史記 / 仲尼弟子列伝
高柴字子羔。少孔子三十歲。子羔長不盈五尺、孔子以為愚。子路使子羔為費郈宰、孔子曰、賊夫人之子。子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必讀書然後為學。孔子曰、是故惡夫佞者。司馬耕字子牛。牛多言而躁、問仁於孔子、孔子曰、仁者其言也讱。樊須字子遲。樊遲請學稼、孔子曰、吾不如老農。樊遲出、孔子曰、上好禮則民莫敢不敬、上好義則民莫敢不服、上好信則民莫敢不用情。焉用稼。樊遲問仁、子曰、愛人。問智、曰、知人。有若少孔子四十三歲。孔子既沒、弟子以有若狀似孔子、共立為師。商瞿受易於孔子、孔子傳易於瞿、瞿傳之、後世治易者多本焉。
新字:高柴字子羔。少孔子三十歳。子羔長不盈五尺、孔子以為愚。子路使子羔為費郈宰、孔子曰、賊夫人之子。子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必読書然後為学。孔子曰、是故悪夫佞者。司馬耕字子牛。牛多言而躁、問仁於孔子、孔子曰、仁者其言也讱。樊須字子遅。樊遅請学稼、孔子曰、吾不如老農。樊遅出、孔子曰、上好礼則民莫敢不敬、上好義則民莫敢不服、上好信則民莫敢不用情。焉用稼。樊遅問仁、子曰、愛人。問智、曰、知人。有若少孔子四十三歳。孔子既没、弟子以有若状似孔子、共立為師。商瞿受易於孔子、孔子伝易於瞿、瞿伝之、後世治易者多本焉。
書き下し
高柴、字は子羔。孔子より少きこと三十歳。子羔、長け五尺に盈たず、孔子以て愚と為す。子路、子羔をして費郈の宰と為さしむ。孔子曰く、「夫の人の子を賊なはん」と。子路曰く、「民人有り、社稷有り、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん」と。孔子曰く、「是の故に夫の佞者を悪む」と。司馬耕、字は子牛。牛、多言にして躁なり、仁を孔子に問ふ。孔子曰く、「仁者は其の言や讱(とどこほ)る」と。樊須、字は子遲。樊遲、稼を学ばんことを請ふ。孔子曰く、「吾は老農に如かず」と。樊遲出づ。孔子曰く、「上、礼を好めば則ち民敢て敬せざる莫く、上、義を好めば則ち民敢て服せざる莫く、上、信を好めば則ち民敢て情を用ゐざる莫し。焉ぞ稼を用ゐん」と。樊遲、仁を問ふ。子曰く、「人を愛す」と。智を問ふ。曰く、「人を知る」と。有若、孔子より少きこと四十三歳。孔子既に没し、弟子有若の状の孔子に似たるを以て、共に立てて師と為す。商瞿、易を孔子に受け、孔子易を瞿に伝へ、瞿之を伝へ、後世易を治むる者多く本づく。
現代語訳
高柴は字を子羔という。孔子より三十歳若い。子羔は身の丈が五尺に満たず、孔子は愚かだと見ていた。子路が子羔を費の長官にしようとした。孔子は言った。「あの若者をだめにしてしまうぞ」。子路は言った。「そこには民があり、社稷があります。書物を読んでからでなければ学問にならぬ、というものでもないでしょう」。孔子は言った。「だから私は、口の達者な者を嫌うのだ」。司馬耕は字を子牛という。牛は口数が多くせっかちだった。仁について孔子に尋ねた。孔子は言った。「仁者は、言葉が重く、ためらいがちだ」。樊須は字を子遲という。樊遲が農事を学びたいと願い出た。孔子は言った。「私は老練な農夫には及ばない」。樊遲が退出すると、孔子は言った。「上に立つ者が礼を好めば、民は敬わずにはいられない。上に立つ者が義を好めば、民は服さずにはいられない。上に立つ者が信を好めば、民は真心を尽くさずにはいられない。どうして農事を学ぶ必要があろうか」。樊遲が仁について尋ねた。孔子は言った。「人を愛することだ」。智について尋ねた。孔子は言った。「人を知ることだ」。有若は孔子より四十三歳若い。孔子が没すると、弟子たちは有若の姿かたちが孔子に似ていることから、ともに彼を立てて師とした。商瞿は易を孔子に学んだ。孔子は易を瞿に伝え、瞿はこれをさらに伝え、後世に易を修める者の多くはここに源を発している。
解説
この章句が説くこと
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論語・里仁篇子曰く、「我未だ仁を好む者と、不仁を悪む者とを見ざるなり。仁を好む者は、以て之に尚(くわ)うる無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為すや、不仁者をして其の身に加えしめず。能く一日其の力を仁に用うること有らんか。我未だ力足らざる者を見ざるなり。蓋し之有らん、我未だ之を見ざるなり。」
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史記 孫子呉起列伝起の将為るや、士卒の最下の者と衣食を同じくす。臥するに席を設けず、行くに騎乗せず、親ら贏糧を裹ひ、士卒と労苦を分かつ。卒に疽を病む者有り、起、為に之を吮ふ。卒の母、聞きて之に哭す。人曰く、「子は卒なり、而るに将軍自ら其の疽を吮ふ、何ぞ哭するを為す」と。母曰く、「然るに非ざるなり。往年、呉公、其の父を吮ひ、其の父、戦ひて踵を旋さず、遂に敵に死す。呉公今又其の子を吮ふ。妾、其の死所を知らず。是を以て之を哭す」と。
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六韜・励軍武王 太公に問ひて曰く、「吾 三軍の衆をして、城を攻むれば先登を争ひ、野戦すれば先赴を争ひ、金の声を聞きて怒り、鼓の声を聞きて喜ばしめんと欲す。之を為すこと奈何」と。太公曰く、「将に三あり」と。武王曰く、「敢へて其の目を問はん」と。太公曰く、「将 冬に裘を服ず、夏に扇を操らず、雨に蓋を張らず、名づけて礼将と曰ふ。将 身づから礼を服せざれば、以て士卒の寒暑を知る無し。隘塞を出で、泥塗を犯すには、将 必ず先づ下りて歩む、名づけて力将と曰ふ。将 身づから力を服せざれば、以て士卒の労苦を知る無し。軍 皆な次を定めて、将 乃ち舎に就く。炊ぐ者 皆な熟して、将 乃ち食に就く。軍 火を挙げざれば、将も亦た挙げず、名づけて止欲将と曰ふ。将 身づから止欲を服せざれば、以て士卒の飢飽を知る無し。将 士卒と寒暑・労苦・飢飽を共にす、故に三軍の衆、鼓の声を聞けば則ち喜び、金の声を聞けば則ち怒る。高城深池、矢石 繁く下るも、士は先登を争ふ。白刃 始めて合ふも、士は先赴を争ふ。士は死を好みて傷つくを楽しむに非ざるなり。其の将の寒暑・飢飽を知ること審らかにして、労苦を見ること明らかなるが為なり」と。