史記 / 荊燕世家
及太后崩,瑯邪王澤乃曰:「帝少,諸呂用事,劉氏孤弱。」乃引兵與齊王合謀西,欲誅諸呂。至梁,聞漢遣灌將軍屯滎陽,澤還兵備西界,遂跳驅至長安。代王亦從代至。諸將相與瑯邪王共立代王為天子。天子乃徙澤為燕王,乃復以瑯邪予齊,復故地。澤王燕二年,薨,謚為敬王。傳子嘉,為康王。至孫定國,與父康王姬姦,生子男一人。奪弟妻為姬。與子女三人姦。定國有所欲誅殺臣肥如令郢人,郢人等告定國,定國使謁者以他法劾捕格殺郢人以滅口。至元朔元年,郢人昆弟復上書具言定國陰事,以此發覺。詔下公卿,皆議曰:「定國禽獸行,亂人倫,逆天,當誅。」上許之。定國自殺,國除為郡。太史公曰:荊王王也,由漢初定,天下未集,故劉賈雖屬疏,然以策為王,填江淮之閒。劉澤之王,權激呂氏,然劉澤卒南面稱孤者三世。事發相重,豈不為偉乎!
新字:及太后崩,瑯邪王沢乃曰:「帝少,諸呂用事,劉氏孤弱。」乃引兵与斉王合謀西,欲誅諸呂。至梁,聞漢遣灌将軍屯滎陽,沢還兵備西界,遂跳駆至長安。代王亦従代至。諸将相与瑯邪王共立代王為天子。天子乃徙沢為燕王,乃復以瑯邪予斉,復故地。沢王燕二年,薨,謚為敬王。伝子嘉,為康王。至孫定国,与父康王姫姦,生子男一人。奪弟妻為姫。与子女三人姦。定国有所欲誅殺臣肥如令郢人,郢人等告定国,定国使謁者以他法劾捕格殺郢人以滅口。至元朔元年,郢人昆弟復上書具言定国陰事,以此発覚。詔下公卿,皆議曰:「定国禽獣行,乱人倫,逆天,当誅。」上許之。定国自殺,国除為郡。太史公曰:荊王王也,由漢初定,天下未集,故劉賈雖属疏,然以策為王,填江淮之閒。劉沢之王,権激呂氏,然劉沢卒南面称孤者三世。事発相重,豈不為偉乎!
書き下し
太后崩ずるに及び、瑯邪王沢乃ち曰く、「帝少く、諸呂事を用ひ、劉氏孤弱なり」と。乃ち兵を引きて斉王と合謀して西し、諸呂を誅せんと欲す。梁に至り、漢の灌将軍を遣はして滎陽に屯せしむるを聞き、沢兵を還して西界に備へ、遂に跳驅して長安に至る。代王も亦た代より至る。諸将相、瑯邪王と共に代王を立てて天子と為す。天子乃ち沢を徙して燕王と為し、乃ち復た瑯邪を以て斉に予へ、故地に復す。沢燕に王たること二年にして薨じ、謚して敬王と為す。子嘉に伝ふ、康王と為す。孫定国に至り、父康王の姫と姦し、子男一人を生む。弟の妻を奪ひて姫と為す。子女三人と姦す。定国誅殺せんと欲する所の臣肥如の令郢人有り、郢人等定国を告ぐ、定国謁者をして他の法を以て郢人を劾捕格殺して以て口を滅せしむ。元朔元年に至り、郢人の昆弟復た上書して具に定国の陰事を言ふ、此を以て発覚す。詔して公卿に下す、皆議して曰く、「定国は禽獣の行ひ、人倫を乱し、天に逆らふ、当に誅すべし」と。上之を許す。定国自殺し、国除かれて郡と為る。太史公曰く、荊王の王たるや、漢の初めて定まり、天下未だ集まらざるに由る、故に劉賈は属疏なりと雖も、然れども策を以て王と為り、江淮の間を填む。劉沢の王たるや、権もて呂氏を激す、然れども劉沢卒に南面して孤と称する者三世。事発して相重し、豈に偉と為さざらんや。
現代語訳
太后が崩じると、瑯邪王劉沢は言った。「皇帝は幼く、呂氏の者たちが権力を握り、劉氏は孤立して弱い」。そこで兵を率い、斉王と共謀して西へ進み、呂氏一族を誅そうとした。梁まで来たところで、漢が灌将軍(灌嬰)を派遣して滎陽に駐屯させたと聞き、劉沢は兵を返して西の国境の守りを固め、自らは馬を飛ばして長安に駆けつけた。代王も代からやって来た。諸将や大臣たちは瑯邪王とともに代王を天子に立てた。天子は劉沢を燕王に移し、瑯邪を斉に返して、もとの領地に戻した。劉沢は燕王となって二年で亡くなり、敬王と諡された。子の嘉に位を伝え、これが康王である。孫の定国の代になって、定国は父康王の側室と密通し、男子を一人生ませた。また弟の妻を奪って側室とした。さらに自分の娘三人とも密通した。定国には誅殺しようとしていた臣下で、肥如(ひじょ)の県令の郢人(えいじん)がいたが、郢人らが定国を告発すると、定国は謁者に命じて別の罪状で郢人を取り調べさせ、捕らえて打ち殺し、口封じをした。元朔元年になって、郢人の兄弟が再び上書して定国の隠れた悪事を詳しく訴え、これによって発覚した。詔が公卿に下されると、みな議して言った。「定国の行いは禽獣のようで、人倫を乱し、天に逆らうものであり、誅殺すべきである」。武帝はこれを許した。定国は自殺し、国は廃されて郡となった。太史公は言う。荊王が王となったのは、漢が平定されたばかりで、天下がまだまとまっていなかったからである。だから劉賈は血縁は遠かったが、策によって王となり、長江と淮水の間を鎮めた。劉沢が王となったのは、権謀によって呂氏の心を動かしたからである。しかし劉沢はついに南面して「孤」と称すること三代に及んだ。事が起こるたびに重みを増していったのは、立派なことではないか。
解説
関連する章句
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史記 荊燕世家荊王劉賈は、諸劉なり、其の何に属するかを知らず。初め起こる時、漢王元年、還りて三秦を定む、劉賈将軍と為り、塞の地を定め、従ひて東のかた項籍を撃つ。漢四年、漢王の成皋に敗るるや、北のかた河を渡り、張耳・韓信の軍を得て、修武に軍し、溝を深くし塁を高くし、劉賈をして二万人、騎数百を将ゐしめ、白馬津を渡りて楚の地に入り、其の積聚を焼き、以て其の業を破り、以て項王の軍食に給する無からしむ。已にして楚兵劉賈を撃つ、賈輒ち壁して肯へて与に戦はず、而して彭越と相保つ。漢五年、漢王項籍を追ひて固陵に至り、劉賈をして南のかた淮を渡りて寿春を囲ましむ。還り至り、人をして間に楚の大司馬周殷を招かしむ。周殷楚に反き、劉賈を佐けて九江を挙げ、武王黥布の兵を迎へ、皆垓下に会し、共に項籍を撃つ。漢王因りて劉賈をして九江の兵を将ゐしめ、太尉盧綰と西南のかた臨江王共尉を撃たしむ。共尉已に死し、臨江を以て南郡と為す。漢六年春、諸侯に陳に会し、楚王信を廃し、之を囚へ、其の地を分かちて二国と為す。是の時に当たりてや、高祖の子幼く、昆弟少なく、又賢ならず、同姓を王として以て天下を鎮めんと欲し、乃ち詔して曰く、「将軍劉賈功有り、及び子弟の以て王と為すべき者を択べ」と。群臣皆曰く、「劉賈を立てて荊王と為し、淮東の五十二城に王たらしめ、高祖の弟交を楚王と為し、淮西の三十六城に王たらしめよ」と。因りて子肥を立てて斉王と為す。始めて昆弟の劉氏を王とす。高祖十一年秋、淮南王黥布反き、東のかた荊を撃つ。荊王賈与に戦ひ、勝たず、富陵に走り、布の軍の殺す所と為る。高祖自ら撃ちて布を破る。十二年、沛侯劉濞を立てて呉王と為し、故の荊の地に王たらしむ。燕王劉沢は、諸劉の遠属なり。高帝三年、沢郎中と為る。高帝十一年、沢将軍を以て陳豨を撃ち、王黄を得て、営陵侯と為る。
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史記 荊燕世家高后の時、斉人田生游びて資に乏しく、画を以て営陵侯沢に干む。沢大いに之を説び、金二百斤を用て田生の寿を為す。田生已に金を得て、即ち斉に帰る。二年、沢人をして田生に謂はしめて曰く、「与せざらん」と。田生長安に如き、沢に見えず、而して大宅を仮り、其の子をして呂后の幸する所の大謁者張子卿に事ふるを求めしむ。居ること数月、田生の子張卿に臨まんことを請ひ、親ら具を修む。張卿往くことを許す。田生盛んに帷帳共具し、譬へば列侯の如し。張卿驚く。酒酣にして、乃ち人を屏けて張卿に説きて曰く、「臣諸侯王の邸第百余を観るに、皆高祖の一切の功臣なり。今呂氏は雅故より本高帝を推轂して天下に就かしむ、功至大なり、又太后に親戚の重き有り。太后春秋長じ、諸呂弱し、太后呂産を立てて[呂]王と為し、代に王たらしめんと欲す。太后又重ねて之を発すれば、大臣の聴かざらんことを恐る。今卿最も幸せられ、大臣の敬する所なり、何ぞ大臣に風して以て太后に聞せしめざる、太后必ず喜ばん。諸呂已に王たらば、万戸侯も亦た卿の有なり。太后心に之を欲す、而して卿は内臣為り、急ぎ発せずんば、恐らくは禍身に及ばん」と。張卿大いに之を然りとし、乃ち大臣に風して太后に語らしむ。太后朝し、因りて大臣に問ふ。大臣呂産を立てて呂王と為さんことを請ふ。太后張卿に千斤の金を賜ふ、張卿其の半を以て田生に与ふ。田生受けず、因りて之に説きて曰く、「呂産王たるや、諸大臣未だ大いに服せず。今営陵侯沢は、諸劉にして、大将軍為り、独り此れのみ尚ほ觖望す。今卿太后に言ひ、十余県を列ねて之を王とせば、彼王たるを得て、喜びて去らん、諸呂の王益々固からん」と。張卿入りて言ふ、太后之を然りとす。乃ち営陵侯劉沢を以て瑯邪王と為す。瑯邪王乃ち田生と国に之く。田生沢に急ぎ行きて、留まること毋からんことを勧む。関を出づ、太后果たして人をして追ひて之を止めしむ、已に出でたれば、即ち還る。
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史記 斉悼恵王世家瑯邪王之を信じ、以て然りと為し、[迺ち]馳せて斉王に見ゆ。斉王魏勃等と因りて瑯邪王を留め、而して祝午をして尽く瑯邪国を発して并せて其の兵を将ゐしむ。瑯邪王劉沢既に欺かれ、国に反るを得ず、乃ち斉王に説きて曰く、「斉の悼恵王は高皇帝の長子なり、本を推して之を言へば、而して大王は高皇帝の適長孫なり、当に立つべし。今諸大臣狐疑して未だ定まる所有らず、而して沢は劉氏に於て最も長年為り、大臣固より沢の決計を待つ。今大王臣を留むるも為す無きなり、我をして関に入りて事を計らしむるに如かず」と。斉王以て然りと為し、乃ち益々車を具へて瑯邪王を送る。瑯邪王既に行き、斉遂に兵を挙げて西のかた呂国の済南を攻む。是に於て斉の哀王諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王を斉に王とす。悼恵王薨じ、恵帝留侯張良をして臣を立てて斉王と為さしむ。恵帝崩じ、高后事を用ひ、春秋高く、諸呂の擅に高帝の立つる所を廃するを聴し、又三趙王を殺し、梁・燕・趙を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉国を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、皇帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸[侯]を恃む。今諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚め威を厳にし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。今寡人兵を率ゐて入りて当に王為るべからざる者を誅せん」と。漢斉の兵を発して西するを聞き、相国呂産乃ち大将軍灌嬰を遣はして東のかた之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を将ゐて関中に居り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。我今斉を破りて還報せば、是れ呂氏の資を益すなり」と。乃ち兵を留めて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に喩さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて共に之を誅せんとす。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 韓信盧綰列伝漢の五年の冬、項籍を破るを以て、乃ち盧綰をして別将たらしめ、劉賈と臨江王共尉を撃たしめ、之を破る。七月還り、従ひて燕王臧荼(ぞうと)を撃ち、臧荼降る。高祖已に天下を定むるに、諸侯の劉氏に非ずして王たる者七人。盧綰を王とせんと欲するも、群臣の觖望(けつぼう)を為す。臧荼を虜にするに及び、乃ち詔を諸将相・列侯に下し、群臣の功有る者を択びて以て燕王と為さしむ。群臣上の盧綰を王とせんと欲するを知り、皆言ひて曰く、「太尉長安侯盧綰は常に従ひて天下を平定し、功最も多し。燕に王たるべし」と。詔して之を許す。漢の五年八月、乃ち虜綰を立てて燕王と為す。諸侯王の幸を得ること燕王に如くは莫し。漢の十一年の秋、陳豨代の地に反す。高祖邯鄲に如きて豨の兵を撃ち、燕王綰も亦其の東北を撃つ。是の時に当たり、陳豨王黄をして救ひを匈奴に求めしむ。燕王綰も亦其の臣張勝を匈奴に使はし、豨等の軍破れたりと言はしむ。張勝胡に至るに、故の燕王臧茶の子衍出亡して胡に在り、張勝に見えて曰く、「公の燕に重んぜらるる所以の者は、胡の事に習ふを以てなり。燕の久しく存する所以の者は、諸侯数反し、兵連なりて決せざるを以てなり。今公燕の為に急に豨等を滅ぼさんと欲するも、豨等已に尽くれば、次は亦燕に至り、公等も亦且に虜と為らんとす。公何ぞ燕をして且く陳豨を緩めて胡と和せしめざる。事寛なれば、長く燕に王たるを得。即し漢の急有らば、以て国を安んずべし」と。張勝以て然りと為し、豨私かに匈奴をして豨等を助けて燕を撃たしむ。燕王綰張勝の胡と反するを疑ひ、上書して張勝を族せんことを請ふ。勝還り、具に為す所以の者を道ふ。燕王寤り、乃ち詐りて它人を論じ、勝の家属を脱し、匈奴の間と為るを得しめ、而して陰かに范斉をして陳豨の所に之かしめ、久しく亡げしめ、兵を連ねて決すること勿からしめんと欲す。漢の十二年、東のかた黥布を撃つ。豨常に兵を将ゐて代に居り、
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史記 呂太后本紀我が妃既に妒みて我を誣ふるに悪を以てす、讒女国を乱せども上曾て寤らず。我に忠臣無くして何の故に国を棄つる、自ら中野に決せば蒼天直を挙げん。于嗟(ああ)悔ゆべからず寧ろ蚤く自ら財(た)たん。王と為りて餓死す誰か之を憐れまん、呂氏理を絶つ天に託して仇を報いん。」と。丁丑、趙王幽死す、民の礼を以て之を長安の民の冢の次に葬る。己丑、日食し、昼晦し。太后之を悪み、心楽しまず、乃ち左右に謂ひて曰く、「此れ我が為なり。」と。二月、梁王恢を徙して趙王と為す。呂王産徙りて梁王と為る、梁王国に之かず、帝の太傅と為る。皇子平昌侯太を立てて呂王と為す。梁を更名して呂と曰ひ、呂を済川と曰ふ。太后の女弟呂嬃に女有り営陵侯劉沢の妻為り、沢は大将軍為り。太后諸呂を王とし、即ち崩じて後劉将軍の害を為さんことを恐れ、乃ち劉沢を以て瑯邪王と為し、以て其の心を慰む。梁王恢の徙りて趙に王たるや、心に楽しまざるを懐く。太后呂産の女を以て趙王の后と為す。王后の従官皆諸呂にして、権を擅にし、微かに趙王を伺ふ、趙王自ら恣にするを得ず。王に愛する所の姫有り、王后人をして酖して之を殺さしむ。王乃ち歌詩四章を為り、楽人をして之を歌はしむ。王悲しみ、六月即ち自殺す。太后之を聞き、以為へらく王婦人を用ゐて宗廟の礼を棄つと、其の嗣を廃す。宣平侯張敖卒す、子偃を以て魯王と為し、敖に謚を賜ひて魯元王と為す。秋、太后使をして代王に告げしめ、徙して趙に王とせんと欲す。代王謝し、代の辺を守らんことを願ふ。太傅産・丞相平等言ふ、武信侯呂禄は上侯にして、位次第一なり、請ふ立てて趙王と為さんと。太后之を許し、禄の父康侯を追尊して趙の昭王と為す。九月、燕の霊王建薨ず、美人の子有り、太后人をして之を殺さしむ、後無く、国除かる。
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