史記 / 梁孝王世家
孝王未死時,財以巨萬計,不可勝數。及死,藏府餘黃金尚四十餘萬斤,他財物稱是。梁共王三年,景帝崩。共王立七年卒,子襄立,是為平王。梁平王襄十四年,母曰陳太后。共王母曰李太后。李太后,親平王之大母也。而平王之后姓任,曰任王后。任王后甚有寵於平王襄。初,孝王在時,有罍樽,直千金。孝王誡後世,善保罍樽,無得以與人。任王后聞而欲得罍樽。平王大母李太后曰:「先王有命,無得以罍樽與人。他物雖百巨萬,猶自恣也。」任王后絕欲得之。平王襄直使人開府取罍樽,賜任王后。李太后大怒,漢使者來,欲自言,平王襄及任王后遮止,閉門,李太后與爭門,措指,遂不得見漢使者。李太后亦私與食官長及郎中尹霸等士通亂,而王與任王后以此使人風止李太后,李太后內有淫行,亦已。後病薨。病時,任后未嘗請病;薨,又不持喪。元朔中,睢陽人類犴反者,人有辱其父,而與淮陽太守客出同車。太守客出下車,類犴反殺其仇於車上而去。淮陽太守怒,以讓梁二千石。二千石以下求反甚急,執反親戚。反知國陰事,乃上變事,具告知王與大母爭樽狀。時丞相以下見知之,欲以傷梁長吏,其書聞天子。天子下吏驗問,有之。
新字:孝王未死時,財以巨万計,不可勝数。及死,蔵府余黄金尚四十余万斤,他財物称是。梁共王三年,景帝崩。共王立七年卒,子襄立,是為平王。梁平王襄十四年,母曰陳太后。共王母曰李太后。李太后,親平王之大母也。而平王之后姓任,曰任王后。任王后甚有寵於平王襄。初,孝王在時,有罍樽,直千金。孝王誡後世,善保罍樽,無得以与人。任王后聞而欲得罍樽。平王大母李太后曰:「先王有命,無得以罍樽与人。他物雖百巨万,猶自恣也。」任王后絶欲得之。平王襄直使人開府取罍樽,賜任王后。李太后大怒,漢使者来,欲自言,平王襄及任王后遮止,閉門,李太后与争門,措指,遂不得見漢使者。李太后亦私与食官長及郎中尹覇等士通乱,而王与任王后以此使人風止李太后,李太后内有淫行,亦已。後病薨。病時,任后未嘗請病;薨,又不持喪。元朔中,睢陽人類犴反者,人有辱其父,而与淮陽太守客出同車。太守客出下車,類犴反殺其仇於車上而去。淮陽太守怒,以譲梁二千石。二千石以下求反甚急,執反親戚。反知国陰事,乃上変事,具告知王与大母争樽状。時丞相以下見知之,欲以傷梁長吏,其書聞天子。天子下吏験問,有之。
書き下し
孝王未だ死せざる時、財は巨万を以て計へ、勝げて数ふべからず。死するに及びて、蔵府の余りの黄金尚ほ四十余万斤、他の財物も是に称ふ。梁の共王の三年、景帝崩ず。共王立つこと七年にして卒し、子襄立つ、是れ平王為り。梁の平王襄の十四年、母を陳太后と曰ふ。共王の母を李太后と曰ふ。李太后は、親しく平王の大母なり。而して平王の后は姓任、任王后と曰ふ。任王后甚だ平王襄に寵有り。初め、孝王在りし時、罍樽有り、直千金なり。孝王後世を誡めて、善く罍樽を保ち、以て人に与ふることを得る無からしむ。任王后聞きて罍樽を得んと欲す。平王の大母李太后曰く、「先王命有り、罍樽を以て人に与ふることを得る無かれと。他物は百巨万と雖も、猶ほ自ら恣にせよ」と。任王后絶だ之を得んと欲す。平王襄直ちに人をして府を開きて罍樽を取らしめ、任王后に賜ふ。李太后大いに怒り、漢の使者来たるに、自ら言はんと欲す、平王襄及び任王后遮り止め、門を閉づ、李太后門を争ひ、指を措み、遂に漢の使者に見ゆるを得ず。李太后も亦私かに食官長及び郎中尹霸等の士と通乱す、而して王と任王后と此を以て人をして李太后を風止せしむ、李太后内に淫行有り、亦已む。後病みて薨ず。病む時、任后未だ嘗て病を請はず、薨ずるに、又喪を持せず。元朔中、睢陽の人類犴反なる者、人其の父を辱むる有り、而して淮陽の太守の客と出でて車を同じくす。太守の客出でて車を下るに、類犴反其の仇を車上に殺して去る。淮陽の太守怒り、以て梁の二千石を譲む。二千石以下反を求むること甚だ急にして、反の親戚を執ふ。反国の陰事を知り、乃ち変事を上り、具に王と大母と樽を争ふ状を告知す。時に丞相以下見て之を知り、以て梁の長吏を傷つけんと欲し、其の書天子に聞こゆ。天子吏に下して験問せしむるに、之有り。
現代語訳
孝王は生前、財産を億単位で数え、数えきれないほどであった。死んだとき、倉に残っていた黄金はなお四十万斤余りあり、ほかの財物もそれに見合うほどあった。梁の共王の三年、景帝が崩じた。共王は王となって七年で亡くなり、子の襄が立った。これが平王である。梁の平王襄の十四年のことである。平王の母は陳太后といい、共王の母は李太后といった。李太后は平王の実の祖母である。平王の后は任氏で、任王后といった。任王后は平王襄に非常に寵愛されていた。かつて孝王の存命中、千金の値打ちのある罍樽(らいそん、雷文を刻んだ酒器)があった。孝王は子孫を戒めて、この罍樽を大切に守り、決して人に与えてはならないとした。任王后はこれを聞いて罍樽を欲しがった。平王の祖母の李太后は言った。「先王のご遺命で、罍樽は人に与えてはならないとされている。ほかの物なら百億の値打ちがあっても好きにしてよい。」任王后はどうしてもこれを手に入れたがった。平王襄はすぐさま人に倉を開けさせて罍樽を取り出し、任王后に与えた。李太后は激怒し、漢の使者が来たとき、自分で訴え出ようとした。平王襄と任王后は李太后を遮って門を閉ざし、李太后は門を開けようと争って指を挟まれ、とうとう漢の使者に会うことができなかった。一方、李太后もひそかに食官長(料理番の長)や郎中の尹霸らと密通していたので、王と任王后はそのことを持ち出して人を介して李太后に口止めした。李太后は自分にも不行跡があったので、訴えるのをやめた。その後、李太后は病気で亡くなった。病気の間、任后は一度も見舞いを願い出ず、亡くなっても喪に服さなかった。元朔年間、睢陽の人の類犴反(るいかんはん)という者がいた。ある人が彼の父を辱め、その者が淮陽太守の客人と同じ車で出かけた。太守の客人が車を降りたとき、類犴反は車上でその仇を殺して立ち去った。淮陽太守は怒って梁の二千石の高官たちを責めた。二千石以下の役人は類犴反を厳しく探し求め、その親族を捕らえた。類犴反は梁国の内密の事情を知っていたので、変事を上書し、王と祖母が罍樽を争ったいきさつを詳しく訴えた。当時、丞相以下の者はこれを見て事情を知り、それを利用して梁の高官を痛めつけようとし、その上書は天子の耳に入った。天子が役人に命じて取り調べさせると、事実であった。
解説
関連する章句
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史記 梁孝王世家公卿襄を廃して庶人と為さんことを請ふ。天子曰く、「李太后淫行有り、而して梁王襄良き師傅無し、故に不義に陥る」と。乃ち梁の八城を削り、任王后の首を市に梟す。梁余りて尚ほ十城有り。襄立つこと三十九年にして卒し、謚して平王と為す。子無傷立ちて梁王と為るなり。済川王明は、梁の孝王の子なり、桓邑侯を以て孝景の中六年に済川王と為る。七歳にして、其の中尉を射殺するに坐し、漢の有司誅せんことを請ふも、天子誅するに忍びず、明を廃して庶人と為す。房陵に遷し、地は漢に入りて郡と為る。済東王彭離は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済東王と為る。二十九年、彭離驕悍にして、人君の礼無く、昏暮に私かに其の奴・亡命の少年数十人と剽を行ひて人を殺し、財物を取りて以て好みと為す。殺す所の発覚する者百余人、国皆之を知り、敢へて夜行く莫し。殺さるる者の子上書して言ふ。漢の有司誅せんことを請ふも、上忍びず、廃して以て庶人と為し、上庸に遷し、地は漢に入り、大河郡と為る。山陽の哀王定は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て山陽王と為る。九年にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、山陽郡と為る。済陰の哀王不識は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済陰王と為る。一歳にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、済陰郡と為る。太史公曰く、梁の孝王親愛の故を以て、膏腴の地に王たりと雖も、然れども漢家の隆盛、百姓の殷富に会ふ、故に能く其の財貨を植やし、宮室を広め、車服天子に擬す。然れども亦僭なり。褚先生曰く、臣郎たりし時、之を宮殿中の老郎吏の事を好む者の称道するに聞けり。竊かに以為へらく梁の孝王をして怨望し、不善を為さんと欲せしむる者は、事中より生ず。今太后は、女主なり、少子を愛するの故を以て、梁王をして太子と為さしめんと欲す。
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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史記 梁孝王世家梁の孝王武は、孝文皇帝の子なり、而して孝景帝と母を同じくす。母は、竇太后なり。孝文帝凡そ四男あり。長子を太子と曰ふ、是れ孝景帝為り。次子は武、次子は参、次子は勝。孝文帝即位の二年、武を以て代王と為し、参を以て太原王と為し、勝を以て梁王と為す。二歳にして、代王を徙して淮陽王と為す。代を以て尽く太原王に与へ、号して代王と曰ふ。参立つこと十七年、孝文の後二年卒し、謚して孝王と為す。子登嗣ぎて立つ、是れ代の共王為り。立つこと二十九年、元光二年卒す。子義立つ、是れ代王為り。十九年にして、漢関を広げ、常山を以て限りと為し、而して代王を徙して清河に王たらしむ。清河王の徙るは元鼎三年を以てなり。初め、武淮陽王たること十年にして、梁王勝卒し、謚して梁の懐王と為す。懐王最も少子にして、愛幸他子に異なれり。其の明年、淮陽王武を徙して梁王と為す。梁王の初めて梁に王たるは、孝文帝の十二年なり。梁王初めて王たりしより通歴已に十一年なり。梁王の十四年、入朝す。十七年、十八年、比年入朝し、留まり、其の明年、乃ち国に之く。二十一年、入朝す。二十二年、孝文帝崩ず。二十四年、入朝す。二十五年、復た入朝す。是の時上未だ太子を置かざるなり。上梁王と燕飲し、嘗て従容として言ひて曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。王辞謝す。至言に非ざるを知ると雖も、然れども心内に喜ぶ。太后も亦然り。其の春、呉楚斉趙の七国反す。呉楚先づ梁の棘壁を撃ち、数万人を殺す。梁の孝王睢陽に城守し、而して韓安国・張羽等をして大将軍と為し、以て呉楚を距がしむ。呉楚梁を以て限りと為し、敢へて過ぎて西せず、太尉亜夫等と相距ぐこと三月。呉楚破れ、而して梁の破殺虜略する所漢と中分す。
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史記 梁孝王世家袁盎等宋の宣公正を立てず、禍を生じ、禍乱後五世絶えず、小を忍ばざれば大義を害する状を以て太后に報ず。太后乃ち解説し、即ち梁王をして帰りて国に就かしむ。而して梁王其の義の袁盎諸大臣の所より出づるを聞き、怨望し、人をして来たりて袁盎を殺さしむ。袁盎之を顧みて曰く、「我は所謂袁将軍なる者なり、公誤ること毋きを得んや」と。刺す者曰く、「是なり」と。之を刺し、其の剣を置く、剣身に著く。其の剣を視るに、新たに治む。長安中の削厲工に問ふに、工曰く、「梁の郎某子来たりて此の剣を治む」と。此を以て知りて之を発覚し、使者を発して捕へ逐はしむ。独り梁王の殺さんと欲する所の大臣十余人、文吏之を窮本し、謀反の端頗る見はる。太后食はず、日夜泣きて止まず。景帝甚だ之を憂へ、公卿大臣に問ふ、大臣以為へらく経術の吏を遣はして往きて之を治めしめば、乃ち解くべしと。是に於いて田叔・呂季主を遣はして往きて之を治めしむ。此の二人皆経術に通じ、大礼を知る。来たり還りて、霸昌廏に至り、火を取りて悉く梁の反辞を焼き、但だ空手にて来たりて景帝に対ふ。景帝曰く、「何如」と。対へて曰く、「言ふこころは梁王知らざるなり。之を造為する者は、独り其の幸臣羊勝・公孫詭の属之を為すのみ。謹んで以て誅に伏して死し、梁王恙無きなり」と。景帝喜説して、曰く、「急ぎ趨りて太后に謁せよ」と。太后之を聞き、立ちどころに起ちて坐して湌し、気平復す。故に曰く、経術に通じ古今の大礼を知らざれば、以て三公及び左右の近臣と為すべからず。少見の人は、管中より天を闚ふが如きなり。
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
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