新序 / 善謀第十
於是吕后令澤使人奉太子書,卑辭厚禮迎四人。四人至,舎吕澤所。至十二年,上從破黥布軍歸,疾益甚,愈欲易太子,留侯諫不聽,因疾不視事,太傅叔孫通稱說引古,以死爭太子,上佯許之,猶欲易之。及燕,置酒;太子侍,四人者從太子,皆年八十有餘,鬢眉皓白,衣冠甚偉,上怪而問曰:「何為者?」四人前對,各言其姓名,上乃驚曰:「吾求公數歲,公避逃我,今公何自從吾兒游乎?」四人皆對曰:「陛下輕士善罵,臣等義不辱,故恐而亡匿,聞太子為人子孝仁、敬愛士,天下莫不延頸,願為太子死者,故來耳。」上曰:「煩公幸卒調護太子。」四人為壽已畢,起去,上目送之,召戚夫人指示四人者曰:「為欲易之,彼四人輔之,羽翼已成,難動矣。吕氏真而主矣。」戚夫人泣下,上曰:「為我楚舞,吾為若楚歌。」歌曰:「鴻鵠髙蜚,一舉千里,羽翮已就,横絶四海横絶四海,當可奈何?雖有矰繳,尚安所施?」歌數闋,戚夫人嘘唏流涕,上起去罷酒,竟不易太子者,留侯召四人之謀也。
新字:於是呂后令沢使人奉太子書,卑辞厚礼迎四人。四人至,舎呂沢所。至十二年,上従破黥布軍帰,疾益甚,愈欲易太子,留侯諫不聴,因疾不視事,太傅叔孫通称説引古,以死争太子,上佯許之,猶欲易之。及燕,置酒;太子侍,四人者従太子,皆年八十有余,鬢眉皓白,衣冠甚偉,上怪而問曰:「何為者?」四人前対,各言其姓名,上乃驚曰:「吾求公数歳,公避逃我,今公何自従吾児游乎?」四人皆対曰:「陛下軽士善罵,臣等義不辱,故恐而亡匿,聞太子為人子孝仁、敬愛士,天下莫不延頸,願為太子死者,故来耳。」上曰:「煩公幸卒調護太子。」四人為寿已畢,起去,上目送之,召戚夫人指示四人者曰:「為欲易之,彼四人輔之,羽翼已成,難動矣。呂氏真而主矣。」戚夫人泣下,上曰:「為我楚舞,吾為若楚歌。」歌曰:「鴻鵠高蜚,一舉千里,羽翮已就,横絶四海横絶四海,当可奈何?雖有矰繳,尚安所施?」歌数闋,戚夫人嘘唏流涕,上起去罷酒,竟不易太子者,留侯召四人之謀也。
書き下し
是に於いて呂后澤をして人をして太子の書を奉じ、辭を卑くし禮を厚くして四人を迎えしむ。四人至り、呂澤の所に舍る。十二年に至り、上黥布の軍を破りて歸るに從い、疾益ミ甚だし。愈ミ太子を易えんと欲す。留侯諫むるも聽かず。疾に因りて事を視ず。太傅叔孫通說を稱え古を引き、死を以て太子を爭う。上佯りて之を許す。猶お之を易えんと欲す。燕するに及び、酒を置く。太子侍る。四人なる者太子に從う。皆な年八十有餘、鬢眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上怪しみて問いて曰く、何を爲す者ぞ、と。四人前みて對え、各ミ其の姓名を言う。上乃ち驚きて曰く、吾公を求むること數歳。公我を避け逃る。今公何ぞ自ら吾が兒に從いて游ぶや、と。四人皆な對えて曰く、陛下士を輕んじ善く罵る。臣等義として辱められず。故に恐れて亡匿す。太子の人と爲り子として孝仁、士を敬愛すと聞く。天下頸を延べざる莫し。太子の爲に死せんことを願う者なり。故に來たるのみ、と。上曰く、公を煩わす。幸いに卒に太子を調護せよ、と。四人壽を爲し已り畢わり、起ちて去る。上之を目送し、戚夫人を召して四人なる者を指示して曰く、之を易えんと欲すと爲すも、彼の四人之を輔く。羽翼已に成る。動かし難し。呂氏眞に而の主なり、と。戚夫人泣下る。上曰く、我が爲に楚舞せよ。吾若が爲に楚歌せん、と。歌いて曰く、鴻鵠高く飛び、一舉千里、羽翮已に就り、四海を横絶す。四海を横絶す、當に奈何す可き。矰繳有りと雖も、尚お安くにか施す所あらん、と。歌うこと數闋。戚夫人噓唏流涕す。上起ちて去り酒を罷む。竟に太子を易えざるは、留侯の四人を召すの謀なり。
現代語訳
そこで呂后は呂沢に人をやって太子の手紙を奉じさせ、言葉を低くし礼を厚くして四人を迎えさせた。四人が着き、呂沢の所に泊まった。十二年になって、上は黥布の軍を破って帰ってから、病がますます重くなった。いよいよ太子を替えようとした。留侯が諫めたが聞かなかった。病を理由に政務を見なかった。太傅の叔孫通が説を唱え古を引き、死をもって太子のことを争った。上は偽ってこれを許した。それでも替えようとした。宴会になり、酒を出した。太子が侍っていた。四人が太子に従っていた。みな年は八十余り、鬢と眉は真っ白、衣冠は堂々としていた。上は怪しんで問うた。「何をする者か」。四人は進み出て答え、それぞれ姓名を述べた。上は驚いて言った。「私はあなたがたを数年求めた。あなたがたは私を避けて逃げた。いまどうして自分から私の子に従って過ごしているのか」。四人はみな答えて言った。「陛下は士を軽んじよく罵られます。臣らは義として辱めを受けません。だから恐れて隠れました。太子は人となりが子として孝で仁、士を敬い愛されると聞きました。天下に首を伸ばさない者はありません。太子のために死にたいと願う者です。だから来たのです」。上は言った。「お手数をかける。どうか最後まで太子を守り導いてほしい」。四人は寿を祝い終えると、立って去った。上はこれを見送り、戚夫人を召して四人を指し示して言った。「替えようと思ったが、あの四人が輔けている。羽が生えそろった。動かしがたい。呂氏がまことにお前の主だ」。戚夫人は涙を流した。上は言った。「私のために楚の舞をせよ。私はお前のために楚の歌を歌おう」。歌って言った。「鴻鵠が高く飛び、ひと飛びに千里、羽が生えそろって、四海を横切る。四海を横切る、どうしようもない。矢に糸をつけて射ようとしても、どこに使いようがあろう」。数節歌った。戚夫人はむせび泣いた。上は立って去り酒宴を終えた。とうとう太子を替えなかったのは、留侯が四人を召した謀である。
解説
この章句が説くこと
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