新序 / 善謀第十
留侯張子房,於漢已定,性多疾,即導引不食糓杜門不出。歲餘,上欲廢太子,立戚氏夫人子趙王如意,大臣多爭,未能得堅决者也。吕后恐,不知所為。人或謂吕后曰:「留侯善畫計䇿,上信用之。」吕后乃使建成侯吕澤劫留侯曰:「君常為上計,今日欲易太子,君安得髙枕卧留侯曰:「始上數在困急之中,幸用臣,今天下安定,以愛㓜欲易太子骨肉間。雖臣等百餘人,何益?」吕澤强要曰:「為我畫計。」留侯曰:「此難以口舌爭也,顧上有所不能致者,天下有四人,園公、綺里季、夏黃公、甪里先生。此四人者年老矣,皆以上慢侮士,故逃匿山中,義不為漢臣,然上髙此四人。公誠能無愛金玉璧帛,令太子為書,卑辭以安車迎之,因使辯士固請宜來,來以為客,時時從入朝,令上見之,上見之必大異問之,問之,上知此四人,亦一助也。」
新字:留侯張子房,於漢已定,性多疾,即導引不食糓杜門不出。歳余,上欲廃太子,立戚氏夫人子趙王如意,大臣多争,未能得堅決者也。呂后恐,不知所為。人或謂呂后曰:「留侯善画計策,上信用之。」呂后乃使建成侯呂沢劫留侯曰:「君常為上計,今日欲易太子,君安得高枕臥留侯曰:「始上数在困急之中,幸用臣,今天下安定,以愛幼欲易太子骨肉間。雖臣等百余人,何益?」呂沢強要曰:「為我画計。」留侯曰:「此難以口舌争也,顧上有所不能致者,天下有四人,園公、綺里季、夏黄公、甪里先生。此四人者年老矣,皆以上慢侮士,故逃匿山中,義不為漢臣,然上高此四人。公誠能無愛金玉璧帛,令太子為書,卑辞以安車迎之,因使弁士固請宜来,来以為客,時時従入朝,令上見之,上見之必大異問之,問之,上知此四人,亦一助也。」
書き下し
留侯張子房、漢已に定まるに於いて、性疾多し。即ち導引して穀を食らわず、門を杜じて出でず。歳餘、上太子を廢し、戚氏夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く爭う。未だ堅決を得る者有らざるなり。呂后恐れ、爲す所を知らず。人或いは呂后に謂いて曰く、留侯善く計策を畫く。上之を信用す、と。呂后乃ち建成侯呂澤をして留侯を劫かさしめて曰く、君常に上の爲に計る。今日太子を易えんと欲す。君安くんぞ高枕して卧するを得んや、と。留侯曰く、始め上數ミ困急の中に在り、幸いに臣を用う。今天下安定す。愛幼を以て太子を易えんと欲するは骨肉の間なり。臣等百餘人と雖も、何の益あらん、と。呂澤强いて要めて曰く、我が爲に計を畫け、と。留侯曰く、此れ口舌を以て爭い難きなり。顧ミ上に致す能わざる所の者有り。天下に四人有り。園公・綺里季・夏黃公・甪里先生なり。此の四人なる者年老いたり。皆な上の士を慢侮するを以て、故に山中に逃匿し、義として漢の臣と爲らず。然れども上此の四人を高しとす。公誠に能く金玉璧帛を愛しむ無く、太子をして書を爲さしめ、辭を卑くして安車を以て之を迎え、因りて辯士をして固く請わしめば宜しく來たるべし。來たらば以て客と爲し、時時に從いて入朝せしめ、上をして之を見しめよ。上之を見ば必ず大いに異として之を問わん。之を問わば、上此の四人を知る。亦た一助なり、と。
現代語訳
留侯の張子房は、漢がすでに定まってから、体が弱く病が多かった。そこで導引を行って穀物を食べず、門を閉じて外に出なかった。一年余り、上は太子を廃して、戚夫人の子である趙王如意を立てようとした。大臣の多くが争った。まだ決着をつけられる者がなかった。呂后は恐れ、どうしてよいか分からなかった。ある人が呂后に言った。「留侯はよく計策を立てる。上はこれを信用しています」。呂后はそこで建成侯の呂沢に留侯を脅させて言った。「君はいつも上のために計る。今日太子を替えようとしている。君はどうして高枕で寝ていられようか」。留侯は言った。「はじめ上はたびたび困窮の中にあり、幸いに臣を用いられました。いま天下は安定しています。幼い子を愛して太子を替えようとされるのは骨肉のあいだのことです。臣ら百余人がいても、何の益がありましょう」。呂沢は強いて求めて言った。「私のために計を立ててくれ」。留侯は言った。「これは口先で争えることではありません。ただ、上が呼び寄せられなかった者があります。天下に四人います。園公・綺里季・夏黄公・甪里先生です。この四人は年老いています。みな上が士を侮るというので、山中に逃げ隠れ、義として漢の臣とならずにいます。しかし上はこの四人を高く見ています。あなたがまことに金玉や絹を惜しまず、太子に手紙を書かせ、言葉を低くして車を仕立てて迎え、そのうえで弁の立つ者に強く請わせれば、来るはずです。来たら客として遇し、ときどき従わせて朝廷に入らせ、上に見せなさい。上はこれを見れば必ず大いに驚いて尋ねるでしょう。尋ねれば、上はこの四人だと分かります。それも一つの助けです」。
解説
この章句が説くこと
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史記 孝武本紀至)愈えず。游水発根乃ち言ひて曰く、「上郡に巫有り、病みて鬼之に下る。」と。上召して之を甘泉に置きて祠る。病むに及び、人をして神君に問はしむ。神君言ひて曰く、「天子病を憂ふる毋かれ。病少しく愈えなば、彊ひて我と甘泉に会せよ。」と。是に於て病愈え、遂に甘泉に幸す、病良(まこと)に已む。天下に大赦し、寿宮の神君を置く。神君の最も貴き者は(大夫)[太一]、其の佐を大禁・司命の属と曰ひ、皆之に従ふ。見るを得べきに非ず、其の音を聞く、人の言と等し。時に去り時に来たる、来たれば則ち風粛然たり。室の帷中に居る。時に昼言ふ、然れども常に夜を以てす。天子祓ひ、然る後に入る。巫に因りて主人と為し、飲食を関す。欲する所の者言へば行下す。又寿宮・北宮を置き、羽旗を張り、供具を設け、以て神君を礼す。神君の言ふ所、上人をして受けて其の言を書かしめ、之を命じて「画法」と曰ふ。其の語る所は、世俗の知る所なり、絶殊なる者毋し、而して天子独り喜ぶ。其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を建元と曰ひ、二元は長星を以て元光と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て元狩と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今上帝は朕親ら郊す、而して后土は祀る毋し、則ち礼答へず。」と。有司太史公・祠官寛舒等と議す、「天地の牲は角繭栗なり。今陛下親ら后土を祀る、后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠らば尽く瘞め、而して祠に従ふものは衣黄を上ぶべし。」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽上に立つること、寛舒等の議の如くす。上親ら望拝すること、上帝の礼の如くす。礼畢り、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て先王の祀を奉ぜしめよ。」と。
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