史記 / 外戚世家
及衛皇后所謂姊衛少兒,少兒生子霍去病,以軍功封冠軍侯,號驃騎將軍。青號大將軍。立衛皇后子據為太子。衛氏枝屬以軍功起家,五人為侯。及衛后色衰,趙之王夫人幸,有子,為齊王。王夫人蚤卒。而中山李夫人有寵,有男一人,為昌邑王。李夫人蚤卒,其兄李延年以音幸,號協律。協律者,故倡也。兄弟皆坐姦,族。是時其長兄廣利為貳師將軍,伐大宛,不及誅,還,而上既夷李氏,後憐其家,乃封為海西侯。他姬子二人為燕王、廣陵王。其母無寵,以憂死。及李夫人卒,則有尹婕妤之屬,更有寵。然皆以倡見,非王侯有土之士女,不可以配人主也。褚先生曰:臣為郎時,問習漢家故事者鐘離生。曰:王太后在民閒時所生一女者,父為金王孫。王孫已死,景帝崩後,武帝已立,王太后獨在。而韓王孫名嫣素得幸武帝,承閒白言太后有女在長陵也。武帝曰:「何不蚤言!」乃使使往先視之,在其家。武帝乃自往迎取之。蹕道,先驅旄騎出橫城門,乘輿馳至長陵。當小市西入里,里門閉,暴開門,乘輿直入此里,通至金氏門外止,使武騎圍其宅,為其亡走,身自往取不得也。即使左右群臣入呼求之。家人驚恐,女亡匿內中床下。扶持出門,令拜謁。
新字:及衛皇后所謂姊衛少児,少児生子霍去病,以軍功封冠軍侯,号驃騎将軍。青号大将軍。立衛皇后子拠為太子。衛氏枝属以軍功起家,五人為侯。及衛后色衰,趙之王夫人幸,有子,為斉王。王夫人蚤卒。而中山李夫人有寵,有男一人,為昌邑王。李夫人蚤卒,其兄李延年以音幸,号協律。協律者,故倡也。兄弟皆坐姦,族。是時其長兄広利為貳師将軍,伐大宛,不及誅,還,而上既夷李氏,後憐其家,乃封為海西侯。他姫子二人為燕王、広陵王。其母無寵,以憂死。及李夫人卒,則有尹婕妤之属,更有寵。然皆以倡見,非王侯有土之士女,不可以配人主也。褚先生曰:臣為郎時,問習漢家故事者鐘離生。曰:王太后在民閒時所生一女者,父為金王孫。王孫已死,景帝崩後,武帝已立,王太后独在。而韓王孫名嫣素得幸武帝,承閒白言太后有女在長陵也。武帝曰:「何不蚤言!」乃使使往先視之,在其家。武帝乃自往迎取之。蹕道,先駆旄騎出横城門,乗輿馳至長陵。当小市西入里,里門閉,暴開門,乗輿直入此里,通至金氏門外止,使武騎囲其宅,為其亡走,身自往取不得也。即使左右群臣入呼求之。家人驚恐,女亡匿内中床下。扶持出門,令拝謁。
書き下し
衛皇后の謂ふ所の姊衛少児に及び、少児子霍去病を生む、軍功を以て冠軍侯に封ぜられ、驃騎将軍と号す。青は大将軍と号す。衛皇后の子据を立てて太子と為す。衛氏の枝属軍功を以て家を起こし、五人侯と為る。衛后色衰ふるに及び、趙の王夫人幸せられ、子有り、斉王と為る。王夫人蚤く卒す。而して中山の李夫人寵有り、男一人有り、昌邑王と為る。李夫人蚤く卒す、其の兄李延年音を以て幸せられ、協律と号す。協律は、故の倡なり。兄弟皆姦に坐し、族せらる。是の時其の長兄広利は弐師将軍為り、大宛を伐ち、誅に及ばず、還る、而して上既に李氏を夷らげ、後に其の家を憐れみ、乃ち封じて海西侯と為す。他の姫の子二人燕王・広陵王と為る。其の母寵無く、憂ひを以て死す。李夫人卒するに及び、則ち尹婕妤の属有り、更々寵有り。然れども皆倡を以て見ゆ、王侯有土の士女に非ず、以て人主に配すべからざるなり。褚先生曰く、臣郎為りし時、漢家の故事に習ふ者鐘離生に問ふ。曰く、王太后民間に在りし時生む所の[一]女は、父は金王孫為り。王孫已に死し、景帝崩じて後、武帝已に立ち、王太后独り在り。而して韓王孫名は嫣素より武帝に幸せらる、間を承けて太后に女有りて長陵に在りと白言す。武帝曰く、「何ぞ蚤く言はざる」と。乃ち使をして往きて先づ之を視しむ、其の家に在り。武帝乃ち自ら往きて之を迎へ取る。蹕道し、先駆の旄騎横城門を出で、乗輿馳せて長陵に至る。小市の西に当たりて里に入る、里門閉づ、暴かに門を開き、乗輿直ちに此の里に入り、通じて金氏の門外に至りて止まり、武騎をして其の宅を囲ましむ、其の亡走するが為に、身自ら往きて取るも得ざればなり。即ち左右の群臣をして入りて之を呼び求めしむ。家人驚き恐る、女亡げて内中の床下に匿る。扶持して門を出でしめ、拝謁せしむ。
現代語訳
衛皇后の姉とされる衛少児(えいしょうじ)は、霍去病(かくきょへい)を生んだ。霍去病は軍功によって冠軍侯に封じられ、驃騎将軍と号した。衛青は大将軍と号した。衛皇后の子の据を立てて太子とした。衛氏の一族は軍功によって家を興し、侯となった者は五人にのぼった。衛皇后の容色が衰えると、趙の王夫人が寵愛を受けて男子を生み、その子は斉王となった。王夫人は早くに亡くなった。次に中山の李夫人が寵愛を受け、男子を一人生み、その子は昌邑王となった。李夫人は早くに亡くなった。李夫人の兄の李延年は音楽の才で寵愛を受け、協律(楽律を調える官)と号した。協律はもともと芸人であった。その兄弟はみな姦通の罪に問われ、一族皆殺しにされた。このとき長兄の李広利は弐師(じし)将軍として大宛(だいえん)を討伐中で、誅殺には及ばず、帰還した。武帝はすでに李氏を滅ぼしていたが、後にその家を哀れに思い、李広利を海西侯に封じた。ほかの側室の子二人は燕王と広陵王になったが、その母たちは寵愛がなく、憂いのうちに亡くなった。李夫人が亡くなると、尹婕妤(いんしょうよ)らが代わる代わる寵愛を受けた。しかし、みな芸人として帝に見えた者たちで、王侯や領地を持つ士族の娘ではなく、君主の配偶者にふさわしい者ではなかった。褚先生(褚少孫)は言う。私が郎官であったとき、漢の王室の故事に詳しい鐘離生(しょうりせい)に尋ねた。彼はこう言った。王太后がまだ民間にいたときに生んだ(一人の)娘は、父が金王孫であった。王孫がすでに死に、景帝が崩じた後、武帝が即位して、王太后だけが健在であった。韓王孫、名は嫣(えん)という者が日ごろから武帝の寵愛を受けていたが、折を見て、太后には娘がいて長陵に住んでいると申し上げた。武帝は言った。「なぜもっと早く言わなかったのか」。そこで使者を遣わして先に様子を見させると、娘は自分の家にいた。武帝は自ら出向いて迎え取ることにした。道を清めて通行を止め、先払いの旗を持った騎兵が横城門を出て、帝の車は長陵まで駆けつけた。小さな市場の西から村里に入ると、里の門が閉じていたので、にわかに門を開けさせ、帝の車はまっすぐこの里に入り、金氏の家の門の外まで進んで止まった。騎兵に家を包囲させたのは、娘が逃げ出して、自ら迎えに来たのに会えないことを恐れたからである。そして左右の群臣に家に入って呼び出させた。家の者たちは驚き恐れ、娘は逃げて奥の寝台の下に隠れた。臣下たちは娘を抱えるようにして門から連れ出し、帝に拝謁させた。
解説
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史記 外戚世家武帝車を下りて泣きて曰く、「嚄、大姊、何ぞ之を蔵すことの深きや」と。詔して副車に之を載せしめ、車を迴らして馳せ還り、而して直ちに長楽宮に入る。行くゆく詔して門に引籍を著けしめ、通じて到りて太后に謁す。太后曰く、「帝倦めり、何れより来たる」と。帝曰く、「今者長陵に至りて臣が姊を得たり、与に倶に来たる」と。顧みて曰く、「太后に謁せよ」と。太后曰く、「女は某か」と。曰く、「是なり」と。太后為に下りて泣き、女も亦た地に伏して泣く。武帝酒を奉じて前みて寿を為し、銭千万、奴婢三百人、公田百頃、甲第を奉じ、以て姊に賜ふ。太后謝して曰く、「帝の為に費せり」と。是に於て平陽主・南宮主・林慮主の三人を召して倶に来たりて姊に謁見せしめ、因りて号して修成君と曰ふ。子男一人、女一人有り。男は号して修成子仲と為し、女は諸侯王の王后と為る。此の二子は劉氏に非ず、故を以て太后之を憐れむ。修成子仲驕恣にして、吏民を陵折す、皆之を患苦す。衛子夫立ちて皇后と為り、后の弟衛青字は仲卿、大将軍を以て封じて長平侯と為す。四子あり、長子伉は侯の世子為り、侯の世子常に侍中し、貴幸せらる。其の三弟皆封じて侯と為す、各々千三百戸、一は陰安侯と曰ひ、二は発干侯と曰ひ、三は宜春侯と曰ふ、貴きこと天下を震はす。天下之を歌ひて曰く、「男を生むも喜ぶ無かれ、女を生むも怒る無かれ、独り衛子夫の天下に霸たるを見ずや」と。是の時平陽主寡居す、当に列侯を用て主に尚すべし。主左右と長安中の列侯の夫と為すべき者を議す、皆大将軍可なりと言ふ。主笑ひて曰く、「此れ吾が家より出づ、常に騎をして我に従ひて出入せしめしのみ、柰何ぞ用ひて夫と為さんや」と。左右侍御の者曰く、「今大将軍の姊は皇后為り、三子は侯為り、富貴天下を振動す、主何を以て之を易へんや」と。是に於て主乃ち之を許す。之を皇后に言ひ、之を武帝に白さしむ、乃ち詔して衛将軍をして平陽公主に尚せしむ。
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史記 外戚世家子夫は平陽主の謳者為り。武帝初めて即位し、数歳子無し。平陽主諸々の良家の子女十余人を求め、飾りて家に置く。武帝霸上に祓して還り、因りて平陽主に過る。主侍する所の美人を見えしむ。上説ばず。既に飲み、謳者進む、上望み見て、独り衛子夫を説ぶ。是の日、武帝起ちて衣を更む、子夫尚衣の軒中に侍し、幸を得たり。上還りて坐し、驩ぶこと甚だし。平陽主に金千斤を賜ふ。主因りて子夫を奉送して宮に入れんことを奏す。子夫車に上る、平陽主其の背を拊ちて曰く、「行け、彊ひて飯し、之を勉めよ。即し貴くならば、相忘るること無かれ」と。宮に入りて歳余、竟に復た幸せられず。武帝宮人の用に中らざる者を択び、斥け出して之を帰す。衛子夫見ゆるを得、涕泣して出でんことを請ふ。上之を憐れみ、復た幸す、遂に身有り、尊寵日に隆し。其の兄衛長君・弟青を召して侍中と為す。而して子夫後に大いに幸せられ、寵有り、凡そ三女一男を生む。男の名は据。初め、上太子為りし時、長公主の女を娶りて妃と為す。立ちて帝と為り、妃立ちて皇后と為る、姓は陳氏、子無し。上の嗣と為るを得たるは、大長公主力有り、故を以て陳皇后驕貴なり。衛子夫の大いに幸せらるるを聞き、恚りて、死に幾き者数々なり。上愈々怒る。陳皇后婦人の媚道を挟み、其の事頗る覚る、是に於て陳皇后を廃し、而して衛子夫を立てて皇后と為す。陳皇后の母大長公主は、景帝の姊なり、数々武帝の姊平陽公主を譲めて曰く、「帝は我に非ずんば立つを得ず、已にして吾が女を棄捐す、壹に何ぞ自ら喜ばずして本に倍くや」と。平陽公主曰く、「子無きの故を用て廃せらるるのみ」と。陳皇后子を求め、医に与ふる銭凡そ九千万、然れども竟に子無し。衛子夫已に立ちて皇后と為る、是より先衛長君死す、乃ち衛青を以て将軍と為し、胡を撃ちて功有り、封じて長平侯と為す。青の三子襁褓の中に在るも、皆封じて列侯と為す。
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史記 衛将軍驃騎列伝大将軍衛青は、平陽の人なり。其の父鄭季、吏と為り、平陽侯の家に給事し、侯の妾衛媼と通じ、青を生む。青の同母兄衛長子、而して姊衛子夫平陽公主の家より天子に幸せらるるを得たり。故に姓を冒して衛氏と為す。字は仲卿。長子は更めて長君と字す。長君の母は号して衛媼と為す。媼の長女は衛孺、次女は少児、次女は即ち子夫なり。後に子夫の男弟歩・広皆衛氏を冒す。
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史記 衛将軍驃騎列伝光禄勲と為り、蠱を太子の宮に掘る。衛太子之を殺す。将軍郭昌は、雲中の人なり。校尉を以て大将軍に従ふ。元封四年、太中大夫を以て抜胡将軍と為り、朔方に屯す。還りて昆明を撃ち、功毋く、印を奪はる。将軍荀彘は、太原の広武の人なり。御を以て見え、侍中たり、校尉と為り、数々大将軍に従ふ。元封三年を以て左将軍と為り朝鮮を撃ち、功毋し。楼船将軍を捕ふるを以て法に坐して死す。最れ驃騎将軍去病、凡そ六たび出でて匈奴を撃ち、其の四たびは将軍を以て出で、首虜を斬捕すること十一万余級。渾邪王の衆を以て降ること数万なるに及び、遂に河西酒泉の地を開き、西方益々胡寇少なし。四たび益封せられ、凡そ万五千一百戸。其の校吏の功有りて侯と為る者凡そ六人、而して後に将軍と為る者二人。将軍路博徳は、平州の人なり。右北平の太守を以て驃騎将軍に従ひて功有り、符離侯と為る。驃騎死して後、博徳衛尉を以て伏波将軍と為り、南越を伐ち破りて、益封せらる。其の後法に坐して侯を失ふ。彊弩都尉と為り、居延に屯して、卒す。将軍趙破奴は、故の九原の人なり。嘗て亡げて匈奴に入り、已にして漢に帰り、驃騎将軍の司馬と為る。北地より出づる時功有り、封ぜられて従驃侯と為る。酎金に坐して侯を失ふ。後一歳、匈河将軍と為り、胡を攻めて匈河水に至り、功無し。後二歳、楼蘭王を撃ち虜にし、復た封ぜられて浞野侯と為る。後六歳、浚稽将軍と為り、二万騎を将ゐて匈奴の左賢王を撃つ。左賢王与に戦ひ、兵八万騎破奴を囲む。破奴生きて虜の得る所と為り、遂に其の軍を没す。匈奴の中に居ること十歳、復た其の太子安国と亡げて漢に入る。後に巫蠱に坐して、族せらる。衛氏の興りしより、大将軍青首めて封ぜられ、其の後枝属五侯と為る。凡そ二十四歳にして五侯尽く奪はれ、衛氏に侯為る者無し。
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