孔子家語 / 本姓解
孔子之先,宋之後也。微子啟,帝乙之元子,紂之庶兄,以圻內諸侯入為王卿士。微,國名,子爵。初武王克殷,封紂之子武庚於朝歌,使奉湯祀。武王崩,而與管蔡霍三叔作難。周公相成王,東征之。二年,罪人斯得,乃命微子於殷。後作微子之命,由之與國於宋,徙殷之子孫,唯微子先仕周,故封之賢。其弟曰仲思,名衍,或名泄,嗣微之後,故號微仲。生宋公稽胄子,雖遷爵易位,而班級不及其故者,得以故官為稱。故二微雖為宋公,而猶以微之號自終,至於稽乃稱公焉。宋公生丁公申。申公生緡公共,及襄公熙。熙生弗父何,及厲公方祀。方祀以下,世為宋卿。弗父何生宋父周。周生世子勝。勝生正考甫。考甫生孔父嘉。五世親盡,別為公族,故後以孔為氏焉。一曰孔父者,生時所賜號也,是以子孫遂以氏族。孔父生子木金父。金父生睪夷。睪夷生防叔,避華氏之禍而奔魯。方叔生伯夏。伯夏生叔梁紇,曰雖有九女,是無子。其妾生孟皮,孟皮一字伯尼,有跛足。於是乃求婚於顏氏。顏氏有三女,其小曰徵在。顏父問三女曰:「陬大夫雖父祖為士,然其先聖王之裔。今其人身長十尺,武力絕倫,吾甚貪之。雖年長性嚴,不足為疑。三子孰能為之妻?」二女莫對。徵在進曰:「從父所制,將何問焉?」父曰:「即爾能矣。」遂以妻之。徵在既廟見,以夫之年大,懼不時有勇,而私禱尼丘之山以祈焉。生孔子,故名丘,字仲尼。孔子三歲而叔梁紇卒,葬於防。至十九,娶於宋之亓官氏,一歲而生伯魚。魚之生也,魯昭公以鯉魚賜孔子。榮君之貺,故因以名曰鯉,而字伯魚。魚年五十,先孔子卒。
新字:孔子之先,宋之後也。微子啓,帝乙之元子,紂之庶兄,以圻内諸侯入為王卿士。微,国名,子爵。初武王克殷,封紂之子武庚於朝歌,使奉湯祀。武王崩,而与管蔡霍三叔作難。周公相成王,東征之。二年,罪人斯得,乃命微子於殷。後作微子之命,由之与国於宋,徙殷之子孫,唯微子先仕周,故封之賢。其弟曰仲思,名衍,或名泄,嗣微之後,故号微仲。生宋公稽胄子,雖遷爵易位,而班級不及其故者,得以故官為称。故二微雖為宋公,而猶以微之号自終,至於稽乃称公焉。宋公生丁公申。申公生緡公共,及襄公熙。熙生弗父何,及厲公方祀。方祀以下,世為宋卿。弗父何生宋父周。周生世子勝。勝生正考甫。考甫生孔父嘉。五世親尽,別為公族,故後以孔為氏焉。一曰孔父者,生時所賜号也,是以子孫遂以氏族。孔父生子木金父。金父生睪夷。睪夷生防叔,避華氏之禍而奔魯。方叔生伯夏。伯夏生叔梁紇,曰雖有九女,是無子。其妾生孟皮,孟皮一字伯尼,有跛足。於是乃求婚於顔氏。顔氏有三女,其小曰徴在。顔父問三女曰:「陬大夫雖父祖為士,然其先聖王之裔。今其人身長十尺,武力絶倫,吾甚貪之。雖年長性厳,不足為疑。三子孰能為之妻?」二女莫対。徴在進曰:「従父所制,将何問焉?」父曰:「即爾能矣。」遂以妻之。徴在既廟見,以夫之年大,懼不時有勇,而私祷尼丘之山以祈焉。生孔子,故名丘,字仲尼。孔子三歳而叔梁紇卒,葬於防。至十九,娶於宋之亓官氏,一歳而生伯魚。魚之生也,魯昭公以鯉魚賜孔子。栄君之貺,故因以名曰鯉,而字伯魚。魚年五十,先孔子卒。
書き下し
孔子の先は、宋の後なり。微子啟は、帝乙の元子、紂の庶兄にして、圻内の諸侯を以て入りて王の卿士と為る。微は、国名、子爵なり。初め武王殷に克つや、紂の子武庚を朝歌に封じ、湯の祀りを奉ぜしむ。武王崩じて、管・蔡・霍の三叔と難を作す。周公成王を相け、東のかたこれを征す。二年にして、罪人斯に得られ、乃ち微子を殷に命ず。後に微子の命を作り、これに由りて国を宋に与え、殷の子孫を徙す。唯だ微子は先に周に仕えたれば、故にこれを封ずるに賢なりとす。その弟を仲思と曰い、名は衍、或いは泄と名づく。微の後を嗣ぐ、故に微仲と号す。宋公稽という胄子を生む。爵を遷し位を易うと雖も、班級その故きに及ばざれば、故官を以て称と為すを得。故に二微は宋公と為ると雖も、猶お微の号を以て自ら終う。稽に至りて乃ち公と称す。宋公、丁公申を生む。申公、緡公共及び襄公熙を生む。熙、弗父何及び厲公方祀を生む。方祀より以下、世々宋の卿と為る。弗父何、宋父周を生む。周、世子勝を生む。勝、正考甫を生む。考甫、孔父嘉を生む。五世にして親尽き、別れて公族と為る、故に後に孔を以て氏と為す。一に曰く、孔父とは、生時に賜う所の号なり、是を以て子孫遂に氏族とす。孔父、子木金父を生む。金父、睪夷を生む。睪夷、防叔を生む、華氏の禍を避けて魯に奔る。方叔、伯夏を生む。伯夏、叔梁紇を生む、曰く九女ありと雖も、是れ子無し。その妾、孟皮を生む、孟皮は一に伯尼と字す、跛足あり。ここに於て乃ち婚を顔氏に求む。顔氏に三女あり、その小を徴在と曰う。顔父、三女に問いて曰く、「陬大夫は父祖士たりと雖も、然れどもその先は聖王の裔なり。今その人身の長十尺、武力絶倫にして、吾甚だこれを貪る。年長け性厳しと雖も、疑いを為すに足らず。三子孰れかよくこれが妻と為らん」と。二女対うる莫し。徴在進みて曰く、「父の制する所に従わん、将た何ぞ問わんや」と。父曰く、「即ち爾よくせん」と。遂に以てこれに妻せしむ。徴在既に廟見するや、夫の年の大なるを以て、時に勇あらざるを懼れ、私かに尼丘の山に禱りて以て祈る。孔子を生む、故に名を丘とし、字を仲尼とす。孔子三歳にして叔梁紇卒す、防に葬る。十九に至りて、宋の亓官氏に娶る、一歳にして伯魚を生む。魚の生まるるや、魯の昭公、鯉魚を以て孔子に賜う。君の貺を栄とし、故に因りて名づけて鯉と曰い、字を伯魚とす。魚、年五十にして、孔子に先だちて卒す。
現代語訳
孔子の祖先は、宋の(王族の)子孫である。微子啓は帝乙の長子で紂王の庶兄(異母兄)であり、畿内の諸侯として朝廷に入り、王朝の卿士(大臣)となった。「微」は国名で、爵位は子爵である。かつて武王が殷を滅ぼした際、紂王の子である武庚を朝歌に封じ、湯王の祭祀を継がせた。武王が崩御すると、武庚は管叔・蔡叔・霍叔の三叔とともに反乱を起こした。周公は成王を補佐し、東方へ出征してこれを討伐した。二年にしてその罪人(武庚ら)は捕えられ、そこで改めて微子を殷の後継に任命した。のちに「微子之命」という書が作られ、これによって微子は宋の地を与えられ、殷の子孫はそこへ移された。微子だけは先んじて周に仕えていたため、賢者として封じられたのである。微子の弟は仲思といい、名を衍、あるいは泄といったが、微子の後を継いだので微仲と号した。微仲は宋公稽という嫡子をもうけた。爵位や地位が変わっても、席次がもとの地位に及ばない場合は元の官名をそのまま称号とすることが認められていたため、微子・微仲の二人は実質宋公でありながら、なお「微」の号のまま生涯を終え、その子稽の代になって初めて「公」と称するようになった。宋公稽は丁公申を生み、申公(丁公申)は緡公共と襄公熙を生み、襄公熙は弗父何と厲公方祀を生んだ。方祀より後は、代々宋の卿(大臣)となった。弗父何は宋父周を生み、宋父周は世子勝を生み、勝は正考甫を生み、正考甫は孔父嘉を生んだ。弗父何から五世を経て宋公室との親族関係が尽きたため、本家から分かれて公族となり、それゆえ後に「孔」を氏(姓)とするようになった。一説には、「孔父」とは孔父嘉が生前に賜った名号であり、それゆえ子孫はついにこれを氏としたのだという。孔父嘉は子木金父を生み、金父は睪夷を生み、睪夷は防叔を生んだ。防叔は華氏の禍(政変)を避けて魯に亡命した。防叔は伯夏を生み、伯夏は叔梁紇を生んだ。叔梁紇には九人の娘がいたが、男子はいなかったという。その妾が孟皮を生んだが、孟皮は字を伯尼といい、足が不自由であった。そこで叔梁紇は顔氏に婚姻を申し込んだ。顔氏には三人の娘がおり、末娘を徴在といった。顔氏の父は三人の娘に、「陬の大夫(叔梁紇)は、父祖こそ士の身分であったが、その先祖は聖王の子孫である。今その人は身の丈十尺もあり、武勇は並ぶ者がない。私は大いにこの縁組を望んでいる。年をとって性格も厳格だというが、疑うには及ばない。三人のうち誰がこの人の妻になれるだろうか」と尋ねた。上の二人の娘は答えなかった。徴在は進み出て、「父上のお決めになる通りにいたします。どうしてお尋ねになる必要がありましょうか」と言った。父は「それならばお前がその役を果たせるだろう」と言い、ついに徴在を叔梁紇の妻とした。徴在は嫁いで廟に参ったのち、夫の年齢が高いことから、しかるべき時に子を授かる力がないのではと恐れ、ひそかに尼丘山に祈願した。こうして孔子が生まれたので、名を丘とし、字を仲尼とした。孔子が三歳のとき叔梁紇は亡くなり、防の地に葬られた。孔子は十九歳のとき、宋の亓官氏の娘を娶り、一年後に伯魚が生まれた。伯魚が生まれたとき、魯の昭公は鯉を孔子に贈った。君主からの賜り物を光栄なこととして、それにちなんで名を鯉と名づけ、字を伯魚とした。伯魚は五十歳で、孔子より先に亡くなった。
解説

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