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史記 / 楚世家

呉王聞之大怒,亦發兵,使公子光因建母家攻楚,遂滅鐘離、居巣。楚乃恐而城郢。十三年,平王卒。將軍子常曰:「太子珍少,且其母乃前太子建所當娶也。」欲立令尹子西。子西,平王之庶弟也,有義。子西曰:「國有常法,更立則亂,言之則致誅。」乃立太子珍,是爲昭王。昭王元年,楚衆不説費無忌,以其讒亡太子建,殺伍奢子父與郤宛。宛之宗姓伯氏子及子胥皆奔呉,呉兵數侵楚,楚人怨無忌甚。楚令尹子常誅無忌以説衆,衆乃喜。四年,呉三公子奔楚,楚封之以捍呉。五年,呉伐取楚之六、潛。七年,楚使子常伐呉,呉大敗楚於豫章。十年冬,呉王闔閭、伍子胥、伯與唐、蔡倶伐楚,楚大敗,呉兵遂入郢,辱平王之墓,以伍子胥故也。呉兵之來,楚使子常以兵迎之,夾漢水陣。呉伐敗子常,子常亡奔鄭。楚兵走,呉乘勝逐之,五戰及郢。己卯,昭王出奔。庚辰,呉人入郢。昭王亡也至雲夢。雲夢不知其王也,射傷王。王走鄖。鄖公之弟懷曰:「平王殺吾父,今我殺其子,不亦可乎?」鄖公止之,然恐其弒昭王,乃與王出奔隨。呉王聞昭王往,卽進撃隨,謂隨人曰:「周之子孫封於江漢之閒者,楚盡滅之。」欲殺昭王。王從臣子綦乃深匿王,自以爲王,謂隨人曰:「以我予呉。」

新字:呉王聞之大怒,亦発兵,使公子光因建母家攻楚,遂滅鐘離、居巣。楚乃恐而城郢。十三年,平王卒。将軍子常曰:「太子珍少,且其母乃前太子建所当娶也。」欲立令尹子西。子西,平王之庶弟也,有義。子西曰:「国有常法,更立則乱,言之則致誅。」乃立太子珍,是為昭王。昭王元年,楚衆不説費無忌,以其讒亡太子建,殺伍奢子父与郤宛。宛之宗姓伯氏子及子胥皆奔呉,呉兵数侵楚,楚人怨無忌甚。楚令尹子常誅無忌以説衆,衆乃喜。四年,呉三公子奔楚,楚封之以捍呉。五年,呉伐取楚之六、潜。七年,楚使子常伐呉,呉大敗楚於予章。十年冬,呉王闔閭、伍子胥、伯与唐、蔡倶伐楚,楚大敗,呉兵遂入郢,辱平王之墓,以伍子胥故也。呉兵之来,楚使子常以兵迎之,夾漢水陣。呉伐敗子常,子常亡奔鄭。楚兵走,呉乗勝逐之,五戦及郢。己卯,昭王出奔。庚辰,呉人入郢。昭王亡也至雲夢。雲夢不知其王也,射傷王。王走鄖。鄖公之弟懐曰:「平王殺吾父,今我殺其子,不亦可乎?」鄖公止之,然恐其弒昭王,乃与王出奔随。呉王聞昭王往,即進撃随,謂随人曰:「周之子孫封於江漢之閒者,楚尽滅之。」欲殺昭王。王従臣子綦乃深匿王,自以為王,謂随人曰:「以我予呉。」

書き下し

呉王之を聞きて大いに怒り、亦た兵を発し、公子光をして建の母の家に因りて楚を攻めしめ、遂に鐘離・居巣を滅ぼす。楚乃ち恐れて郢に城く。十三年、平王卒す。将軍子常曰く、「太子珍は少く、且つ其の母は乃ち前の太子建の当に娶るべき所なり」と。令尹子西を立てんと欲す。子西は、平王の庶弟なり。義有り。子西曰く、「国に常法有り。更に立つれば則ち乱れん。之を言へば則ち誅を致さん」と。乃ち太子珍を立つ。是を昭王と為す。昭王の元年、楚の衆費無忌を説ばず。其の讒して太子建を亡げしめ、伍奢子父と郤宛を殺ししを以てなり。宛の宗姓伯氏の子及び子胥皆呉に奔る。呉の兵数々楚を侵す。楚人無忌を怨むこと甚だし。楚の令尹子常無忌を誅して以て衆を説ばしむ。衆乃ち喜ぶ。四年、呉の三公子楚に奔る。楚之を封じて以て呉を捍がしむ。五年、呉伐ちて楚の六・潜を取る。七年、楚子常をして呉を伐たしむ。呉大いに楚を豫章に敗る。十年冬、呉王闔閭・伍子胥・伯(伯嚭)唐・蔡と倶に楚を伐つ。楚大いに敗れ、呉の兵遂に郢に入り、平王の墓を辱む。伍子胥の故を以てなり。呉の兵の来たるや、楚子常をして兵を以て之を迎へしめ、漢水を夾みて陣す。呉伐ちて子常を敗る。子常亡げて鄭に奔る。楚の兵走る。呉勝ちに乗じて之を逐ひ、五たび戦ひて郢に及ぶ。己卯、昭王出奔す。庚辰、呉人郢に入る。昭王亡げて雲夢に至る。雲夢其の王なるを知らず、射て王を傷つく。王鄖に走る。鄖公の弟懐曰く、「平王吾が父を殺す。今我其の子を殺す。亦た可ならずや」と。鄖公之を止む。然れども其の昭王を弑せんことを恐れ、乃ち王と出でて随に奔る。呉王昭王の往くを聞き、即ち進みて随を撃ち、随人に謂ひて曰く、「周の子孫の江漢の間に封ぜらるる者、楚尽く之を滅ぼせり」と。昭王を殺さんと欲す。王の従臣子綦乃ち深く王を匿し、自ら以て王と為し、随人に謂ひて曰く、「我を以て呉に予へよ」と。

現代語訳

呉王はこれを聞いて大いに怒り、兵を出して公子光に、太子建の母の実家を足がかりに楚を攻めさせ、ついに鐘離と居巣を滅ぼした。楚は恐れて郢に城壁を築いた。十三年、平王が亡くなった。将軍の子常は言った。「太子の珍はまだ幼く、しかもその母は、もともと前の太子建が娶るはずだった女性だ」。そして令尹の子西を王に立てようとした。子西は平王の異母弟で、義を重んじる人物であった。子西は言った。「国には定まった決まりがある。それを変えて別の者を立てれば国が乱れる。そんなことを口にすれば誅されるだろう」。こうして太子の珍を立てた。これが昭王である。昭王の元年、楚の人々は費無忌を嫌った。彼が讒言によって太子建を国外に追いやり、伍奢父子と郤宛を殺させたからである。郤宛の同族の伯氏の子(伯嚭)と伍子胥はみな呉に逃れ、呉の兵はたびたび楚に攻め込んできた。楚の人々は費無忌をひどく恨んだ。楚の令尹の子常は費無忌を誅殺して人々の心をなだめ、人々はようやく喜んだ。四年、呉の三人の公子が楚に亡命してきた。楚は彼らに領地を与えて呉を防がせた。五年、呉は楚を攻めて六と潜を取った。七年、楚は子常に呉を攻めさせたが、呉は豫章で楚を大いに破った。十年の冬、呉王闔閭・伍子胥・伯嚭は、唐・蔡とともに楚を攻めた。楚は大敗し、呉の兵はついに郢に入り、平王の墓を辱めた。伍子胥の恨みによるものである。呉軍が来たとき、楚は子常に兵を率いて迎え撃たせ、漢水を挟んで陣を敷いた。呉は攻撃して子常を破り、子常は鄭に逃れた。楚軍は敗走し、呉は勝ちに乗じて追撃し、五度戦って郢に達した。己卯の日、昭王は都を出て逃れた。庚辰の日、呉軍が郢に入った。昭王は逃れて雲夢の沢に至ったが、そこの人々は王だとは知らずに矢を射て王を傷つけた。王は鄖に逃れた。鄖公の弟の懐は言った。「平王は私の父を殺した。いま私がその子を殺しても、よいではないか」。鄖公はこれを止めたが、懐が昭王を殺すことを恐れ、王とともに随に逃れた。呉王は昭王が随へ行ったと聞くと、すぐに随を攻め、随の人々に言った。「周の子孫で長江と漢水の間に封じられた国は、楚がことごとく滅ぼした」。そして昭王を殺そうとした。王の従臣の子綦は王を奥深くにかくまい、自分が王になりすまして随の人々に言った。「私を呉に引き渡せ」。

解説

伍子胥の復讐によって楚の都が陥落する段です。平王の死後、子常は幼い太子珍の母がもともと太子建の妻となるはずだった女性であることを問題にし、義に厚い子西を王に立てようとしますが、子西は「定まった決まりを変えれば国が乱れる」と断り、昭王が即位しました。昭王の時代、人々は讒言で太子を追い、多くの者を殺させた費無忌を憎み、ついに子常が費無忌を処刑します。しかし時すでに遅く、呉に逃れた伍子胥と伯嚭は呉王闔閭を助けて楚を攻め、呉軍は五度の戦いで都の郢に入りました。伍子胥が平王の墓を辱めたのは、父と兄を殺された恨みを晴らすためでした。昭王は逃亡中に民に射られ、平王に父を殺された鄖公の弟からも命を狙われます。最後に従臣の子綦が身代わりになろうとする場面は、危機における忠誠の姿です。一人の讒言が生んだ恨みが、最後には国の都を落とすまでに膨らんだのです。人の恨みを軽く見てはならないという、痛烈な教訓です。

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