史記 / 仲尼弟子列伝
孔子傳《易》於瞿,瞿傳楚人馯臂子弘,弘傳江東人矯子庸疵,疵傳燕人周子家豎,豎傳淳于人光子乘羽,羽傳齊人田子莊何,何傳東武人王子中同,同傳菑川人楊何。何元朔中以治易爲漢中大夫。髙柴字子羔。少孔子三十歳。子羔長不盈五尺,受業孔子,孔子以爲愚。子路使子羔爲費郈宰,孔子曰:「賊夫人之子!」子路曰:「有民人焉,有社稷焉,何必讀書然後爲學!」孔子曰:「是故惡夫佞者。」漆彫開字子開。孔子使開仕,對曰:「吾斯之未能信。」孔子説。公伯繚字子周。周訴子路於季孫,子服景伯以告孔子,曰:「夫子固有惑志,繚也,吾力猶能肆諸市朝。」孔子曰:「道之將行,命也;道之將廢,命也。公伯繚其如命何!」司馬耕字子牛。牛多言而躁。問仁於孔子,孔子曰:「仁者其言也訒。」曰:「其言也訒,斯可謂之仁乎?」子曰:「爲之難,言之得無訒乎!」問君子,子曰:「君子不憂不懼。」曰:「不憂不懼,斯可謂之君子乎?」子曰:「內省不疚,夫何憂何懼!」樊須字子遲。少孔子三十六歳。樊遲請學稼,孔子曰:「吾不如老農。」請學圃,曰:「吾不如老圃。」樊遲出,孔子曰:「小人哉樊須也!上好禮,則民莫敢不敬;上好義,則民莫敢不服;上好信,則民莫敢不用情。夫如是,則四方之民襁負其子而至矣,焉用稼!」樊遲問仁,子曰:「愛人。」問智,曰:「知人。」有若少孔子四十三歳。
新字:孔子伝《易》於瞿,瞿伝楚人馯臂子弘,弘伝江東人矯子庸疵,疵伝燕人周子家豎,豎伝淳于人光子乗羽,羽伝斉人田子荘何,何伝東武人王子中同,同伝菑川人楊何。何元朔中以治易為漢中大夫。高柴字子羔。少孔子三十歳。子羔長不盈五尺,受業孔子,孔子以為愚。子路使子羔為費郈宰,孔子曰:「賊夫人之子!」子路曰:「有民人焉,有社稷焉,何必読書然後為学!」孔子曰:「是故悪夫佞者。」漆彫開字子開。孔子使開仕,対曰:「吾斯之未能信。」孔子説。公伯繚字子周。周訴子路於季孫,子服景伯以告孔子,曰:「夫子固有惑志,繚也,吾力猶能肆諸市朝。」孔子曰:「道之将行,命也;道之将廃,命也。公伯繚其如命何!」司馬耕字子牛。牛多言而躁。問仁於孔子,孔子曰:「仁者其言也訒。」曰:「其言也訒,斯可謂之仁乎?」子曰:「為之難,言之得無訒乎!」問君子,子曰:「君子不憂不懼。」曰:「不憂不懼,斯可謂之君子乎?」子曰:「内省不疚,夫何憂何懼!」樊須字子遅。少孔子三十六歳。樊遅請学稼,孔子曰:「吾不如老農。」請学圃,曰:「吾不如老圃。」樊遅出,孔子曰:「小人哉樊須也!上好礼,則民莫敢不敬;上好義,則民莫敢不服;上好信,則民莫敢不用情。夫如是,則四方之民襁負其子而至矣,焉用稼!」樊遅問仁,子曰:「愛人。」問智,曰:「知人。」有若少孔子四十三歳。
書き下し
孔子易を瞿に伝へ、瞿楚人馯臂子弘に伝へ、弘江東の人矯子庸疵に伝へ、疵燕人周子家豎に伝へ、豎淳于の人光子乗羽に伝へ、羽斉人田子荘何に伝へ、何東武の人王子中同に伝へ、同菑川の人楊何に伝ふ。何元朔中に易を治むるを以て漢の中大夫と為る。高柴、字は子羔。孔子より少きこと三十歳。子羔長五尺に盈たず、業を孔子に受く、孔子以て愚と為す。子路子羔をして費郈の宰と為らしむ、孔子曰く、「夫の人の子を賊ふ」と。子路曰く、「民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん」と。孔子曰く、「是の故に夫の佞者を悪む」と。漆彫開、字は子開。孔子開をして仕へしめんとす、対へて曰く、「吾斯を之れ未だ信ずる能はず」と。孔子説ぶ。公伯繚、字は子周。周子路を季孫に訴ふ、子服景伯以て孔子に告げて、曰く、「夫子固より惑志有り、繚や、吾が力猶ほ能く諸を市朝に肆さん」と。孔子曰く、「道の将に行はれんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯繚其れ命を如何せん」と。司馬耕、字は子牛。牛多言にして躁なり。仁を孔子に問ふ、孔子曰く、「仁者は其の言や訒」と。曰く、「其の言や訒、斯に之を仁と謂ふべきか」と。子曰く、「之を為すこと難し、之を言ふに訒なること無きを得んや」と。君子を問ふ、子曰く、「君子は憂へず懼れず」と。曰く、「憂へず懼れず、斯に之を君子と謂ふべきか」と。子曰く、「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂へ何をか懼れん」と。樊須、字は子遅。孔子より少きこと三十六歳。樊遅稼を学ばんことを請ふ、孔子曰く、「吾老農に如かず」と。圃を学ばんことを請ふ、曰く、「吾老圃に如かず」と。樊遅出づ、孔子曰く、「小人なるかな樊須や。上礼を好めば、則ち民敢へて敬せざる莫し。上義を好めば、則ち民敢へて服せざる莫し。上信を好めば、則ち民敢へて情を用ひざる莫し。夫れ是くの如くんば、則ち四方の民其の子を襁負して至らん、焉んぞ稼を用ひん」と。樊遅仁を問ふ、子曰く、「人を愛す」と。智を問ふ、曰く、「人を知る」と。有若は孔子より少きこと四十三歳。
現代語訳
孔子は易を商瞿に伝え、商瞿は楚の人の馯臂子弘(かんぴしこう)に伝え、子弘は江東の人の矯子庸疵(きょうしようし)に伝え、庸疵は燕の人の周子家豎(しゅうしかじゅ)に伝え、家豎は淳于の人の光子乗羽(こうしじょうう)に伝え、乗羽は斉の人の田子荘何(でんしそうか)に伝え、荘何は東武の人の王子中同(おうしちゅうどう)に伝え、中同は菑川の人の楊何(ようか)に伝えた。楊何は元朔年間に易を修めたことで漢の中大夫となった。高柴(こうさい)は字を子羔という。孔子より三十歳年下である。子羔は背丈が五尺に満たなかった。孔子に学んだが、孔子は彼を愚直だと見ていた。子路が子羔を費(ひ)の宰にしようとしたとき、孔子は言った。「あの若者をだめにしてしまう。」子路は言った。「治めるべき民がおり、祭るべき社稷がある。どうして書物を読んでからでなければ学問と言えないのか。」孔子は言った。「だからわたしは口先のうまい者が嫌いなのだ。」漆彫開(しっちょうかい)は字を子開という。孔子が開を仕官させようとすると、開は答えた。「わたしはまだそれに自信が持てない。」孔子は喜んだ。公伯繚(こうはくりょう)は字を子周という。子周は子路のことを季孫に讒言した。子服景伯(しふくけいはく)がそのことを孔子に告げて言った。「季孫殿はもともと公伯繚の言葉に惑わされている。繚のことなら、わたしの力でまだ彼を処刑して市場にさらすことができる。」孔子は言った。「道が行われようとするのも天命であり、道が廃れようとするのも天命である。公伯繚ごときが天命をどうすることができようか。」司馬耕は字を子牛という。子牛は口数が多く落ち着きがなかった。孔子に仁について尋ねると、孔子は言った。「仁者はその言葉が控えめで重い。」子牛が言った。「言葉が控えめで重ければ、それで仁と言えるのか。」孔子は言った。「実行するのが難しいのだから、口にするときに重くならずにいられようか。」君子について尋ねると、孔子は言った。「君子は憂えず、恐れない。」子牛が言った。「憂えず恐れなければ、それで君子と言えるのか。」孔子は言った。「自分の内を省みてやましいところがなければ、何を憂え、何を恐れることがあろうか。」樊須(はんしゅ)は字を子遅という。孔子より三十六歳年下である。樊遅が穀物の作り方を学びたいと願うと、孔子は言った。「わたしは年老いた農夫に及ばない。」野菜の作り方を学びたいと願うと、孔子は言った。「わたしは年老いた畑作りに及ばない。」樊遅が退出すると、孔子は言った。「小人だな、樊須は。上に立つ者が礼を好めば、民は敬わない者はいない。上に立つ者が義を好めば、民は従わない者はいない。上に立つ者が信を好めば、民は真心を尽くさない者はいない。そうなれば、四方の民は子どもを背負ってやって来る。どうして自ら耕す必要があろうか。」樊遅が仁について尋ねると、孔子は言った。「人を愛することだ。」智について尋ねると、孔子は言った。「人を知ることだ。」有若(ゆうじゃく)は孔子より四十三歳年下である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之四・心術下一天命は天のくだす所、人のうくる所なり。命は猶令のごとしとて、下知の意なり。天よりくだる故に天命といふ。天命に常あり変あり。善を行へば福あり、悪をすれば禍あるは常なり。善人に禍あり。悪人に福あるは変なり。人の吉凶、禍福、寿夭、富貴貧賤、万の幸不幸、皆天の命ずる所なり。人間の万事、天命にあらざる事なし。或は生れつきて定まり、或は時により不慮に命くだりて、偶然として福にあひ、わざはひにあふ。求めても命なければ得がたく、求めざれども命あれば得やすし。唯人の法を行ひて、天命をまつべし。善を行ひて福来るは常の理なれども、もし禍あるは、是また天命の変なれば、うれふべからず。およそ人天命を知りて、命にまかせ、うれひなき工夫をなすべし。天命を知らざれば、命のさだまりありて、福の求めがたく、禍の去りがたき事を知らず。利につき、害をさけんとし、人にへつらひ、神にへつらふは見ぐるし。愚なりといふべし。故に論語に、命を知らざれば以て君子たること無きなりといへり。
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