戦国策 / 頃襄王二十年
頃襄王二十年,秦白起拔楚西陵,或拔鄢、郢、夷陵,燒先王之墓。王徙東北,保于陳城,楚遂削弱,為秦所輕。於是白起又將兵來伐。楚人有黃歇者,游學博聞,襄王以為辯,故使於秦。說昭王曰:「天下莫強於秦、楚,今聞大王欲伐楚,此猶兩虎相鬥而駑犬受其弊,不如善楚。臣請言其說。臣聞之:『物至而反,冬夏是也。致至而危,累碁是也。』今大國之地半天下,有二垂,此從生民以來,萬乘之地未嘗有也。先帝文王、莊王,王之身,三世而不接地於齊,以絕從親之要。今王三使盛橋守事於韓,成橋以北入燕。是王不用甲,不伸威,而出百里之地,王可謂能矣。王又舉甲兵而攻魏,杜大梁之門,舉河內,拔燕、酸棗、虛、桃人,楚、燕之兵云翔不敢校,王之功亦多矣。王申息眾二年,然後復之,又取蒲、衍、首垣,以臨仁、平兵,小黃、濟陽嬰城,而魏氏服矣。王又割濮、磨之北屬之燕,斷齊、秦之要,絕楚、魏之脊。天下五合、六聚而不敢救也,王之威亦憚矣。王若能持功守威,省攻伐之心而肥仁義之誡,使無復後患,三王不足四,五伯不足六也。「王若負人徒之眾,材兵甲之強,壹毀魏氏之威,而欲以力臣天下之主,臣恐有後患。詩云:『靡不有初,鮮克有終。』易曰:『狐濡其尾。』此言始之易,終之難也。何以知其然也?智氏見伐趙之利,而不知榆次之禍也;吳見伐齊之便,而不知干隧之敗也。此二國者,非無大功也,設利於前,而易患於後也。吳之信越也,從而伐齊,既勝齊人於艾陵,還為越王禽於三江之浦。智氏信韓、魏,從而伐趙,攻晉陽之城,勝有日矣,韓、魏反之,殺智伯瑤於鑿臺之上。今王妒楚之不毀也,而忘毀楚之強魏也。臣為大王慮而不取。詩云:『大武遠宅不涉。』從此觀之,楚國,援也;鄰國,敵也。詩云:『他人有心,予忖度之。躍躍毚兔,遇犬獲之。』今王中道而信韓、魏之善王也,此正吳信越也。臣聞,敵不可易,時不可失。臣恐韓、魏之卑辭慮患,而實欺大國也。此何也?王既無重世之德於韓、魏,而有累世之怨矣。韓、魏父子兄弟接踵而死於秦者,百世矣。本國殘,社稷壞,宗廟隳,刳腹折頤,首身分離,暴骨草澤,頭顱僵仆,相望於境;父子老弱係虜,相隨於路;鬼神狐祥無所食,百姓不聊生,族類離散,流亡為臣妾,滿海內矣。韓、魏之不亡,秦社稷之憂也。今王之攻楚,不亦失乎!是王攻楚之日,則惡出兵?王將藉路於仇讎之韓、魏乎!兵出之日而王憂其不反也,是王以兵資於仇讎之韓、魏。王若不藉路於仇讎之韓、魏,必攻陽、右壤。隨陽、右壤,此皆廣川大水,山林谿谷不食之地,王雖有之,不為得地。是王有毀楚之名,無得地之實也。「且王攻楚之日,四國必應悉起應王。秦、楚之構而不離,魏氏將出兵而攻留、方與、銍、胡陵、碭、蕭、相,故宋必盡。齊人南面,泗北必舉。此皆平原四達,膏腴之地也,而王使之獨攻。王破楚於以肥韓、魏於中國而勁齊,韓、魏之強足以校於秦矣。齊南以泗為境,東負海,北倚河,而無後患,天下之國,莫強於齊。齊、魏得地葆利,而詳事下吏,一年之後,為帝若未能,於以禁王之為帝有餘。夫以王壤土之博,人徒之眾,兵革之強,一舉眾而注地於楚,詘令韓、魏,歸帝重於齊,是王失計也。「臣為王慮,莫若善楚。秦、楚合而為一,臨以韓,韓必授首。王襟以山東之險,帶以河曲之利,韓必為關中之候。若是,王以十成鄭,梁氏寒心,許、鄢陵嬰城,上蔡、召陵不往來也。如此,而魏亦關內候矣。王一善楚,而關內二萬乘之主注地於齊,齊之右壤可拱手而取也。是王之地一任兩海,要絕天下也。是燕、趙無齊、楚,無燕、趙也。然後危動燕、趙,持齊、楚,此四國者,不待痛而服矣。」
新字:頃襄王二十年,秦白起抜楚西陵,或抜鄢、郢、夷陵,焼先王之墓。王徙東北,保于陳城,楚遂削弱,為秦所軽。於是白起又将兵来伐。楚人有黄歇者,游学博聞,襄王以為弁,故使於秦。説昭王曰:「天下莫強於秦、楚,今聞大王欲伐楚,此猶両虎相鬥而駑犬受其弊,不如善楚。臣請言其説。臣聞之:『物至而反,冬夏是也。致至而危,累碁是也。』今大国之地半天下,有二垂,此従生民以来,万乗之地未嘗有也。先帝文王、荘王,王之身,三世而不接地於斉,以絶従親之要。今王三使盛橋守事於韓,成橋以北入燕。是王不用甲,不伸威,而出百里之地,王可謂能矣。王又舉甲兵而攻魏,杜大梁之門,舉河内,抜燕、酸棗、虚、桃人,楚、燕之兵云翔不敢校,王之功亦多矣。王申息眾二年,然後復之,又取蒲、衍、首垣,以臨仁、平兵,小黄、済陽嬰城,而魏氏服矣。王又割濮、磨之北属之燕,断斉、秦之要,絶楚、魏之脊。天下五合、六聚而不敢救也,王之威亦憚矣。王若能持功守威,省攻伐之心而肥仁義之誡,使無復後患,三王不足四,五伯不足六也。「王若負人徒之眾,材兵甲之強,壱毀魏氏之威,而欲以力臣天下之主,臣恐有後患。詩云:『靡不有初,鮮克有終。』易曰:『狐濡其尾。』此言始之易,終之難也。何以知其然也?智氏見伐趙之利,而不知榆次之禍也;吳見伐斉之便,而不知干隧之敗也。此二国者,非無大功也,設利於前,而易患於後也。吳之信越也,従而伐斉,既勝斉人於艾陵,還為越王禽於三江之浦。智氏信韓、魏,従而伐趙,攻晉陽之城,勝有日矣,韓、魏反之,殺智伯瑤於鑿台之上。今王妒楚之不毀也,而忘毀楚之強魏也。臣為大王慮而不取。詩云:『大武遠宅不渉。』従此観之,楚国,援也;鄰国,敵也。詩云:『他人有心,予忖度之。躍躍毚兔,遇犬獲之。』今王中道而信韓、魏之善王也,此正吳信越也。臣聞,敵不可易,時不可失。臣恐韓、魏之卑辞慮患,而実欺大国也。此何也?王既無重世之徳於韓、魏,而有累世之怨矣。韓、魏父子兄弟接踵而死於秦者,百世矣。本国残,社稷壊,宗廟隳,刳腹折頤,首身分離,暴骨草沢,頭顱僵仆,相望於境;父子老弱係虜,相随於路;鬼神狐祥無所食,百姓不聊生,族類離散,流亡為臣妾,満海内矣。韓、魏之不亡,秦社稷之憂也。今王之攻楚,不亦失乎!是王攻楚之日,則悪出兵?王将藉路於仇讎之韓、魏乎!兵出之日而王憂其不反也,是王以兵資於仇讎之韓、魏。王若不藉路於仇讎之韓、魏,必攻陽、右壤。随陽、右壤,此皆広川大水,山林谿谷不食之地,王雖有之,不為得地。是王有毀楚之名,無得地之実也。「且王攻楚之日,四国必応悉起応王。秦、楚之構而不離,魏氏将出兵而攻留、方与、銍、胡陵、碭、蕭、相,故宋必尽。斉人南面,泗北必舉。此皆平原四達,膏腴之地也,而王使之独攻。王破楚於以肥韓、魏於中国而勁斉,韓、魏之強足以校於秦矣。斉南以泗為境,東負海,北倚河,而無後患,天下之国,莫強於斉。斉、魏得地葆利,而詳事下吏,一年之後,為帝若未能,於以禁王之為帝有余。夫以王壤土之博,人徒之眾,兵革之強,一舉眾而注地於楚,詘令韓、魏,帰帝重於斉,是王失計也。「臣為王慮,莫若善楚。秦、楚合而為一,臨以韓,韓必授首。王襟以山東之険,帯以河曲之利,韓必為関中之候。若是,王以十成鄭,梁氏寒心,許、鄢陵嬰城,上蔡、召陵不往来也。如此,而魏亦関内候矣。王一善楚,而関内二万乗之主注地於斉,斉之右壤可拱手而取也。是王之地一任両海,要絶天下也。是燕、趙無斉、楚,無燕、趙也。然後危動燕、趙,持斉、楚,此四国者,不待痛而服矣。」
書き下し
頃襄王二十年、秦の白起楚の西陵を拔き、或は鄢・郢・夷陵を拔き、先王の墓を燒く。王東北に徙り、陳城に保つ、楚遂に削弱し、秦の輕んずる所と爲る。是に於て白起又兵を將ゐて來り伐たんとす。楚人に黃歇なる者有り、游學博聞、襄王以て辯と爲す、故に秦に使す。昭王に說きて曰く、「天下秦・楚より強きは莫し、今大王楚を伐たんと欲すと聞く、此れ猶ほ兩虎相鬥ひて駑犬其の弊を受くるがごとし、楚に善くするに如かず。臣請ふ其の說を言はん。臣之を聞く、『物至れば反る、冬夏是れなり。致りて至れば危ふし、累碁是れなり』と。今大國の地天下に半ばし、二垂有り、此れ生民以來、萬乘の地未だ嘗て有らざるなり。先帝文王・莊王、王の身、三世にして齊に地を接せず、以て從親の要を絕つ。今王三たび盛橋をして韓に事を守らしめ、成橋以北燕に入る。是れ王甲を用ゐず、威を伸べずして、百里の地を出だす、王能と謂ふ可し。王又甲兵を舉げて魏を攻め、大梁の門を杜(ふさ)ぎ、河內を舉げ、燕・酸棗・虛・桃人を拔き、楚・燕の兵云翔して敢へて校せず、王の功亦た多し。王眾を申息すること二年、然る後之を復し、又蒲・衍・首垣を取り、以て仁・平兵に臨み、小黃・濟陽城を嬰(めぐ)らし、魏氏服せり。王又濮・磨の北を割きて之を燕に屬し、齊・秦の要を斷ち、楚・魏の脊を絕つ。天下五たび合し六たび聚まるも敢へて救はず、王の威亦た憚らる。王若し能く功を持し威を守り、攻伐の心を省きて仁義の誡を肥やし、復た後患無からしめば、三王も四に足らず、五伯も六に足らざらん。「王若し人徒の眾きを負み、兵甲の強きを材とし、壹に魏氏の威を毀ちて、力を以て天下の主に臣たらしめんと欲せば、臣恐らくは後患有らん。詩に云ふ、『初め有らざる靡く、克く終り有ること鮮し』と。易に曰く、『狐其の尾を濡らす』と。此れ始の易くして、終の難きを言ふなり。何を以て其の然るを知るや。智氏趙を伐つの利を見て、榆次の禍を知らざりき。吳齊を伐つの便を見て、干隧の敗を知らざりき。此の二國は、大功無きに非ざるなり、利を前に設けて、患を後に易くするなり。呉の越を信ずるや、從ひて齊を伐ち、既に齊人に艾陵に勝ちしも、還りて越王の爲に三江の浦に禽にせられたり。智氏韓・魏を信じ、從ひて趙を伐ち、晉陽の城を攻め、勝つこと日有らんとせしに、韓・魏之に反き、智伯瑤を鑿臺の上に殺せり。今王楚の毀たれざるを妒みて、楚を毀ちて魏を強くするを忘る。臣大王の爲に慮りて取らざるなり。詩に云ふ、『大武は遠宅に涉らず』と。此より之を觀れば、楚國は、援なり。鄰國は、敵なり。詩に云ふ、『他人心有り、予之を忖度す。躍躍たる毚兔、犬に遇ひて獲らる』と。今王中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣聞く、敵は易(あなど)る可からず、時は失ふ可からず、と。臣恐らくは韓・魏の辭を卑くして患を慮るは、實に大國を欺くならん。此れ何ぞや。王既に重世の德韓・魏に無くして、累世の怨有ればなり。韓・魏の父子兄弟踵を接して秦に死する者、百世なり。本國殘れ、社稷壞れ、宗廟隳(こぼ)たれ、腹を刳られ頤を折られ、首身分離し、骨を草澤に暴し、頭顱僵仆し、相ひ境に望み、父子老弱係虜せられて、相ひ路に隨ひ、鬼神狐祥食する所無く、百姓聊生せず、族類離散し、流亡して臣妾と爲る者、海內に滿つ。韓・魏の亡びざるは、秦社稷の憂ひなり。今王の楚を攻むる、亦た失(あやま)たざらんや。是れ王楚を攻むるの日、則ち惡(いづ)くにか兵を出ださん。王將に路を仇讎の韓・魏に藉らんとするか。兵出づるの日にして王其の反らざるを憂へば、是れ王兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に藉らずんば、必ず陽・右壤を攻めん。陽・右壤に隨へば、此れ皆廣川大水、山林谿谷の不食の地なり、王之を有すと雖も、地を得たりと爲さず。是れ王楚を毀つの名有りて、地を得るの實無きなり。「且つ王楚を攻むるの日、四國必ず應じて悉く起ちて王に應ぜん。秦・楚の構へて離れざるに、魏氏將に兵を出だして留・方與・銍・胡陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず盡きん。齊人南面し、泗北必ず舉げん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して王之をして獨り攻めしむ。王楚を破りて以て韓・魏を中國に肥やして齊を勁からしめば、韓・魏の強きは以て秦に校するに足らん。齊南は泗を以て境と爲し、東は海を負ひ、北は河に倚りて、後患無し、天下の國、齊より強きは莫し。齊・魏地を得て利を葆(たも)ち、詳らかに下吏に事へしめば、一年の後、帝と爲ること未だ能はざるが若きも、以て王の帝と爲るを禁ずるに餘り有らん。夫れ王の壤土の博きを以て、人徒の眾きを以て、兵革の強きを以て、一たび眾を舉げて地を楚に注ぎ、令を韓・魏に詘し、帝の重きを齊に歸せしむるは、是れ王の計を失ふなり。「臣王の爲に慮るに、楚に善くするに如くは莫し。秦・楚合して一と爲り、臨むに韓を以てせば、韓必ず首を授けん。王襟とするに山東の險を以てし、帶とするに河曲の利を以てせば、韓必ず關中の候たらん。是くの若くならば、王十を以て鄭を成し、梁氏心を寒くし、許・鄢陵城を嬰らし、上蔡・召陵往來せざらん。此くの如くならば、魏も亦た關內の候たらん。王一たび楚に善くせば、關內の二萬乘の主齊に地を注ぎ、齊の右壤拱手して取る可し。是れ王の地一に兩海を任じ、天下を要絕するなり。是れ燕・趙齊・楚無くんば、燕・趙無きなり。然る後燕・趙を危動し、齊・楚を持せば、此の四國は、痛みを待たずして服せん。」
現代語訳
楚の頃襄王二十年、秦の白起は楚の西陵を陥落させ、あるいは鄢・郢・夷陵をも陥落させて、先王の墓を焼き払った。頃襄王は東北へ移り、陳城に立てこもったが、楚はこうして次第に衰弱し、秦から軽んじられるようになった。そこで白起はさらに兵を率いて攻め込もうとしていた。楚の人に黄歇という者がおり、諸国に遊学して博識であったので、襄王は彼を弁舌に優れた人物と見なし、そこで秦への使者とした。黄歇は昭王に説いて言った。「天下に秦と楚より強い国はありません。今、大王が楚を討伐しようとしているとお聞きしましたが、これはあたかも二匹の虎が争って、駑馬の犬(第三国)がその隙に利益を得るようなものです、楚に対しては友好的にするに越したことはありません。私にその理由を申し上げさせてください。私はこう聞いております。『物事は極まれば反転する、冬と夏がそれです。危険が極まれば危うくなる、碁石を積み重ねるようなものがそれです。』今、大国の領土は天下の半分を占め、東西の二方の果てまで領有しています。これは人類が生まれて以来、万乗の大国でもかつてなかったことです。先代の文王・荘王、そして王ご自身の三代にわたって、斉と国境を接することなく、それによって斉と楚が合従して親しむ要となる道を断ち切ってきました。また王は三度、盛橋を遣わして韓の政務を守らせ、その管轄する地の以北は燕にまで及びました。これは王が武力を用いず、威を振るうことなく、百里の地を得たということであり、王はまことに巧みであったと言えます。王はまた甲兵を挙げて魏を攻め、大梁の城門を封鎖し、河内の地を制圧し、燕・酸棗・虚・桃人を陥落させ、楚・燕の軍は右往左往するばかりで敢えて対抗しませんでした、王の功績もまた多大なものです。王は二年間軍を休息させ、その後また兵を動かし、蒲・衍・首垣を攻め取って仁・平兵の地に迫り、小黄・済陽を城壁で包囲すると、魏はついに服属しました。王はさらに濮・磨の北の地を割いて燕に与え、斉と秦の連携の要を断ち切り、楚・魏の連絡を絶ちました。天下の諸侯は五度、六度と会盟を重ねても、あえて魏や楚を救おうとはせず、王の威勢はこれほどまでに恐れられているのです。もし王がこの功績を保持し威勢を守り、これ以上の攻伐の野心を控えて仁義の徳を養い、後々の禍いが生じないようにできるならば、三王でさえ四人目には及ばず、五覇でさえ六人目には及ばないほどの評価を得られるでしょう。「もし王が人民の多さを頼みとし、兵器の強さを頼りとして、ひたすら魏の威勢を打ち砕き、武力によって天下の君主たちを臣従させようとするならば、私はのちのちの禍いが生じることを恐れます。詩経に言います、『初めが良くないことはない、しかし最後までやり遂げられる者は少ない』と。易経に言います、『狐がその尾を水に濡らす』と。これは始めるのは易しいが、終えるのは難しいということを言っているのです。なぜそうだと分かるのでしょうか。智氏は趙を討伐する利益ばかりを見て、榆次での禍いを知りませんでした。呉は斉を討伐する好機ばかりを見て、干隧での敗北を知りませんでした。この二国は、大きな功績がなかったわけではありません、目先に利益を設けたことで、のちに禍いを招きやすくしてしまったのです。呉が越を信頼し、それに従って斉を討伐し、艾陵で斉軍に勝利したものの、帰路に三江の浦で越王に捕らえられました。智氏は韓・魏を信頼し、それに従って趙を討伐し、晋陽の城を攻めて、あと少しで勝利するというところまで至りましたが、韓・魏はこれに背き、智伯瑤を鑿台の上で殺害しました。今、王は楚が滅ぼされないことを妬みながら、楚を滅ぼすことがかえって魏を強くしてしまうことを忘れておられます。私は大王のために思慮を巡らせ、これは取るべき策ではないと考えます。詩経に言います、『大軍は遠方への遠征を軽々しく行わない』と。これから考えますと、楚国はあなたの援けとなる国であり、隣国こそが真の敵なのです。詩経に言います、『他人に思惑があるとき、私はそれを推し量る。跳びはねるずる賢い兎も、犬に出会えば捕らえられる』と。今、王が中途で韓・魏が王に対して好意的だと信じているのは、まさに呉が越を信頼したのと同じことです。私が聞くところでは、敵を侮ってはならず、好機を逃してはならないと言います。私が恐れるのは、韓・魏がへりくだった言葉で憂いを取り除こうとしているように見えて、実際には大国を欺いているのではないかということです。それはなぜでしょうか。王はこれまで韓・魏に対して代々の恩徳を施したことがなく、それどころか代々にわたる怨みを負わせてきたからです。韓・魏の父子兄弟が次々と秦によって死に追いやられたことは、もう百代にも及びます。彼らの本国は荒れ果て、社稷は崩壊し、宗廟は破壊され、腹を裂かれ顎を折られ、首と胴が引き離され、骨は草原にさらされ、頭蓋骨が累々と横たわり、互いに国境で見つめ合うありさまです。父子や老幼は捕虜となって、次々と道を連れられて行き、鬼神も供物を得られず、民は生きる術もなく、一族は離散し、流浪して奴隷の身に落ちた者が国中に満ちています。韓・魏が滅びずに存続しているのは、実は秦の国家にとっての憂いなのです。今、王が楚を攻めるのは、また誤りではないでしょうか。王が楚を攻めるその日、いったいどこから兵を出すのでしょうか。王はまさに仇敵である韓・魏に道を借りようとするのでしょうか。兵を出すその日に、王がそれが帰って来られないのではと心配するようなら、それは王が兵力を仇敵の韓・魏に貸し与えているようなものです。もし王が仇敵の韓・魏に道を借りないならば、必ず陽・右壌の方面を攻めることになります。しかし陽・右壌の方面は、いずれも広い川や大水、山林渓谷ばかりの、耕作に適さない土地です。王がこれを領有したとしても、実質的に土地を得たことにはなりません。これでは王は楚を滅ぼしたという名目だけを得て、実際に土地を得るという実質は伴わないのです。「さらに、王が楚を攻めるその日には、必ず斉・韓・魏・燕の四国がこぞって呼応して立ち上がり、王に対抗するでしょう。秦と楚が交戦して離れずにいる間に、魏は必ず兵を出して留・方与・銍・胡陵・碭・蕭・相を攻め、旧宋の地は必ず尽く奪われるでしょう。斉の軍は南下し、泗水の北も必ず攻め取られるでしょう。これらはいずれも四方に通じる平原の肥沃な土地であり、それを王だけが手をこまねいて見過ごすことになります。王が楚を破ることで、結果的に韓・魏を中原で肥え太らせ、斉を強大にしてしまえば、韓・魏の強大化は秦に対抗できるほどになってしまいます。斉は南は泗水を境とし、東は海を背負い、北は黄河に沿っており、後顧の憂いがありません、天下の国々の中で、斉より強い国はありません。斉・魏が土地を得てその利益を保持し、下級役人にまで統治を行き届かせれば、一年後には、たとえ帝を称するまでには至らなくとも、王が帝を称することを阻止するには十分な力を持つでしょう。そもそも王の広大な領土、多くの人民、強力な軍備をもってしても、一挙に大軍を動かして楚に注ぎ込み、韓・魏に対する命令を弱め、帝としての重みを斉に譲り渡してしまうのは、王の計略の誤りなのです。「私が王のためにお考えするに、楚と友好関係を結ぶに越したことはありません。秦と楚が結んで一体となり、韓に臨めば、韓は必ず降伏するでしょう。王が山東の険しい地形を襟のように身にまとい、黄河の曲がりの利を帯のように身につければ、韓は必ず関中の属国となるでしょう。このようになれば、王は韓の十の地をもって鄭の地を完成させ、魏はこれに心胆を寒からしめ、許・鄢陵は城に籠るばかりとなり、上蔡・召陵とは往来もできなくなるでしょう。こうなれば、魏もまた関内の属国となります。王が一度楚と友好関係を結べば、関内にいる魏・韓という二つの万乗の君主は斉に領土を求めるようになり、斉の西方の地は座して手をこまねくだけで取ることができます。これによって王の領土は東西二つの海に及び、天下の要衝を扼することになります。こうなれば燕・趙は斉・楚がなければ存立できなくなり、燕・趙も存立し得なくなります。そうなった後で燕・趙を脅かし、斉・楚を制すれば、この四国は痛手を受けるまでもなく服従するでしょう。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『新序』善謀第九楚黃歇を秦に使いせしむ。秦の昭王白起をして韓・魏を攻めしむ。韓・魏服して秦に事う。昭王方に白起をして韓・魏と共に楚を伐たしめんとす。黃歇適ミ至り、其の計を聞く。是の時秦已に白起をして楚を攻め數縣を取らしむ。楚の頃襄王東に徙る。黃歇書を秦の昭王に上る。秦をして遠く楚に交わりて韓・魏を攻めしめ、以て楚を解かんと欲す。其の書に曰く、天下秦・楚より强きは莫し。今王楚を伐たんと欲すと聞く。此れ猶お兩虎相い與に鬭うがごとし。兩虎相い與に鬭いて駑犬其の弊を受くるなり。楚を善くするに如かず。臣請う其の說を言わん。臣之を聞く、物至れば則ち反る、冬夏是れなり。高きを致せば則ち危うし、棊を累ぬる是れなり、と。今大國の地は天下に徧く、其の二垂を有つ。此れ生民より以來、萬乘の地、未だ嘗て有らざるなり。今王盛橋をして韓に守事せしむ。盛橋其の地を以て秦に入る。是れ王甲を用いず威を信べずして、百里の地を得るなり。王能くすと謂う可し。王又た甲を舉げて魏を攻め、大梁の門を杜ぎ、河内を舉げ、燕・酸棗・虚桃を攻め、邢に入る。魏の兵雲翔して敢えて救わず。王の功も亦た多し。王甲を休め衆を息わしめ、二年にして之を復す。滿・衍・首・垣を取り、以て仁・平丘・黃・濟陽・甄城に臨む有り。而して魏氏服す。王又た濮・歷の北を割き、之を秦齊の要に注ぎ、楚・趙の脊を絶つ。天下五たび合し六たび聚まるも敢えて相い救わず。王の威も亦た單くせり。
-
戦国策・張儀為秦破從連橫張儀、秦の為に従を破りて連衡し、楚王に説きて曰わく、「秦の地天下に半ばし、兵四国に敵し、山を被り河を帯び、四塞以て固と為す。虎賁の士百余万、車千乗、騎万疋、粟丘山の如し。法令既に明らかにして、士卒難に安んじ死を楽しむ。主厳にして以て明らかに、将知にして以て武し。兵甲を出だす無しと雖も、常山の険を席巻し、天下の脊を折らば、天下後に服する者は先んじて亡びん。且つ夫れ従を為す者は、群羊を駆りて猛虎を攻むるに異なる無きなり。夫れ虎の羊に与するや、格せざること明らかなり。今大王猛虎に与せずして群羊に与す、竊かに以て大王の計過てりと為す。「凡そ天下の強国は、秦に非ずんば楚、楚に非ずんば秦なり。両国敵侔して交争し、其の勢い両立せず。而して大王秦に与せずんば、秦甲兵を下し、宜陽に拠り、韓の上地通ぜず、河東に下り、成皋を取らば、韓必ず秦に入臣せん。韓入臣すれば、魏則ち風に従いて動かん。秦楚の西を攻め、韓・魏其の北を攻めば、社稷豈に危うき無きを得んや。「且つ夫れ従を約する者は、群弱を聚めて至強を攻むるなり。夫れ弱を以て強を攻め、敵を料らずして軽く戦い、国貧しくして驟に兵を挙ぐるは、此れ危亡の術なり。臣之を聞く、兵如かざれば、与に挑戦する勿かれ、粟如かざれば、与に持久する勿かれと。夫れ従人なる者は、辯を飾り辞を虚しくし、主の節行を高くし、其の利を言いて其の害を言わず、卒に楚の禍い有るも、為す無きに及ばんのみ、是を以て願わくは大王の熟ら之を計られんことを。「秦西のかた巴蜀有り、船を方べて粟を積み、汶山より起こり、江に循いて下れば、郢に至ること三千余里。舫船卒を載せ、一舫五十人を載せ、三月の糧を与え、水を下りて浮かべば、一日行くこと三百余里、里数多しと雖も、馬汗の労を費やさず、十日に至らずして扞関に距らん。扞関驚けば、則ち竟陵より已東、尽く城守せん、黔中・巫郡は王の有に非ざるのみ。秦甲を挙げて之を武関より出だし、南面して攻めば、則ち北地絶えん。秦兵の楚を攻むるや、危難三月の内に在り。而るに楚は諸侯の救いを恃むも、半歳の外に在り、此れ其の勢い相い及ばざるなり。夫れ弱国の救いを恃みて、強秦の禍いを忘るるは、此れ臣の大王の為に患うる所以なり。且つ大王嘗て呉人と五戦して三勝して之を亡ぼすも、陳卒尽きたり、偏に新城を守るありて居民苦しめり。臣之を聞く、大を攻むる者は危うくなり易く、民弊るる者は上を怨むと。夫れ危うくなり易きの功を守りて、強秦の心に逆らうは、臣竊かに大王の為に之を危ぶむ。「且つ夫れ秦の甲を函谷関に出ださずして十五年、以て諸侯を攻めざる所以の者は、陰謀天下を呑むの心有ればなり。楚嘗て秦と難を構え、漢中に戦う。楚人勝たず、通侯・執珪死する者七十余人、遂に漢中を亡う。楚王大いに怒り、師を興して秦を襲い、藍田に戦うも、又郤く。此れ所謂両虎相い搏つ者なり。夫れ秦・楚相い弊れて、韓・魏全きを以て其の後を制せば、計此に過ぐる者無し、是を以て願わくは大王熟ら之を計られんことを。「秦兵を下して衛・陽晉を攻めば、必ず天下の匈を開扃せん、大王悉く兵を起こして以て宋を攻めば、数月に至らずして宋挙ぐべし。宋を挙げて東を指せば、則ち泗上十二諸侯、尽く王の有ならんのみ。「凡そ天下信じて従親堅しと為す所の者は蘇秦なり、封ぜられて武安君と為り燕に相たりしも、即ち陰かに燕王と斉を破りて共に其の地を分かたんことを謀る。乃ち罪有るを佯りて、出でて走りて斉に入る、斉王因りて受けて之を相とす。居ること二年にして覚れ、斉王大いに怒り、蘇秦を市に車裂す。夫れ一詐偽反覆の蘇秦を以て、天下を経営し、諸侯を混一せんと欲するは、其の成るべからざること亦た明らかなり。「今秦の楚に与するや、境を接し壌を界し、固に形親の国なり。大王誠に能く臣に聴かば、臣請う秦の太子をして楚に入質せしめ、楚の太子をして秦に入質せしめ、請う秦の女を以て大王の箕箒の妾と為し、万家の都を効し、以て湯沐の邑と為し、長く昆弟の国と為り、終身相い攻撃すること無からんことを。臣以為えらく計此より便なる者無しと。故に敝邑の秦王、使臣をして書を大王の従車の下風に献ぜしめ、須って以て事を決せんことを。」楚王曰わく、「楚国僻陋にして、東海の上に託す。寡人年幼くして、国家の長計に習わず。今上客幸いに教うるに明制を以てす、寡人之を聞き、敬んで国を以て従わん。」乃ち使いを遣わして車百乗、雞駭の犀、夜光の璧を秦王に献ず。
-
『新序』善謀第九臣王の爲に慮るに、楚を善くするに若くは莫し。秦・楚合して一と爲りて以て韓に臨まば、韓必ず拱手せん。王之に施すに東山の險を以てし、帶ぶるに曲河の利を以てせば、韓必ず關内の侯と爲らん。是くの若くにして王十萬を以て鄭を伐たば、梁氏心を寒くし、許・鄢陵・嬰城し、而して上蔡・召陵往來せざるなり。此くの如くして魏も亦た關内の侯ならん。王一たび楚を善くして關内に兩萬乘の王あり。地を齊に注入せば、齊の右壤拱手して取る可きなり。王の地一たび兩海に桎り、天下を要約す。是れ燕・趙に齊・楚無く、齊・楚に燕・趙無し。然る後に燕・趙を危動し、直ちに齊・楚を揺るがす。此の四國は、痛みを待たずして服するなり、と。昭王曰く、善し、と。是に於いて乃ち白起を止め、韓・魏を謝し、使いを發して楚に賂い、約して與國と爲す。黃歇約を受けて楚に歸る。楚を弱むるの禍を解き、秦を彊むるの兵を全うす。黃歇の謀なり。
-
戦国策・魏將與秦攻韓魏将(まさ)に秦と与(とも)に韓を攻めんとす、朱己魏王に謂いて曰く、「秦は戎・翟と俗を同じくし、虎狼の心有り、貪戾(たんれい)にして利を好みて信無く、礼義徳行を識らず。苟(いやし)くも利有れば、親戚兄弟を顧みず、禽獣の若きのみ。此れ天下の同じく知る所なり、厚く徳を積むを施す所に非ざるなり。故に太后は母なり、而れども以て憂いて死す。穰侯は舅(きゅう)なり、功之より大なるは莫し、而れども竟(つい)に之を逐(お)う。両弟罪無し、而れども再び其の国を奪う。此れ其の親戚兄弟に於いて此くの若し、而るを又況んや仇讎(きゅうしゅう)の敵国に於いてをや。今大王秦と与に韓を伐ちて益々秦に近づけば、臣甚だ之を或(うたが)う、而れども王識らざれば、則ち明ならず。群臣之を知りて、之を以て諫むる莫ければ、則ち忠ならず。今夫れ韓氏一女子を以て一弱主を承(う)け、内に大乱有り、外安んぞ能く強秦・魏の兵を支えんや、王以て破れずと為すか。韓亡べば、秦尽く鄭地を有し、大梁と鄰(とな)らん、王以て安しと為すか。王故地を得んと欲して、今強秦の禍を負う、王以て利と為すか。秦は無事の国に非ざるなり、韓亡びし後、必ず且に事を便(たよ)りにせんとし、事を便りにせば、必ず易きと利とに就かん、易きと利とに就かば、必ず楚と趙とを伐たざらん。是れ何ぞや。夫れ山を越え河を踰(こ)え、韓の上党を絶ちて強趙を攻むるは、則ち是れ復た閼与(あつよ)の事なり、秦必ず為さざるなり。若し河内を道(みち)とし、鄴・朝謌に倍(そむ)き、漳・滏の水を絶ちて、以て趙兵と邯鄲の郊に決勝せば、是れ智伯の禍を受くるなり、秦又敢えてせず。楚を伐つに、涉を道とし谷行すること三十里にして、危隘の塞を攻めば、行く所の者甚だ遠くして、攻むる所の者甚だ難し、秦又為さざるなり。若し河外を道とし、大梁に背き、上蔡・召陵を右にして、以て楚兵と陳の郊に決せば、秦又敢えてせざるなり。故に曰く、秦必ず楚と趙とを伐たず、又衛と齊とを攻めず、と。且つ夫れ韓を憎みて安陵氏を受けざるは可なり、夫れ秦の南国を愛せざるを患えざるは非(ひ)なり。異日には、秦乃ち河西に在り、晋国の梁を去ること、千里有余にして、河山以て之を蘭(さえぎ)り、周・韓有りて之を間(へだ)つ。林軍より以て今に至るまで、秦十たび魏を攻め、五たび国中に入り、辺城尽く抜かる。文台墮(やぶ)れ、垂都焚(や)かれ、林木伐られ、麋鹿(びろく)尽き、而して国継ぐに囲みを以てす。又長駆して梁の北にいたり、東は陶・衛の郊に至り、北は闞(かん)に至り、秦に亡う所の者、山北・河外・河内、大県数百、名都数十なり。秦乃ち河西に在り、晋国の大梁を去ること尚お千里にして、禍此くの若し。又況んや秦をして韓無くして鄭地を有たしめ、河山以て之を蘭る無く、周・韓以て之を間つる無く、大梁を去ること百里なれば、禍必ず此に百せんをや。異日には、従(しょう)成らずして、楚・魏疑い、韓約するを得可からざりき。今韓兵を受くること三年なり、秦之を撓(みだ)すに講を以てす、韓亡ぶるを知りて、猶お聴かず、質を趙に投じ、天下の為に雁行頓刃(がんこうとんじん)せんことを請う。臣の観る所を以てすれば、則ち楚・趙必ず之に与(くみ)して攻めん。此れ何ぞや。則ち皆秦の窮まり無きを知ればなり、尽く天下の兵を亡ぼし、海内の民を臣とするに非ざれば、必ず休まざるなり。是の故に臣願わくは以て王に従事せん、王速やかに楚・趙の約を受け、韓・魏の質を挟みて、韓を存するを務めと為し、因りて故地を韓に求めば、韓必ず之を効(いた)さん。此くの如くば則ち士民労せずして故地を得、其の功秦と共に韓を伐つより多くして、然れども強秦と鄰(とな)るの禍無し。夫れ韓を存し魏を安んじて天下を利するは、此れ亦た王の大時なり。韓の上党を共・莫に通じ、道をして已に通ぜしめ、因りて之に関し、出入する者之に賦せば、是れ魏重ねて韓を其の上党を以て質とするなり。共に其の賦有らば、以て国を富ますに足り、韓必ず魏に徳とし、魏を愛し、魏を重んじ、魏を畏れ、韓必ず敢えて魏に反せず。韓は是れ魏の県なり。魏韓を得て以て県と為せば、則ち衛・大梁・河外必ず安からん。今韓を存せざれば、則ち二周必ず危うく、安陵必ず易(か)わらん。楚・趙楚大いに破れ、衛・齊甚だ畏れ、天下の西のかた秦に馳(は)せ、入朝して臣と為るの日久しからざらん。」
-
戦国策・五國伐秦五国秦を伐ちて、功無くして還る。其の後、齊宋を伐たんと欲するも、秦之を禁ず。齊宋郭をして秦に之(ゆ)かしめ、合して以て宋を伐たんことを請わしむ。秦王之を許す。魏王齊・秦の合するを畏れ、秦に講ぜんと欲す。魏王に謂いて曰く、「秦王宋郭に謂いて曰く、『宋の城を分かち、宋の強きに服する者は、六国なり。宋の敝に乗じて、王と得るを争う者は、楚・魏なり。請う王の為に楚の魏を伐つを禁ずる無く、王独り宋を挙げよ。王の宋を伐つや、請う剛柔皆之を用いよ。宋の如き者は、之を欺きて逆と為さざる者にして、之を殺して讎(あだ)と為さざる者なり。王之と講じて以て埊(ち)を取る無く、既に已に埊を得ば、又力を以て之を攻め、宋を啗(くら)うに期するのみ』と。臣此の言を聞きて、竊(ひそ)かに王の為に悲しむ、秦必ず且に此を王に用いんとす。又必ず且に王を以て埊を求めしめ、既に已に埊を得ば、又且に力を以て王を攻めんとす。又必ず王に謂いて王をして齊を軽んぜしめ、齊・魏の交已に醜(あ)しく、又且に齊を収めて更に王に索(もと)めんとす。秦嘗て此を楚に用い、又嘗て此を韓に用いたり、願わくは王の之を深く計らんことを。秦の魏を善しとするは知る可からざるのみ。故に王の為に計るに、太上は秦を伐ち、其の次は秦を賓(しりぞ)け、其の次は約を堅くして詳らかに講じ、与国相離るる無かれ。秦・齊合すれば、国為す可からざるのみ。王其れ臣に聴かば、必ず与に講ずる無かれ。「秦の権魏に重ければ、魏再び明孰(めいじゅく)せんとするも、是の故に又足下の為に秦を傷る者、敢えて顕(あらわ)さざるなり。天下秦を伐たしむ可ければ、則ち陰かに勧めて敢えて図らず。天下の秦を傷るを見れば、則ち先ず与国を鬻(ひさ)ぎて以て自ら解く。天下秦を賓せしむ可ければ、則ち与国に劫(おびやか)されて已むを得ざる者と為る。天下不可なれば、則ち先ず去りて、秦を以て上交と為して以て自ら重んず。此くの如き人なる者は、王を鬻ぎて以て資と為す者なり、而して焉んぞ能く国を患いより免れしめんや。国を患いより免れしむる者は、必ず三節を窮め、其の上を行う。上不可なれば、則ち其の中を行う。中不可なれば、則ち其の下を行う。下不可なれば、則ち明らかに秦に与(くみ)せず。而して生きて以て秦を残(そこな)い、秦をして皆百怨百利無く、唯だ已(おのれ)の曾(すなわ)ち安からしめん。足下をして之を鬻ぎて以て秦に合せしめば、是れ国を患いより免れしむる者の計なり。臣何ぞ以て之に当たるに足らんや。然りと雖も、願わくは足下の臣が計を論ぜんことを。「燕は齊の讎国なり、秦は兄弟の交わりなり。讎国を合して婚姻を伐つは、臣之が為に苦しむ。黄帝涿鹿の野に戦いて、西戎の兵至らず、禹三苗を攻めて、東夷の民起たず。燕を以て秦を伐つは、黄帝の難んずる所なり、而して臣以て燕甲を致して齊兵を起こせり。「臣又偏(ひとえ)に三晋の吏に事(つか)え、奉陽君・孟嘗君・韓呡・周聚・周・韓餘徒従と為して之を下し、其の秦を伐つの疑いを恐る。又身自ら秦に醜(は)じ、之を扮(あつ)め天下の秦符を焚くを請う者は、臣なり。次いで焚符の約を伝うる者は、臣なり。五国をして秦関を閉じしめんと欲する者は、臣なり。奉陽君・韓餘既に和せり、蘇脩・朱嬰既に皆陰かに邯鄲に在り、臣又齊王に説きて往きて之を敗る。天下共に講じ、因りて蘇脩をして天下の語を游(と)かしめ、齊を以て上交と為し、兵宋を伐たんことを請うも、臣又之を争うに死を以てす。而して果たして西のかた蘇脩に因りて重報す。臣秦の勧めの重きを知らざるに非ざるなり、然れども之を為す所以の者は、足下の為なり」と。
-
戦国策・謂秦王秦王に謂ひて曰く、「臣竊かに王の齊を輕んじ楚を易んじて、韓を卑しみ畜ふを惑ふ。臣聞く、王者は兵勝ちて驕らず、伯主は約して忿らず、と。勝ちて驕らざれば、故に能く世を服せしめ、約して忿らざれば、故に能く鄰に從はしむ。今王、德を魏・趙に廣くして、齊を輕々しく失ふは驕なり。宜陽に戰ひ勝ちて、楚との交はりを恤へざるは忿なり。驕忿は伯主の業に非ざるなり。臣竊かに大王の為に之を慮りて取らざるなり。「詩に云ふ、『初有らざる靡く、克く終ふる有ること鮮し』と。故に先王の重んずる所の者は、唯だ始めと終はりとのみ。何を以て其の然るを知るや。昔智伯瑤、范・中行を殘し、晉陽を圍逼して、卒に三家の笑ひと為れり。吳王夫差、越を會稽に棲ましめ、齊に艾陵に勝ち、黃池の遇を爲し、宋に無禮にして、遂に勾踐と禽にせられ、干隧に死せり。梁君、楚を伐ちて齊に勝ち、趙・韓の兵を制し、十二諸侯を驅りて天子に孟津に朝せしめしも、後に子死して、身は布冠して秦に拘せらる。三者は功無きに非ざるなり、能く始めて能く終はらざるなり。「今王、宜陽を破り、三川を殘して、天下の士をして敢へて言はざらしめ、天下の國を雍ぎ、兩周の疆を徙して、世主をして敢へて陽侯の塞に交はらざらしめ、黃棘を取りて、韓・楚の兵をして敢へて進まざらしむ。王若し能く此の尾を為さば、則ち三王も四に足らず、五伯も六に足らず。王若し能く此の尾を為す能はずして、後患有らば、則ち臣恐らくは諸侯の君、河・濟の士、王を以て吳・智の事と為さんことを。「詩に云ふ、『百里を行く者は九十を半ばとす』と。此れ末路の難きを言ふなり。今大王皆な驕色有り、臣の心を以て之を觀るに、天下の事、世主の心に依らば、楚兵を受くるに非ざれば、必ず秦なり。何を以て其の然るを知るや。秦人は魏を援けて以て楚を拒み、楚人は韓を援けて以て秦を拒み、四國の兵敵して、未だ復た戰ふ能はざるなり。齊・宋は繩墨の外に在りて以て權を為す、故に曰く、先に齊・宋を得る者は秦を伐つ、と。秦先に齊・宋を得れば、則ち韓氏鑠け、韓氏鑠くれば、則ち楚孤にして兵を受く。楚先に齊を得れば、則ち魏氏鑠け、魏氏鑠くれば、則ち秦孤にして兵を受けん。若し此の計に隨ひて之を行はば、則ち兩國なる者必ず天下の笑ひと為らん。」