史記 / 孔子世家
與齊太師語樂,聞韶音,學之,三月不知肉味,齊人稱之。景公問政孔子,孔子曰:「君君,臣臣,父父,子子。」景公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾豈得而食諸!」他日又復問政於孔子,孔子曰:「政在節財。」景公說,將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:「夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順,不可以為下;崇喪遂哀,破產厚葬,不可以為俗;游說乞貸,不可以為國。自大賢之息,周室既衰,禮樂缺有間。今孔子盛容飾,繁登降之禮,趨詳之節,累世不能殫其學,當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗,非所以先細民也。」後景公敬見孔子,不問其禮。異日,景公止孔子曰:「奉子以季氏,吾不能。」以季孟之間待之。齊大夫欲害孔子,孔子聞之。景公曰:「吾老矣,弗能用也。」孔子遂行,反乎魯。孔子年四十二,魯昭公卒於乾侯,定公立。定公立五年,夏,季平子卒,桓子嗣立。季桓子穿井得土缶,中若羊,問仲尼云「得狗」。仲尼曰:「以丘所聞,羊也。丘聞之,木石之怪夔、罔閬,水之怪龍、罔象,土之怪墳羊。」吳伐越,墮會稽,得骨節專車。吳使使問仲尼:「骨何者最大?」仲尼曰:「禹致羣神於會稽山,防風氏後至,禹殺而戮之,其節專車,此為大矣。」吳客曰:「誰為神?」
新字:与斉太師語楽,聞韶音,学之,三月不知肉味,斉人称之。景公問政孔子,孔子曰:「君君,臣臣,父父,子子。」景公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾豈得而食諸!」他日又復問政於孔子,孔子曰:「政在節財。」景公説,将欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:「夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順,不可以為下;崇喪遂哀,破産厚葬,不可以為俗;游説乞貸,不可以為国。自大賢之息,周室既衰,礼楽欠有間。今孔子盛容飾,繁登降之礼,趨詳之節,累世不能殫其学,当年不能究其礼。君欲用之以移斉俗,非所以先細民也。」後景公敬見孔子,不問其礼。異日,景公止孔子曰:「奉子以季氏,吾不能。」以季孟之間待之。斉大夫欲害孔子,孔子聞之。景公曰:「吾老矣,弗能用也。」孔子遂行,反乎魯。孔子年四十二,魯昭公卒於乾侯,定公立。定公立五年,夏,季平子卒,桓子嗣立。季桓子穿井得土缶,中若羊,問仲尼云「得狗」。仲尼曰:「以丘所聞,羊也。丘聞之,木石之怪夔、罔閬,水之怪竜、罔象,土之怪墳羊。」呉伐越,堕会稽,得骨節専車。呉使使問仲尼:「骨何者最大?」仲尼曰:「禹致羣神於会稽山,防風氏後至,禹殺而戮之,其節専車,此為大矣。」呉客曰:「誰為神?」
書き下し
斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
現代語訳
(孔子は)斉の楽官の長と音楽について語り、韶(しょう、舜の音楽)の調べを聞いてこれを学び、三か月のあいだ肉の味も分からないほどであった。斉の人々はこれを称えた。景公が孔子に政治について尋ねると、孔子は言った。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくあることだ」。景公は言った。「よいことを言う。まことに君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、穀物があったところで、わしはどうしてそれを食べていられようか」。別の日にまた政治について尋ねると、孔子は言った。「政治は財を節約することにある」。景公は喜び、尼谿(じけい)の田地を与えて孔子を封じようとした。晏嬰が進み出て言った。「そもそも儒者というものは口がうまく、手本や法とすることはできない。傲慢で自分の考えに従うばかりで、臣下として使うことはできない。喪を重んじ哀しみを尽くし、財産を傾けて手厚く葬るから、民の風俗とすることはできない。各地を遊説して施しを求めるから、国を治めさせることはできない。偉大な賢人たちが絶えてから、周の王室はすでに衰え、礼楽が欠けてしばらくたつ。いま孔子は容儀や服飾を盛んにし、堂の上り下りの礼や小走りの作法を煩雑にしている。何代かけてもその学を究め尽くすことはできず、一生かけてもその礼を極めることはできない。殿がこれを用いて斉の風俗を改めようとなさるのは、庶民を第一に考えるやり方ではない」。その後、景公は孔子に会うときも礼儀正しくはしたが、礼について尋ねることはなくなった。ある日、景公は孔子を引き止めて言った。「あなたを季氏(魯の筆頭の家老)並みに遇することは、わしにはできない」。そして季氏と孟氏の中間の待遇で遇した。斉の大夫たちが孔子を害そうとし、孔子はそれを耳にした。景公は言った。「わしは老いた。あなたを用いることはできない」。孔子はそこで去り、魯に帰った。孔子が四十二歳のとき、魯の昭公が乾侯で亡くなり、定公が立った。定公が即位して五年目の夏、季平子が死に、桓子が跡を継いだ。季桓子が井戸を掘って土の甕を見つけたところ、中に羊のようなものが入っていた。仲尼(孔子)に「犬を見つけた」と言って尋ねると、仲尼は言った。「私の聞くところでは、それは羊だ。木や石の怪は夔(き)・罔閬(もうりょう)、水の怪は龍・罔象(もうしょう)、土の怪は墳羊(ふんよう)だと聞いている」。呉が越を攻めて会稽を破壊したとき、車一台をまるまる占めるほどの骨の節を手に入れた。呉は使者を遣わして仲尼に尋ねた。「骨はどんなものが最も大きいのか」。仲尼は言った。「禹が神々を会稽山に召し集めたとき、防風氏が遅れて来たので、禹は殺してさらしものにした。その骨の節が車一台を占めたという。これが最も大きいものだ」。呉の客は言った。「どういうものを神というのか」。
解説
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史記 孔子世家孔子長九尺有六寸、人皆之を「長人」と謂ひて之を異とす。魯復た善く待す、是に由りて魯に反る。魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車、両馬、一豎子を与へて倶にし、周に適きて礼を問ふ、蓋し老子に見ゆと云ふ。辞去するに、老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てすと。吾富貴なること能はず、仁人の号を窃み、子を送るに言を以てせん、曰く、『聡明深察にして死に近き者は、好んで人を議する者なり。博辯広大にして其の身を危ふくする者は、人の悪を発く者なり。人の子たる者は以て己を有すること毋かれ、人の臣たる者は以て己を有すること毋かれ』」と。孔子周より魯に反り、弟子稍く益々進む。是の時や、晋の平公淫し、六卿権を擅にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王兵彊く、中国を陵轢す。斉は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚来たり伐つ。斉に備へざれば、斉の師魯を侵す。魯の昭公の二十年にして、孔子蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰と来たりて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔秦の穆公、国小にして辟に処る、其の霸たるは何ぞや」と。対へて曰く、「秦は、国小なりと雖も、其の志大なり。処辟なりと雖も、行ひ中正なり。身づから五羖を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲の中より起こし、与に語ること三日にして、之に政を授く。此を以て之を取らば、王と雖も可なり、其の霸は小なり」と。景公説ぶ。孔子年三十五にして、季平子と郈昭伯と闘鶏の故を以て罪を魯の昭公に得たり。昭公師を率ゐて平子を撃つ、平子、孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る、斉、昭公を乾侯に処らしむ。其の後頃之くして、魯乱る。孔子斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
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史記 斉太公世家田氏は大徳無しと雖も、公権を以て私し、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公晋に如き、平公に見え、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公復た晋に如き、昭公に見ゆ。二十六年、魯の郊に猟し、因りて魯に入り、晏嬰と倶に魯の礼を問ふ。三十一年、魯の昭公、季氏の難を辟け、斉に奔る。斉、千社を以て之を封ぜんと欲す。子家、昭公を止む。昭公乃ち斉に請ひて魯を伐ち、鄆を取りて以て昭公を居らしむ。三十二年、彗星見はる。景公、柏寝に坐し、嘆じて曰く、「堂堂たり。誰か此を有たんや」と。群臣皆泣く。晏子笑ふ。公怒る。晏子曰く、「臣は群臣の諛ふこと甚だしきを笑ふ」と。景公曰く、「彗星東北に出で、斉の分野に当る。寡人以て憂と為す」と。晏子曰く、「君は台を高くし池を深くし、賦斂は得ざるが如くし、刑罰は勝へざるを恐る。茀星将に出でんとす。彗星何ぞ懼れんや」と。公曰く、「禳ふ可きや否や」と。晏子曰く、「神をして祝して来らしむ可くんば、亦禳ひて去らしむ可きなり。百姓の苦怨するもの万を以て数ふ。而るに君一人をして之を禳はしむ。安んぞ能く衆口に勝たんや」と。是の時、景公好んで宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈にして、賦を厚くし刑を重くす。故に晏子此を以て之を諫む。四十二年、呉王闔閭、楚を伐ちて郢に入る。四十七年、魯の陽虎、其の君を攻むるも、勝たず、斉に奔り、斉に魯を伐たんことを請ふ。鮑子、景公を諫め、乃ち陽虎を囚ふ。陽虎亡ぐるを得て、晋に奔る。四十八年、魯の定公と夾谷に好会す。犁鉏曰く、「孔丘は礼を知れども怯なり。請ふ萊人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得可し」と。景公、孔丘の魯に相たるを害とし、其の覇たらんことを懼る。故に犁鉏の計に従ふ。方に会するや、萊の楽を進む。孔子階を歴て上り、有司をして萊人を執へて之を斬らしめ、礼を以て景公を譲む。景公慚ぢ、乃ち魯の侵地を帰して以て謝し、罷め去る。是の歳、晏嬰卒す。五十五年、范・中行、其の君に晋に反す。晋之を攻むること急なり。来りて粟を請ふ。
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史記 孔子世家夫れ名正しからざれば則ち言順はず、言順はざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を錯く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づくべく、之を言へば必ず行ふべし。君子は其の言に於て、苟くもする所無きのみ」と。其の明年、冉有季氏の為に師を将ゐ、斉と郎に戦ひ、之に克つ。季康子曰く、「子の軍旅に於けるや、之を学べるか、之を性とせるか」と。冉有曰く、「之を孔子に学べり」と。季康子曰く、「孔子は何如なる人ぞや」と。対へて曰く、「之を用ふれば名有り。之を百姓に播き、諸を鬼神に質すも憾み無し。求の此の道に至るを求むれば、千社を累ぬと雖も、夫子は利とせざるなり」と。康子曰く、「我之を召さんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「之を召さんと欲せば、則ち小人を以て之を固むること毋くんば、則ち可なり」と。而して衛の孔文子将に太叔を攻めんとし、策を仲尼に問ふ。仲尼辞して知らずとし、退きて載することを命じて行き、曰く、「鳥は能く木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや」と。文子固く止む。会々季康子公華・公賓・公林を逐ひ、幣を以て孔子を迎ふ、孔子魯に帰る。孔子の魯を去ること凡そ十四歳にして魯に反る。魯の哀公政を問ふ、対へて曰く、「政は臣を選ぶに在り」と。季康子政を問ふ、曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち枉れる者直し」と。康子盗を患ふ、孔子曰く、「苟も子の欲せざれば、之を賞すと雖も窃まず」と。然れども魯終に孔子を用ふる能はず、孔子も亦た仕ふるを求めず。孔子の時、周室微にして礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで、其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾能く之を言へども、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言へども、宋は徴とするに足らざるなり。足らば、則ち吾能く之を徴とせん」と。殷夏の損益する所を観て、曰く、「後百世と雖も知るべきなり、一文一質を以てす。周は二代に監みる、郁郁乎として文なるかな。
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史記 孔子世家夫人帷中より再拝す、環珮の玉声璆然たり。孔子曰く、「吾郷に見えずと為す、之を見るに礼もて答ふ」と。子路説ばず。孔子之に矢ひて曰く、「予が否なる所の者は、天之を厭たん、天之を厭たん」と。衛に居ること月余、霊公夫人と車を同じくし、宦者雍渠参乗し、出で、孔子をして次乗為らしめ、招揺して市に之を過ぐ。孔子曰く、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と。是に於て之を醜とし、衛を去り、曹を過ぐ。是の歳、魯の定公卒す。孔子曹を去りて宋に適き、弟子と礼を大樹の下に習ふ。宋の司馬桓魋孔子を殺さんと欲し、其の樹を抜く。孔子去る。弟子曰く、「以て速やかにすべし」と。孔子曰く、「天徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」と。孔子鄭に適き、弟子と相失ひ、孔子独り郭の東門に立つ。鄭人或ひと子貢に謂ひて曰く、「東門に人有り、其の顙は堯に似、其の項は皋陶に類し、其の肩は子産に類す、然れども要より以下は禹に及ばざること三寸。纍纍として喪家の狗の若し」と。子貢実を以て孔子に告ぐ。孔子欣然として笑ひて曰く、「形状は末なり。而るに喪家の狗に似たりと謂ふは、然るかな、然るかな」と。孔子遂に陳に至り、司城貞子の家に主たり。歳余にして、呉王夫差陳を伐ち、三邑を取りて去る。趙鞅朝歌を伐つ。楚蔡を囲み、蔡呉に遷る。呉、越王句践を会稽に敗る。隼有り陳の廷に集まりて死す、楛矢之を貫く、石砮にして、矢の長さ尺有咫。陳の湣公使をして仲尼に問はしむ。仲尼曰く、「隼の来たること遠し、此れ粛慎の矢なり。昔武王商に克ち、道を九夷百蛮に通じ、各々其の方賄を以て来貢せしめ、職業を忘るること無からしむ。是に於て粛慎楛矢石砮を貢す、長さ尺有咫。先王其の令徳を昭らかにせんと欲し、粛慎の矢を以て大姫に分かち、虞の胡公に配して諸を陳に封ず。同姓に分かつに珍玉を以てし、親を展ぶ。異姓に分かつに遠職を以てし、服を忘るること無からしむ。
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