のちの武帝)を太子に立てた。梁王は袁盎や意見を述べた臣下を恨み、羊勝・公孫詭らとひそかに人を遣わして、袁盎と他の議臣十数人を刺殺させた。朝廷は刺客を追ったが、捕まえることはできなかった。
解説
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
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史記 梁孝王世家公卿襄を廃して庶人と為さんことを請ふ。天子曰く、「李太后淫行有り、而して梁王襄良き師傅無し、故に不義に陥る」と。乃ち梁の八城を削り、任王后の首を市に梟す。梁余りて尚ほ十城有り。襄立つこと三十九年にして卒し、謚して平王と為す。子無傷立ちて梁王と為るなり。済川王明は、梁の孝王の子なり、桓邑侯を以て孝景の中六年に済川王と為る。七歳にして、其の中尉を射殺するに坐し、漢の有司誅せんことを請ふも、天子誅するに忍びず、明を廃して庶人と為す。房陵に遷し、地は漢に入りて郡と為る。済東王彭離は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済東王と為る。二十九年、彭離驕悍にして、人君の礼無く、昏暮に私かに其の奴・亡命の少年数十人と剽を行ひて人を殺し、財物を取りて以て好みと為す。殺す所の発覚する者百余人、国皆之を知り、敢へて夜行く莫し。殺さるる者の子上書して言ふ。漢の有司誅せんことを請ふも、上忍びず、廃して以て庶人と為し、上庸に遷し、地は漢に入り、大河郡と為る。山陽の哀王定は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て山陽王と為る。九年にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、山陽郡と為る。済陰の哀王不識は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済陰王と為る。一歳にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、済陰郡と為る。太史公曰く、梁の孝王親愛の故を以て、膏腴の地に王たりと雖も、然れども漢家の隆盛、百姓の殷富に会ふ、故に能く其の財貨を植やし、宮室を広め、車服天子に擬す。然れども亦僭なり。褚先生曰く、臣郎たりし時、之を宮殿中の老郎吏の事を好む者の称道するに聞けり。竊かに以為へらく梁の孝王をして怨望し、不善を為さんと欲せしむる者は、事中より生ず。今太后は、女主なり、少子を愛するの故を以て、梁王をして太子と為さしめんと欲す。
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史記 梁孝王世家梁の孝王武は、孝文皇帝の子なり、而して孝景帝と母を同じくす。母は、竇太后なり。孝文帝凡そ四男あり。長子を太子と曰ふ、是れ孝景帝為り。次子は武、次子は参、次子は勝。孝文帝即位の二年、武を以て代王と為し、参を以て太原王と為し、勝を以て梁王と為す。二歳にして、代王を徙して淮陽王と為す。代を以て尽く太原王に与へ、号して代王と曰ふ。参立つこと十七年、孝文の後二年卒し、謚して孝王と為す。子登嗣ぎて立つ、是れ代の共王為り。立つこと二十九年、元光二年卒す。子義立つ、是れ代王為り。十九年にして、漢関を広げ、常山を以て限りと為し、而して代王を徙して清河に王たらしむ。清河王の徙るは元鼎三年を以てなり。初め、武淮陽王たること十年にして、梁王勝卒し、謚して梁の懐王と為す。懐王最も少子にして、愛幸他子に異なれり。其の明年、淮陽王武を徙して梁王と為す。梁王の初めて梁に王たるは、孝文帝の十二年なり。梁王初めて王たりしより通歴已に十一年なり。梁王の十四年、入朝す。十七年、十八年、比年入朝し、留まり、其の明年、乃ち国に之く。二十一年、入朝す。二十二年、孝文帝崩ず。二十四年、入朝す。二十五年、復た入朝す。是の時上未だ太子を置かざるなり。上梁王と燕飲し、嘗て従容として言ひて曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。王辞謝す。至言に非ざるを知ると雖も、然れども心内に喜ぶ。太后も亦然り。其の春、呉楚斉趙の七国反す。呉楚先づ梁の棘壁を撃ち、数万人を殺す。梁の孝王睢陽に城守し、而して韓安国・張羽等をして大将軍と為し、以て呉楚を距がしむ。呉楚梁を以て限りと為し、敢へて過ぎて西せず、太尉亜夫等と相距ぐこと三月。呉楚破れ、而して梁の破殺虜略する所漢と中分す。
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